第1話 第一章「上を指す針」前編

世界の端というものは、たいてい地図を作る側の都合で決まる。

 海の向こうを知らない時代には海岸線が端だった。山を越えられない時代には峠が端だった。役所が住所を振らなかった路地は、そこに家があり、人が暮らし、朝ごとに味噌汁の湯気が立っていても、書類の上では世界の外だった。

 だから凪野ハルの父が、

「世界には、まだ誰も見つけていない端っこがある」

 と言ったとき、その言葉は七歳の子供に聞かせる冒険談としては上等であり、家族へ残す説明としては最低だった。

 八年前の夏である。

 父、凪野ソウジは真鍮の羅針盤をハルの手へ載せた。掌に収まる円盤はひどく古び、蓋には七つの小さな星と、その中央に星のない円が刻まれていた。

「帰ったら、端っこの石を土産にする。約束だ」

「どれくらいで帰る?」

「そうだな。おまえが、この羅針盤をまともに読めるようになる前には」

「壊れてるじゃん、これ」

「なら一生帰れないな」

「帰れよ!」

 笑った父の歯が、夏の光を弾いた。

 それが最後だった。

 約束には、期限を書いておくべきである。

 八年後の凪野ハルは、そこだけは父より賢くなっていた。

「午後六時四十分まで。六時四十一分になったら、見つからなくても一度連絡」

「見つけてから連絡じゃだめ?」

「だめ。見つけられないという情報も情報です」

「母親の口調じゃなくて配車係の口調になってる」

「凪野ハル様。苦情は配送票の裏面へご記入ください」

「怒ってる時の敬語だ」

「分かるなら、傘を持ちなさい」

 神奈川県凪浜市。海と丘に挟まれた古い商店街の端に、凪浜配送店――通称「ナギ便」はあった。

 店舗一階は受付と荷捌き場、二階は住居。黄色い軽トラックが一台。社員は店主の凪野ナツミ一名。高校入学を三日後に控えた臨時手伝いが一名。すなわち、いま紺の飛行ジャケットでも制服でもなく、くたびれた濃紺パーカーに赤いマフラーを巻いているハルである。

 店の奥には、三日後から着る高校の制服が、透明な袋へ入ったまま吊られていた。

 濃紺の上着、銀灰色のズボン、胸にはまだ校章を付けていない。ナツミは昨夜、「試着だけでもしておきなさい」と言った。ハルは「サイズは測った」と答えた。今朝は「袖が長かったらどうする」と言われ、「腕を伸ばす」と答えた。昼には会話が「裾上げは成長では追いつかない」という現実的な指導へ発展し、制服は結局、袋から出なかった。

「高校、楽しみ?」

 荷札へ住所を書きながら、ナツミが訊いた。

「三日後の俺に聞いて」

「三日後のあなたも、今日のあなたが行かないと存在しません」

「哲学?」

「出欠管理」

「友達はたぶんできる」

「質問へ答えていない」

「母さん、最近その言い方好きだな」

「あなたが最近、答えないからです」

 楽しみではないわけではない。

 新しい校舎、新しい道、新しい屋上。知らない場所には、まだ失敗した記憶がない。反対に、父のことを何も知らない同級生へ、最初から説明する面倒もある。

 父親は?

 いない。

 亡くなったの?

 分からない。

 離婚?

 違う。

 じゃあ、どこ?

 それが分かれば、会話はもっと短い。

 店の事務机には、古い捜索願の控えが一冊分あった。警察への届出、港の監視映像、当時の交通記録、父が最後に受けた荷物、通話履歴。ナツミは八年間、一度も捨てず、同時に毎日開くこともしなかった。

 探すことと、探す以外をしないことは違う。

 彼女はその違いを、生活の形で息子へ教えた。

「今日の夜、カレーでいい?」

「父さんの辛いやつ?」

 言ってから、ハルはしまったと思った。

 ナツミは鉛筆を止めなかった。

「あなたの辛くないやつ。あの人の香辛料瓶は、とっくに賞味期限切れです」

「捨てた?」

「中身は。瓶は輪ゴム入れ」

「現実的」

「待つために台所を博物館にする気はありません」

 事務机の横には椅子が三脚ある。二脚は毎日使う。残る一脚も、荷物を置き、伝票を数え、客が来れば座ってもらう。

 空席として保存しない。

 誰かが帰ったときに座る場所は、帰るまで誰にも使わせない場所である必要はない。

 ナツミは送り状を一枚、ハルへ投げた。

「ついでに、この薬を海坂診療所へ。先方へは七時までと伝えてあります。鳥が長引いたら私が行くので、六時四十分の連絡時に状況を言う」

「鳥と薬、優先は?」

「薬」

「即答」

「命に近い荷物から」

「鳥も命だ」

「だから私が引き継ぐ手順を決めたでしょう」

 ハルは送り状の角を揃え、配達鞄の内ポケットへ入れた。荷物を預かる時、宛名、期限、壊れ物、温度、受取方法を声に出して確かめる。幼い頃から店で見てきた癖だ。

 約束は気持ちだけでは届かない。

 宛先と期限と、届かなかった時の手順がいる。

「海坂診療所、吸入薬一箱、七時まで。鳥捜索は六時四十分で一度連絡。見つからなければ引き継ぎ」

「よろしい」

「褒め方が配車係」

「店主です」

「母親は?」

「帰宅後に営業します」

 店先の兄妹の母親が、申し訳なさそうに頭を下げた。

「こんな雨の前に、本当にごめんなさい」

 ナツミは首を振る。

「捜索料は二時間分。見つからなくても同じです」

「見つからなかったのに払うんですか」と兄が不安そうに訊く。

「探した時間へ払います。見つかった幸運へ値段を付けると、見つからない人が損をします」

 ハルが横から言う。

「母さん、子供へ経営哲学を教えないで」

「お金の話を隠す方が、あとで怖いでしょう」

「それはそう」

 兄は小さな財布から十円玉を一枚出した。

「これ、ハル兄ちゃんのぶん」

「前払い?」

「シロが噛んだら治療費」

「鳥への信用が低いな」

「よく噛む」

「重要情報、先に言って」

 ハルは十円玉を返し、代わりに鳥の好物を聞いた。粟、青菜、鏡、妹の赤い髪留め。鏡を見ると自分へ求愛し、髪留めを見ると盗む。

「恋と犯罪が近い鳥だな」

「ハル兄ちゃんみたい」と妹。

「俺、何も盗んでない」

「屋根の道」

「道は盗めない」

 ナツミが言う。

「瓦の寿命は盗んでいます」

 ハルは笑い、兄妹の目線までしゃがんだ。

「見つけたら、この籠へ戻す。見つからなかったら、最後に見た場所を地図にして持ってくる。どっちでも、六時四十分に一回報告。これでいい?」

 二人はうなずいた。

 絶対という言葉がなくても、約束は弱くならない。

 むしろ輪郭を持つ。

 店を出る直前、ハルは父の羅針盤を鞄の底から一度取り出した。

 蓋を三回叩く。

 かち、かち、かち。

 針はだらしなく半回転し、東でも西でもない棚の下を指した。

「また壊れてる」

 その方向をのぞくと、朝から探していた自転車の鍵が落ちていた。

 ナツミが眉を上げる。

「壊れ方に一貫性がある」

「見つけたんだから認めろよ」

「北を指してから羅針盤と名乗りなさい」

「北より鍵の方が役に立つ日もある」

「北はなくなりません。鍵はあなたがなくします」

 ハルは鍵を、落ちる前に置いたはずの受付台へ一度戻した。

 それからポケットへ入れる。

 最後に正しかった場所を確かめてから、次へ運ぶ。

 父が帰らない理由を、まだ見つけられない少年の、小さな儀式だった。

 ハルは開いた段ボールへ白い鳥籠を入れ、底を二度叩いた。母の癖を真似したのだ。

「籠は空っぽだけどな」

「だから探すんでしょう」

 ナツミは荷札用の鉛筆を茶色いボブの髪へ差し、黄色い腕時計を手首の内側へ回した。考え事をするときの癖である。

「雨雲、南から来てる。屋根へ上がらない」

「上がらないと見つからない」

「それは返事じゃない」

「上がる前に連絡する」

「それは犯行予告」

 店先では、小学一年生くらいの兄妹が並んでいた。兄は泣くのを我慢して鼻を赤くし、妹はもう我慢をやめ、しゃくり上げている。逃げた白文鳥は「シロ」。名前の発明に費やされた時間は短くても、愛情まで短いわけではない。

「絶対、連れて帰るから」

 ハルが言うと、ナツミがすぐ横から訂正した。

「絶対とは言わない。日が落ちるまで探す。見つからなかったら明日の朝も探す。目撃場所を紙に書いて、保健所と近所へ連絡する。そこまで約束」

「夢がないなあ」

「実行手順のない夢は、寝言です」

 兄妹は、ハルよりナツミの方を信頼した顔でうなずいた。

 ハルは配達鞄を斜めに掛けた。中には鳥用の餌、小さな網、軍手、ロープ、懐中電灯。底には、父の羅針盤が入っている。

 役に立ったことは、ほとんどない。

 北を指さない。東も西も知らない。針は酔っ払いのように回り、ときどき思い出したように震えるだけだ。

 ただ、なくし物を探しているとき、妙な反応をすることがあった。

 失くした鍵を探せば鍵ではなく、最後に置いた玄関棚を指す。迷子の荷物を探せば、荷物がある倉庫ではなく、送り状を書き間違えた受付台を指す。

 なくした物ではなく、なくなった理由を指している。

 そう考えたのはハルだけで、ナツミは「壊れ方に一貫性があるだけ」と言った。科学的であり、母親的でもあり、何より財布に優しい見解だった。

「じゃ、行ってくる」

「六時四十分」

「四十一分に連絡」

「四十分」

「細かい」

「時間は細かく切るから役に立つの」

 店を出たとき、商店街のスピーカーが午後六時を告げた。

 雨はまだ降っていなかった。

 空は降る前から、雨の匂いを持っていた。

 最初の十分で、ハルは三つの誤情報を受け取った。

 白い鳥が東へ飛んだ。白い袋が東へ飛んだのを鳥と見間違えたものだった。白い鳥が神社の屋根にいる。鳩だった。白い鳥を猫がくわえていた。白い靴下をくわえた猫だった。

 捜索というのは、正しい情報を集める作業ではない。間違いを一つずつ、行かなくてよい道へ変える作業でもある。

 ハルは診療所へ薬を先に届けた。

 坂を二つ越え、閉まりかけた自動扉へ滑り込む。受付の時計は六時十二分。

「ナギ便。吸入薬、一箱。温度異常なし」

「お母さんは?」

「鳥を探してる。俺が」

「あなたが鳥で、お母さんが探してる?」

「逆。たぶん今、そのうち逆になる」

 受領印をもらい、鞄へ戻す。任務を一つ終えると、空いた場所へ鳥用の網が収まった。配達鞄は物を入れるための袋であると同時に、何が終わり、何が残っているかを身体へ知らせる表でもあった。

 商店街へ戻る途中、ハルは屋根だけを見なかった。

 軒下の雨宿り、室外機の熱、ガラスへ映る白い影。文鳥は鷹ではない。雄大な空より、人の生活の近くを選ぶ。

 肉屋の前では、店主が揚げたてのコロッケを紙へ包んだ。

「餌だ。鳥が食わなきゃおまえが食え」

「文鳥に油ものあげたら母さんに殺される」

「じゃあ最初からおまえ用だ」

「捜索報酬?」

「ツケ。高校生になったら働いて返せ」

「もう働いてる」

「母ちゃんの手伝いは、世間では家族サービスって言うんだ」

「賃金出てる」

「なら立派な労働だ。税金払え」

「急に夢がない」

 コロッケを半分かじり、残りを紙へ戻す。シロの好物ではないが、匂いへ寄ってくる猫を探せば、猫が追っていた鳥の方向が分かるかもしれない。

 実際、白い靴下をくわえた三毛猫は、商店街の北ではなく丘の石段へ何度も顔を向けた。

「おまえ、鳥を見た?」

 猫は答えず、靴下を落とす。

「それ、どこの家から盗んだ」

 今度は逃げた。

「恋と犯罪が近いの、鳥だけじゃなかった」

 六時二十二分、神社の銀杏に白い羽毛。

 六時二十四分、映画館の古いスピーカーから文鳥の警戒声に似た高音。

 六時二十六分、丘へ上がる風が強くなる。

 ハルは携帯へ時刻と場所を入力し、兄妹へ見せるための簡単な経路図を作った。地図は苦手でも、足で通った順番なら書ける。

 その途中、父から最後に届いた留守電を誤って開いた。

 古い音声は三秒の雑音の後、明るい声を返す。

『遅くなる。先に食べててくれ』

 失踪当日のものではない。さらに半年前、配達が長引いた夜の記録だった。

 遅くなる。

 何時とは言わない。

 どこにいるとも言わない。

 それでも、その夜だけは帰った。

 ハルは再生を止める。

 同じ言葉が、帰る日と帰らない日で同じ音をしていることが腹立たしかった。

 羅針盤の蓋を三回叩く。

 針はしばらく迷い、丘の上を指した。

 旧凪浜気象塔。

 父が子供の頃、よくハルを連れていった場所でもある。

「偶然にしては、趣味が悪いな」

 六時三十一分。

 雨の匂いが濃くなる。

 ハルは赤いマフラーを締め直し、石段を二段飛ばしで駆け上がった。