第2話 第一章「上を指す針」後編
ハルは地図が苦手だった。
一度走った道の段差、焼鳥屋の煙、錆びた雨樋の位置、夕方だけ吠える犬の家は覚えている。だが紙の上で北を示されると、北の側がこちらへ歩いてきてくれないものかと思う。
ゆえに彼の捜索は、地図ではなく配送だった。
鳥が逃げた家を集荷地点とする。開いていた窓を最初の分岐とする。白文鳥が好む高所、明るい物、群れの声を配達先候補にする。電線、看板、神社の銀杏、古い映画館の文字盤。ひとつずつ走る。
「シロー。荷物番号なし、受取人だけ泣いてるぞー」
魚屋の庇からクリーニング店の看板へ跳ぶ。着地の前に、小声で数える。
「一、二、三」
右足、左手、肩を落として衝撃を逃がす。七年前、屋根から落ちて左肩を外しかけて以来、跳躍の前には三つ数える。数えたから安全なのではない。安全でないと知っている身体へ、いまから飛ぶと伝える合図だった。
古本屋の店主が二階の窓から顔を出した。
「ハル坊、白い鳥なら海の方へ飛んだぞ」
「何時?」
「五時半くらい」
「鳥一羽に三十分も記憶があるの、すごいな」
「おまえが屋根を走る時間は毎回覚えてる。瓦が減るからな」
「今度まとめて請求して」
「母ちゃんへな」
「それはやめて」
海側へ走る途中、羅針盤の蓋を親指で三回弾いた。
かち、かち、かち。
反応はない。
六時二十七分。最初の雨粒が、赤いマフラーへ暗い斑点を作った。
六時三十一分。白い羽根を一枚見つけた。商店街外れの丘へ続く石段、その下から三段目。ハルは拾った羽根を、落ちていた向きへ一度戻した。最後に正しかった向きへ戻す。持ち主へ渡す前に、なくし物がいた場所を確認する。意味のないこだわりだとナツミは言う。意味がないからこそ、誰にも取り上げられないこだわりだった。
六時三十八分。丘の上の旧凪浜気象塔で、白い影が動いた。
戦後すぐに建てられた気象観測塔は、いまは使われていない。錆びた鉄骨、割れた風向計、立入禁止の鎖。市の地図では灰色の長方形でしかないが、近所の子供たちには「空に一番近い場所」だった。
「いた」
シロは風向計の先に止まり、雨を嫌って羽を膨らませていた。
ハルは携帯電話を出す。画面は六時三十九分。
ナツミへ発信する。
一回、二回。つながる前に、塔の上でシロが羽ばたいた。
「ちょ、待て!」
通話を切り、鎖を越えた。
六時四十分になった。
この瞬間を、後世の王都史家は記録していない。
彼らはのちに凪野ハルを「空から来た無翼者」「零星針の解錠者」「月冠落下を止めた異界少年」と呼ぶ。だが、英雄の最初の違反が母への連絡期限一分超過だったことは、歴史にとって細かすぎた。
生活にとっては、歴史よりずっと重大だった。
塔の梯子は雨で滑った。
ハルは片手で登り、もう一方の手で餌袋を振る。
「ほら。帰ったら粟。たぶん高いやつ」
シロは首を傾げた。
「絶対じゃない。今日見つからなくても明日また来る。だから、今日のところは捕まれ」
鳥へ契約条件を説明する十五歳は、そう多くない。
説明が通じたわけではないだろう。シロはただ、雨風より差し出された指の方を選び、細い爪で止まった。
「よし」
ハルは胸を撫で下ろす。
そのとき、鞄の中で、金属が鳴った。
かちり。
父の羅針盤の蓋が、ひとりでに開いた音だった。
ハルは片手でシロを胸へ寄せ、羅針盤を取り出した。
針が震えている。
いつもの迷い方ではない。迷わないことに怯えているような、細かく鋭い震えだった。
やがて針は、北でも南でもなく――真上を指した。
「上?」
雲の奥で、白い光が走った。
雷ではない。雷なら空を裂く。あの光は、空そのものの縫い目を見せた。
黒い雲の一部が円形に沈み、裏返る。雨粒が落ちるのをやめ、塔へ向かって昇り始めた。シロが暴れた。ハルは両手を使えない。
「一、二――」
三を言う前に、塔の足場が大きく揺れた。
携帯電話が鳴った。
画面には「母」。
ハルは反射的に通話へ触れた。
『六時四十――』
「見つけた!」
『なら戻りなさい。雨が――』
声がノイズへ崩れた。
羅針盤から、別の声が重なった。
――ハル。
八年間、消さずに残した留守電の声に似ていた。
けれど留守電と同じなら、新しい言葉ではない。記憶が雑音の形を借りて聞こえただけかもしれない。
――空白を、答えで埋めるな。
「父さん?」
雲の円が開いた。
向こう側に空があった。
こちらも空なのに、空の向こうにもう一つ空がある。大小二つの月が重なり、冠のように白く輝いている。月の下を、四枚の翼を持つ巨大な鯨が泳いだ。逆さの城、浮かぶ島、金色の風。
理解は遅れ、引力だけが先に来た。
ハルの身体が、塔から上へ落ちた。
「シロ!」
鳥を胸から離すまいとする。だがこのままでは巻き込む。
ハルは配達鞄からロープを引き、鳥籠の留め金へ通した。鳥籠は空だ。空だからこそ受け取れる。
「一、二、三!」
塔の横へ張り出した古い広告幕へ籠を投げる。幕の骨組みにロープが絡み、籠が揺れる。ハルはシロをその中へ押し込み、扉を閉じた。
白い鳥は安全な籠へ、少年は安全でない空へ。
配送としては成功で、帰宅としては大失敗だった。
『ハル!』
携帯から母の声がした。
ハルは手を伸ばす。
画面が雨に濡れ、指が滑る。
「母さん、俺――」
帰る、と言いかけた。
言えなかった。
帰れるか分からない言葉を、あの人へ渡せなかった。
「遅れる!」
それだけ叫んだ。
携帯電話は塔の足場へ落ちた。赤い通話画面が遠ざかる。
ハルは逆さの雨を突き抜けた。
青白い光の渦が街も音も飲み込み、赤いマフラーが旗のようにはためく。左肩が引かれ、耳の奥で方向が砕ける。羅針盤の蓋に刻まれた七つの星が、一つずつ光り、すぐ消えた。
中央の空白だけが、暗いまま残る。
落ちているのか、昇っているのか。
地球では、この問いに答えは一つしかない。
浮遊世界〈アステリア〉では、答えの方が場所によって変わる。
ハルはまだ、その世界の名を知らない。
知らないまま、月へ落ちていった。
◇ ◇ ◇