第3話 第二章「月を壊した少年」前編

落下には、ふつう終点がある。

 地面、海面、床、最悪の場合は屋根。終点の材質によって骨の折れ方が変わる程度で、下へ落ちれば下へ着くという道理だけは、どの事故にも平等だった。

 だが浮遊世界〈アステリア〉の重力は、平等ではない。

 島ごと、船ごと、建物ごとに「下」が違う。

 このため、凪野ハルは空の裂け目を抜けた直後、横へ落ち、上へ投げられ、最後に豪華な祝宴の中央へ真っすぐ降った。

「う、わ、あ、あ、あ、あ――!」

 視界に入ったのは、白い宮殿。

 宮殿ではなかった。菓子だった。

 七段重ねの巨大なケーキ。最上段には、大小二つの月を銀砂糖で重ねた王冠飾り。周囲には翼を模した飴細工、金箔の雲、琥珀色の星果実。

 料理人が三十人、菓子職人が十二人、王室会計官が二日眠らず予算を削り、貴族たちが「倹約の象徴」と褒めた一品である。

 倹約は、比較対象を隠すとたいへん高価になる。

 そこへハルが落ちた。

 銀の月が砕けた。

 クリームが噴火した。

 星果実が彗星のように飛び、金の皿が高貴な軌道を捨てて回転した。

 ハルはケーキの斜面を腹で滑り、二段目、三段目、四段目を破壊しながら加速した。

「止まれ止まれ止まれ、せめて甘くないところで――!」

 甘くないところは床しかなかった。

 大理石へ激突する寸前、白い円が視界いっぱいに開く。

 傘だった。

 傘の柄が配達鞄の紐を絡め取り、ハルの身体を半回転させた。左肩へ嫌な痛みが走る。だが床へ頭から落ちるよりは安い。ハルは膝と右手をつき、滑りながら着地した。

 そのまま三メートル進み、深紅の絨毯へクリームの一本線を描いた。

 静寂。

 大広間にいた数百人が、同じ瞬間に息を止めた。

 人間が数百人も集まると、沈黙にも重さが生まれる。それはたいてい、次に誰を責めるかが決まるまでの重さである。

「……生きてる」

 ハルは自分の手足を確かめた。

「その報告を喜ぶべきかどうか、いま非常に迷っているわ」

 頭上から冷たい声が落ちた。

 いや、落ちたのは声であって、少女は一分の隙もなく立っていた。

 十六歳ほど。濃紺の髪を左側だけ長い三つ編みにし、そこへ金色の地図針を何本も差している。白を基調にした学院服は銀の線で縁取られ、右肩だけ短いケープ。淡い緑の瞳の縁には、光の加減で金色が浮かんだ。

 姿勢は、背中に一本の定規を入れたように正しい。

 ただし、ハルを救った白い日傘の先端は細い槍穂へ変わり、いま彼の鼻先を正確に指していた。

「天井から降ってくるなら、せめて招待状くらい持ちなさい」

「空から来た。天井は途中になかった」

「訂正の箇所がそこ?」

「招待状もない」

「正直なのは美徳だけれど、順番が最悪ね」

「助けてくれてありがとう」

「……お礼も順番が遅い」

「じゃあ最初からやり直す。ありがとう。ここどこ?」

「やり直しても無礼ね」

 少女の右眉だけが、ほんの少し上がった。

 怒っているらしい。表情の変化が少ない人ほど、動く部位を覚えると会話が楽になる。

 ハルは周囲を見た。

 広間は学校と宮殿を足し、余った威圧感を天井へ塗ったような場所だった。白石の柱、金の梁、壁一面の航路図。天井中央は夜空そのものに見え、星がゆっくり回っている。

 巨大な丸窓の外には、大地がなかった。

 雲海。

 その上を、四枚の半透明な翼を持つ巨大な鯨が泳いでいる。遠くの浮島には逆さの滝が流れ、島の下面から根や鎖や建物が垂れていた。大小二つの月は重なりつつあり、白い冠の形を作っている。

「……地球じゃないな」

 ざわめきが波のように広がった。

「チキュウ?」

「未登録空域か」

「転移者?」

「無翼だ」

 最後の言葉だけ、周囲の空気が少し違った。

 ハルは自分の背中を触る。

「そりゃ翼はないけど、そっちもほとんど生えてないだろ」

 白傘の少女が一拍置いた。

「身体の翼ではないわ」

「じゃあ心の翼?」

「急に安い歌詞へ逃げないで」

 広間の生徒や若い貴族たちの胸には、翼を模した徽章が付いていた。

 王族・上位貴族の金章〈ゴールド・ウィング〉。商家・専門職の銀章〈シルバー・ウィング〉。奨学生・工房民の鉄章〈アイアン・ウィング〉。

 色によって立つ場所も違う。金章は中央の食卓。銀章は周囲。鉄章の少年少女は壁際で皿を運び、床を拭き、給仕をしている。

 そして胸に何もない者を、所属も資格もない者〈ノー・フェザー〉と呼ぶ。

 ハルは制度を知らなかったが、扱いの差は説明書がなくても読めた。

「エリア様、その者からお離れください!」

 鼻にかかった声が飛んだ。

 金髪の少年が人垣を割って進み出る。ハルと同年代。青い瞳、磨きすぎた長靴、左右の縫い目まで揃えた白手袋。胸の金翼章は、重さで服が少し傾くほど飾られていた。

「王立星航学院〈アルカ・ノア〉の祝宴へ無許可で侵入し、月冠の菓子を破壊し、ルーンベルグ公爵令嬢へ接触するとは。下羽どころか、獣以下だ」

「長いな」

「何がだ!」

「肩書。途中で二人くらい増えたかと思った」

「私はドラン・グランデ。グランデ侯爵家嫡男だ!」

「名乗ったら一人だった」

「貴様……!」

 ドランの右手が震えた。怒りか、寒さか。右手首の動きだけが少し硬い。

 彼は一歩踏み出す。

 足もとでは、小柄な給仕の少年が割れた皿を拾っていた。褐色の肌、跳ねた茶髪、額の青い二眼ゴーグル。油染みの黄色い作業上着は、祝宴の給仕服へ無理やり白い布を重ねたものだった。背負った工具箱から四本の細い補助腕が伸び、本人と一緒に破片を集めている。

 指先に血がにじんでいた。

 ドランは気づかず、白い長靴でその手を踏みそうになった。

 ハルは足を差し出し、靴先を止めた。

「皿より先に、人を見ろよ」

「私の進路へ足を出すな!」

「進路に人がいた」

「鉄羽が床に這っているのが悪い!」

「じゃあ床しか見ないおまえが、一番床に近いな」

 広間のどこかで、息を呑む音がした。

 工具箱の補助腕四本が、そろって上を向いた。給仕少年の感情は顔より分かりやすい。

 ドランが拳を上げた。

 白傘の少女――エリアが穂先を動かすより早く、赤い手袋がその手首をつかんだ。

「祝いの日に拳とは、景気が悪いな、ドラン」

 現れた少年は、広間の中心を最初から自分の場所として歩いた。

 赤金の髪を手でかき上げ、琥珀の瞳に笑いを浮かべている。白い礼装、深紅の半マント、右腕には獅子の顔を刻んだ盾型籠手。背は高く、笑うと犬歯がのぞいた。

 気品より先に、王城の屋根から逃げたことがありそうだとハルは思った。

 しかし、彼が来た瞬間、広間中の者が頭を下げた。

「カイル王太子殿下」

「殿下、こいつが――」

「見ていた。おまえは床を見ていなかった。彼は見ていた。まずそこまでだ」

「ですが、侯爵家の――」

「家名は目の代わりにならんぞ。なるなら、俺は王家の名で背中まで見えるはずだ」

 赤髪の少年――カイル・アークレイはドランの手を放し、落ちていた苺を拾った。

 食べた。

 近くの給仕が青ざめる。

「殿下、それは床に――」

「三秒以内だ」

「この国にも三秒ルールあるのか」とハル。

「いま俺が作った」

「王様って便利だな」

「まだ王子だ。仮運用しかできん」

 カイルは笑い、ハルの前へ来た。立ったままでは高さが違うので、少し膝を曲げて目を合わせる。

「うちの月を壊したのは、おまえか」

「菓子の月なら。空の方は壊してない」

「本物でなくてよかった。あれを直す予算はない」

「王家の冗談としては切実すぎるわ」

 エリアが言った。

「エリア、無事か?」

「傘骨が一本曲がったわ」

「少年でなく傘を先に診るのか」

「少年は喋りすぎるほど無事よ」

「同感だ」

「初対面で意見が合ったな」

「おまえは俺に合わせたんじゃない。会話の道へ勝手に飛び込んできた」

 カイルはハルへ手を出した。

「名は?」

「凪野ハル」

「ナギノ・ハル。俺はカイル・アークレイ。ルーメン王国の次の王らしい」

「らしい?」

「まだなっていない。未来の肩書を現在形で名乗るのは詐欺に近い」

「じゃあ、王子」

「短くなったな。気に入った」

 カイルは王子らしく命令する代わりに、王子らしく周囲の仕事を増やした。

「まずこの男を洗え。次に月を直せ。最後に、誰が天井へ異界の穴を開けたか調べろ」

「順番がおかしくない?」とハル。

「おまえの顔からクリームが落ちないと、真面目な話ができん」

「王子、真面目な話する予定ある?」

「予定表にはある」

「実績は?」

「将来性で評価しろ」

 給仕たちが布と水差しを持って近づいたが、ハルが自分で拭くと言うと、半数はほっとし、半数は「無翼者へ触れる役目」を逃したことを残念がった。差別にも種類がある。避ける者、見世物にする者、善意で珍獣扱いする者。どれも本人の名前を必要としない。

 エリアは白傘の骨を一本ずつ確かめた。

「第三骨が歪んだ。交換」

「俺より先に傘を診るなって王子が言ってた」

「あなたは自分で痛いと言える。傘は言えない」

「左肩が痛い」

「今、診るわ」

「傘の後なんだ」

 彼女はハルの左腕を上げかけ、顔色を見て止めた。

「昔、外したことがある?」

「外しかけた。七年前」

「落ちて?」

「屋根から」

「今日だけの癖ではないのね」

「癖みたいに言うな」

 エリアの指は冷たく、触れる場所が正確だった。肩の前後を確かめ、動く角度を測る。左肺を庇うせいか、深く屈む時だけ呼吸が浅い。

「完全な脱臼ではない。打撲と牽引。今日は左でぶら下がらないこと」

「右なら?」

「身体を左右別の人間として扱わないで」

 その横で、ロロは壊れた配膳台へ膝をついていた。

 四本の補助腕が、歯車、木槌、針金、菓子用へらを別々につかむ。床へ広がった銀砂糖の月を見て、舌打ちした。

「車輪軸まで折れてる。誰だよ、こんな高いケーキを整備用通路の上に置いたの」

「祝宴だから美しく見える位置へ」とドラン。

「美しく壊れたな」

「貴様!」

「壊したの俺」とハル。

「おまえはあとで請求する!」

 ロロは配膳台の底へ耳を当てた。

「一年前までは、ちゃんと動いてた機械だ」

 青い光が左手から車輪へ走る。

「壊れた動きよ、前の自分を少しだけ思い出せ」

 割れた軸が光でつながり、曲がった車輪が一時的に真っすぐなる。壊れた機械の動きを戻す術〈リメイク〉。新しい部品を生み出すのではない。機械が実際にできた過去の動作を、ほんの短時間だけ呼び戻す。

「魔法?」

「誓星術。約束を現象へ変える術〈ヴォウ・アーツ〉」とエリアが言った。「十三歳で、自分が守る言葉を一つ選ぶ。言葉に沿うほど術は強くなり、背けば身体へ欠けが残る」

「ロロの約束は?」

「勝手に人の契約書を読むな!」

「聞いただけ」

「それも読む入口だ!」

 ロロが配膳台を押す。動く。三秒後、軸がまた曲がり、台はきれいに一回転してドランの前へ止まった。

 上に残っていたクリームが、彼の白い靴へ落ちる。