第4話 第二章「月を壊した少年」後編
「貴様、わざとだろう!」
「昔の動きを戻しただけ。台に聞け」
「機械へ責任を押しつけるな!」
「上の人がよくやるやつ」
広間の端で、天井飾りが軋んだ。
ハルの落下衝撃で、星晶を吊るす鎖の一つが外れている。人の頭ほどある青い結晶が、鉄翼の給仕列へ落ちた。
「下がれ!」
カイルが左拳で右の盾籠手を二度叩く。
「我が誓いは、最後に立つ盾となること!」
深紅の誓紋が胸へ浮かび、獅子の大盾〈レグルス〉が空中へ開いた。結晶が盾へ激突する。炎が散り、カイルの右腕が沈む。
盾の後ろにいる給仕が七人、ハルが一人。守る人数が増えるほど盾は厚くなる。その代わり、受けた衝撃は術が消えた後、使い手の身体へ返る。
カイルは何でもない顔で結晶を横へ流した。
直後、右肩がわずかに震える。
「痛い?」とハル。
「王子は痛みを税で払う」
「払うの本人だろ」
「そこが制度の欠陥だ」
落ちた結晶は配膳台へ当たり、今度こそ広間外へ転がりそうになる。
エリアが白傘を閉じ、銀の槍へ変えた。三つ編みから金針を一本抜き、床へ投げる。
「道なき場所へ、道を」
淡緑の線が結晶の進路に沿って伸びる。
彼女はすでに見て、距離を測り、金針で終点を印した。だが光線はまだ薄い。
「ハル、その線へ一歩」
「俺?」
「道は、歩く者が選ばなければ固まらない」
ハルが線へ足を置く。
淡緑の道が実体を持ち、転がる結晶を曲げ、無人の壁際へ運んだ。
「強制的に人を動かせない?」
「本人の一歩が必要。見ていない場所、測っていない距離、印のない終点へは引けない」
「便利だけど、面倒」
「信頼はたいてい、その二つを同時に満たすわ」
カイルが盾を消し、右手を背へ隠した。
「紹介が済んだな。エリアは道を作り、ロロは壊れた動きを戻し、俺は格好よく受ける」
「最後だけ説明が主観」とエリア。
「王族の公式見解だ」
「公式なら正しいと思ってる?」とハル。
「思っていないから、おまえのような無礼者を近くへ置く」
「採用された?」
「まだ面接中だ」
「ケーキへ落ちたのが履歴書?」
「印象は強い」
ドランが汚れた靴を見下ろし、給仕へ拭かせようと手を上げた。
さっきハルに止められたことを思い出したのか、途中で下ろす。自分で布を取ったものの、どこから拭けばよいか分からず、結局靴をさらに白く汚した。
ロロの補助腕が一つ、笑うように肩を震わせる。
「見るな!」
「見てない。機械が見た」
「また機械へ逃げるな!」
広間には笑いが戻った。
ただし笑いの輪は翼章ごとに分かれたままだった。
金翼は王子の冗談へ笑い、鉄翼はロロの反撃へ笑う。同じ音が、別の場所から上がる。
ハルはその境界を見た。
この世界の魔法は約束を力にする。
そして社会は、人がどんな約束を持てるかまで、胸の金属で決めようとしていた。
「殿下!」とドラン。
「おまえも呼んでみるか、王子」
「できるわけがないでしょう!」
「規則が人を不自由にする実演としては満点だ」
儀式までの短い待ち時間、ハルは壊した祝宴の「試食」という名の現場確認をさせられた。
正確には、カイルが勝手に皿を持たせた。
「異界の毒見役だ」
「毒があったら俺が死ぬ」
「だから毒見だ」
「役割の説明が残酷」
星果実は梨に似て、噛むと舌の上で小さく発光した。雲羊の焼肉は柔らかいが、食べると三秒だけ身体が軽くなる。ハルが二切れ続けて口へ入れると、踵が床から浮いた。
「量を言え!」
「一人一切れ」とエリア。
「先に!」
「あなた、説明前に食べたでしょう」
「王子が渡した」
「王族を信用しすぎ」
「本人の前で言う?」とカイル。
「教育よ」
ハルは浮いたまま食卓の位置を見る。
中央の金翼卓には温かい料理。銀翼卓には少し冷めた同じ料理。壁際の鉄翼には、調理中に形が崩れたものと余りが回っている。
食材は同じなのに、温度で身分が分かる。
ロロは給仕をしながら、金翼卓で手つかずのパンを素早く布袋へ移した。
「盗み?」
「廃棄予定品の再配置」
「言い換えが役所みたい」
「役所の言葉は、下が生きるためにも使える」
「どこへ持ってく」
「工房。夜勤のやつら」
ハルは自分の皿の肉を半分、布袋へ入れた。
「これは?」
「異界人による文化交流」
「高級肉だぞ」
「王子の皿から取った」
「それは窃盗!」とドラン。
カイルは最後の一切れを自分の皿の端へ残していた。
「構わん。俺はいつも最後を厨房へ返す」
「食べ残し?」
「厨房の見習いが、味見したいのに自分の分を取れないと言っていた」
「本人へ渡せば」
「王子から直接だと断る。皿の返却に混ぜれば受け取る」
「善行を密輸するな」
「身分が邪魔になる時は、身分に隠す」
カイルは笑っている。
しかしハルは、そのやり方にも引っかかった。
相手へ聞かず、正しいと思った形で与える。親切でも、相手の選択を飛ばす癖がある。
「次は聞けよ」
「何を」
「欲しいか」
「断られたら?」
「別の方法を一緒に考える」
「面倒だな」
「王様って、面倒をやる仕事じゃないの」
カイルは一度、ハルを見てから笑った。
「おまえ、空から落ちてきたわりに、地面の話ばかりするな」
「落ちたからだろ。着く場所が気になる」
エリアは鉄翼卓の冷えた皿を一つ取り、自分の金翼卓の温かな皿と交換した。
「これは?」とハル。
「味の比較」
「食べる人へ聞いた?」
エリアの右眉が上がる。
交換された鉄翼の少女へ戻り、短く訊いた。
「温かい方でいい?」
少女は驚き、うなずいた。
エリアは戻ってくる。
「これで?」
「二点」
「満点は?」
「知らない」
「採点基準もないのに点を付けないで」
短いやり取りだった。
それでも、エリアは以後、誰かの道を勝手に交換する前に、一度だけ相手を見るようになる。
人の大きな変化は、そばにいる者が見落とすほど小さい動作から始まる。
カイルの目が、ハルの手の羅針盤へ落ちた。
笑みが止まった。
ほんの一瞬だった。だが、場を笑いで動かしている人間が止まると、停止は目立つ。
「その刻印……どこで手に入れた」
「父さんの」
「父親の名は?」
「凪野ソウジ」
カイルの右籠手が、わずかに鳴った。
左拳で叩こうとして、やめる。
決断を取り消した動きだった。
「知ってるのか」
「その名を、古い記録で見た気がする」
「どんな記録?」
「いまは――」
塔の鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
低く澄んだ音が白い王都を渡る。
八つ目まで数えたところで、広間の人々が一斉に窓を向いた。
年に一度の王都誓冠祭〈クラウン・ナイト〉。
大小二つの月が冠形に重なる夜、王太子が星見塔で「王都を落とさない」と誓い直す。祭の表向きは祝福であり、内実は都市インフラの点検であり、政治的には王家が空を支えていると国民へ見せる巨大な広告でもあった。
祭りは信仰を祝う。
同時に、誰が信仰の中心かを決める。
歴史上、この二つはよく同じ皿へ盛られた。たまに空から少年が落ち、皿ごと割る。
「誓冠の儀まで二十分」
白金の短髪の女性が、広間奥から告げた。
五十代ほど。片側だけ高い襟の学院長服、左手には三指だけを覆う黒い手袋。紫の瞳が穏やかで、穏やかなまま誰も逆らえない。
「カイル・アークレイ。着替え直す時間はありません。苺の染みは王家の新紋章ということにしましょう」
「学院長、それは歴史の改ざんでは?」
「事実を隠してはいません。解釈を美しくしただけです」
王立星航学院長リディア・セレスは、ハルへ視線を移した。
「そして凪野ハル。あなたの処遇は儀式後に決めます。逃げても構いませんが、外は雲海です」
「選択肢の見た目だけ自由だ」
「よく分かりましたね。入学適性がありそうです」
「入学する話になってる?」
「まだしていません。だから面白い」
リディアの腰には二つの時計が下がっていた。一つは銀、もう一つは木製。針がわずかに違う時刻を示している。
ハルが見ていると、彼女は片方を指で隠した。
「時計は、正しさより誰が合わせたかを覚えておきなさい」
「どういう意味?」
「意味は、必要になった時に高く売れます」
「学院長、教育を商売にしないでください」とエリア。
「授業料の高い家の方が言うと、たいへん味わい深いですね」
エリアの右眉が上がった。
給仕少年が立ち上がった。切った指へ油布を巻いている。
「おい、落下男」
「名前はハル」
「俺はロロ。ロロ・ピクス。月の修理代は百二十万ルク、床清掃が三万、俺の指は――」
「指に値段つけるなよ」
「つけなきゃ、上の連中は無料だと思うんだ」
ロロはにやりとした。四本の補助腕が破片を器用に拾う。
「でも助けた分、二ルク負けてやる」
「二ルクがどれくらいか分からない」
「じゃあ一生働け」
「急に結婚みたいな請求だな」
「工具を勝手に触らないなら考える」
「何を?」
「働き方だよ!」
エリアが小さく息を吐いた。笑ったのではない。笑わないようにした息だった。
カイルは塔へ向かう前、エリアへ手を伸ばした。
握手ではない。指を二本立て、胸元で小さく返す。
エリアも同じ形を一瞬だけ作った。
合図。
ハルには意味が分からない。
意味が分からないものほど、記憶には残る。
「例の件、頼んだぞ」
「……ええ」
エリアの指が三つ編みの金針へ触れた。
「カイル」
「心配するな」
「心配しているのではなく、計画の再確認を――」
「それを心配と言う」
「あなたが言葉を雑に使うから、心配する側が説明を増やすのよ」
「説明の多い心配は愛が深い」
「その言葉を政治演説で使ったら、壇上から落とすわ」
カイルは笑い、それからハルへ近づいた。
周囲に聞こえないほど声を落とす。
「約束は刃物に似ている」
「急だな」
「強いほどよく切れる。人を守ることも、道を開くこともできる」
「柄を持てばな」
「そうだ。だが柄は必ず、自分の方を向く」
「刃物の構造として普通だろ」
「普通のことを忘れる人間が多い。王族には特にな」
カイルは羅針盤をもう一度見た。
「その針を、誰にも渡すな」
「理由は?」
「儀式が終わったら話す」
ハルの指が、羅針盤の蓋を一度弾いた。
「何時に?」
カイルが目を瞬いた。
「儀式後だ」
「何時に、どこで」
「細かいな」
「母さんに教わった。実行手順のない約束は寝言だ」
カイルは声を立てて笑った。
「九つ目の鐘が鳴ったら、星見塔の下で。これでどうだ」
「分かった」
「約束だ」
赤い籠手と、ハルの拳が軽く当たった。
その約束は二十分後、刃の方から二人へ返ってくる。
カイルが星見塔へ向かう。
深紅の半マントが白い廊下の向こうへ消える直前、彼は一度だけ振り返った。
笑っていた。
あまりに自然な笑顔だったので、ハルはかえって胸騒ぎを覚えた。
人は帰れないかもしれない時ほど、待つ者を安心させる顔をする。
その顔を、ハルは知っていた。
◇ ◇ ◇