第5話 第三章「九度目の鐘が鳴らない」前編
王都ルミナスは、一つの島ではなかった。
正確には、都市の形をした巨大な逆さ山である。
頂に王城と王立星航学院〈アルカ・ノア〉、その下に貴族街、商業街、工房街、さらに下面へ配管と根と古代機関の町が重なっている。上へ行くほど空が広く、下へ行くほど天井が低い。身分制度が思想で終わらず、標高になっていた。
歴史家は社会の上下を比喩で語る。
ルミナスでは、比喩に階段が付いていた。
祝宴の大広間から誓冠露台へ移動するだけで、ハルは三度、立つ場所を直された。
一度目は胸に翼章がないから。
二度目は王太子と話したから。
三度目は、その二つが同時に起きた場合の規則がなかったからである。
「ここ」と銀翼の案内役が壁際を示す。
「先ほど、重要参考物として前へ置けと星律官から」と別の役人。
「人じゃなく物扱い?」
「法的には未分類です」
「分類されるまで息止めとく?」
「そういう意味では――」
「なら人でいいだろ」
エリアが案内札を取り上げ、羽根色ごとの欄を一本線で消した。
「私の監視対象として、私の隣へ」
「公爵令嬢の権限で?」とハル。
「責任で」
「違う?」
「権限は他人を動かす言葉。責任は、動かした後に自分が残る言葉よ」
「じゃあ、逃げるなよ」
「あなたこそ空へ逃げないで」
「落ちただけ」
「上下が変われば逃走に見えるわ」
露台へ続く回廊には、王都各層を表す祭礼模型が並んでいた。
白い王城、緑の庭園、赤い商業環、青い工房環、島裏の黒い配管。模型の最下層だけ、装飾の雲で半分隠されている。
「実際より下が小さい」とハル。
「模型だから縮尺が違うの」
「上は大きい」
「見栄えのため」
「地図って、誰かの見栄も載るんだな」
エリアは返事をしなかった。
代わりに、黒い雲飾りを指で少しずらした。下に細かな工房と住居が彫られている。消されてはいない。見せられていないだけだった。
窓の外では、月冠祭の行列が王都を巡っている。
小型翼艇が二つの月を模した帆を張り、星果実を撒く。貴族街では白い花弁、商業街では紙の金貨、工房街では使い古した螺子を磨いて星に見立てた飾りが空へ投げられた。同じ祭りでも、空へ上げるものは違う。
「最下層は何を投げる?」
「投げない」とロロが横から言った。祝宴の片づけを抜けてきたらしく、両腕に空皿を積み、補助腕四本にさらに皿を載せている。「落ちてきたのを拾う」
「祭りまで上下があるんだな」
「空に浮いてる街で、上下がないと思った?」
「だから腹立つ。落ちたら全員同じなのに」
「落ちる前は、みんな自分だけ別だと思うんだよ」
ロロは足を止め、回廊の壁時計を見る。
針は七時五十六分。
青いゴーグルの奥で、何かを計る目をした。
「どうした」
「別に」
「時計、気になる?」
「技師が時計を見るのは普通」
「普通って言う時、だいたい普通じゃない」
「異界人が普通を語るな」
彼は皿を運んで去った。
補助腕の一つだけが、背中で小さく手を振る。本人が隠した愛想を、機械が勝手に漏らしていた。
露台手前の控室では、カイルが儀礼用の誓文を読んでいた。
正確には、読みながら苺を食べていた。
「王はすべての翼を守り――もぐ――すべての翼は王を――この苺、昨日より酸っぱいな」
「文章と味覚を交互に使わないで」とエリア。
「口は一つしかない」
「だから順番を決めるの」
「政治も同じだな」
「苺で国家論へ逃げないで」
カイルは誓文を巻き、右籠手の内側を確かめた。深紅の誓布手袋がのぞく。左利きの彼が、儀礼では右腕を前へ出すよう幼い頃から矯正されてきたため、右手の動きだけわずかに硬い。
「王子、あの文、本当に信じてる?」とハル。
「どの部分だ」
「王が全部守る」
「信じていない」
即答だった。
「じゃあ読むのか」
「いま俺が読まなければ、炉が不安定になる。信じない制度の部品を、今夜だけはやる」
「今夜だけ?」
「今夜を越えれば、変える材料が手に入る」
エリアとカイルの目が合う。
秘密の合図をした時と同じ、短い沈黙。
「何を変える」とハル。
「儀式が終わったら」とカイル。
「また後払い」
「王子の信用を使え」
「担保は?」
「俺の顔」
「落書きされそう」
「高貴な落書きになる」
カイルは笑ったが、その右膝へ一瞬だけ手を当てた。
古傷が痛む時の動きだと、エリアだけが気づいた。彼女は何も言わず、月百合の香りがする細い布包みを袖の中で握り直す。
王都史において、誓冠祭は「王と民の信頼を再確認する夜」と記される。
実際には、王が民を信じていない制度を、民が王を信じている形で動かす夜でもあった。
歴史は矛盾を嫌わない。
矛盾したまま長く続いたものを、伝統と呼ぶのが得意である。
月冠祭の夜、そのすべての層が星見塔を見上げる。
塔は王城と学院の境に立ち、白い柱を九本束ねた形をしていた。最上階の観測室から細い外廊が一周し、その上に誓冠鐘が吊られている。
午後八時、八つの予告鐘が鳴った。
九つ目は、重なり合う二つの月〈ムーン・クラウン〉が最も深く重なる時刻に、王太子の誓いとともに鳴る。
その鐘が鳴れば、王都は一年浮く。
少なくとも、王家はそう教えてきた。
「本当に鐘一個で島が浮くのか」
ハルは学院の露台から塔を見上げた。
「鐘は合図。浮力を生むのは星脈炉よ」
隣でエリアが答える。
「じゃあ鐘がなくても浮く?」
「機関だけなら、しばらくは」
「王子の誓いがなくても?」
「……質問が多いわね」
「知らない世界なんだから、質問しないと全部知ったふりになる」
「それは正しい。正しいけれど、いま私が答えたくない質問だけ選ぶ才能がある」
「特技欄に書いとく」
露台には学院生と貴族、各層の代表者が翼章の色ごとに並んでいた。
ハルは無翼のため、本来なら最後列の外である。だが「空から落ちた証拠物を見失わない」という星律官命令により、エリアの横に立たされていた。人としてより証拠品として席が上がったわけで、出世としては複雑だった。
肩には黒い羽根型の札が付いている。
触れようとすると、低い声が飛んだ。
「その証羽に触れないでください」
セレナ・クロウ。
二十歳の星律官〈テスタ〉は、烏の翼を思わせる黒外套をまとい、左目に六角形の単眼鏡を掛けていた。灰色の右目は、ハルの手から足までを一度で記録する。
「触ると?」
「逃走意図として記録します」
「かゆいだけなら?」
「かゆみを申告してから触ってください」
「証拠って面倒だな」
「人を処罰する材料が、簡単であってよいはずがありません」
セレナは黒い羽根を一枚、空中へ放った。
「見聞きした事実を、都合で曲げない」
灰色の誓紋が左目の周囲へ咲く。
羽根は露台の上を一周し、塔、月、時計、列席者の位置を薄い光として記録した。
見聞きした事実を記録する羽〈テスタ・フェザー〉。
ただし羽根が記録するのは、セレナ自身が見た範囲だけだ。背中側、閉じた扉の向こう、人の心、言葉の意味までは写らない。
「便利だな」
「便利だから危険です」
「自分で言う?」
「道具の危険を言わない使い手は、道具より危険です」
ハルは少しだけ、この人を信用した。
露台の向こうで、カイルが星見塔へ入る。
白い礼装は着替え直され、苺の染みは深紅の飾り布で隠されていた。右腕の盾型籠手を左拳で二度叩き、群衆へ笑う。
「行ってくる」
王子が言うと、人々は歓声で返した。
ハルは顔をしかめる。
「帰る、じゃないんだな」
「何が?」とエリア。
「いや」
塔の唯一の扉が閉じる。
王家の血と誓紋に反応する封印が、赤い文字となって扉を覆った。セレナが証羽で記録する。
「午後八時零分。王太子カイル・アークレイ、単独で星見塔へ入室。扉封印、正常。外部開閉記録なし」
「窓は?」
「最上階に三つ。儀式前の検査で内側の閂を確認」
「空から出るとか」
「落ちます」
「俺は空から入った」
「あなたを基準に建築法を考え直す必要はありません」
九本の柱の間で、儀式の灯が一本ずつついた。
王都のあちこちでも灯が応じる。上層の白い街灯、商業街の看板、下面から垂れる青い作業灯。光は星脈炉へつながる配管の位置を示し、夜の島を巨大な星座に変えた。
リディア学院長が、古い誓冠文を読み上げる。
「王はすべての翼を守り、すべての翼は王を支える――」
ハルは眉を寄せた。
「翼がないやつは?」
エリアの視線が一瞬、彼へ動いた。
「古語では、翼は住民全体を意味したと言われているわ」
「今の制度じゃ、胸の色だろ」
「……そうね」
「言葉って、残ってるだけで意味がすり替わるんだな」
「地図も同じよ。道が残っていても、誰が通れるかは変わる」
エリアは三つ編みの地図針へ触れた。
その指先に、白い花粉が付いている。
月百合。
祝宴の飾りにも使われていたが、彼女の家の温室で育てられる特別な品種は、花弁が光を吸って薄青くなる。
ハルが見ていることに気づくと、エリアは手を下ろした。
「何?」
「花」
「祭りだからよ」
「質問に答えてるようで、答えてないな」
「あなたは花粉まで尋問するの?」
「花は黙ってるから、言い訳しない」
「私が言い訳していると?」
「まだ何も聞いてない」
「では聞かないで」
言葉の最後で、耳の奥にごく細い音がした。
きいん。
ガラスの遠い端に針を当てたような音。
ハルは振り返る。誰も反応していない。
八時十三分。
リディアの銀時計がその時刻を示した。
大小二つの月が、完全な冠へ近づく。白光が塔の最上階へ差し込み、銀の縁を一瞬だけ光らせた。
王都の灯が大きく脈打つ。
その瞬間、エリアが踵を二度鳴らした。
こつ、こつ。
出発前の癖だとハルはまだ知らない。
彼女自身も、鳴らしたことへ気づいていないようだった。
「いま、何かした?」
「していない」
きいん。
また音がした。
さっきより近い。
塔の外廊に、赤い光が揺れた。
一瞬だけ。
だが人影ではない。炎の残光に見えた。
「王子?」
ハルが身を乗り出す。
「まだ早いわ」とエリア。「九つ目の鐘は――」
八時十五分。
学院の標準時計が小さく鳴る。
黒と象牙色の長衣を着た男が、評議会席へ入った。
ヴィエル・ノクティス宰相。
右半分の顔を白い陶器仮面で覆い、左の銀眼だけが光を受ける。杖を置く角度まで正確だった。