第6話 第三章「九度目の鐘が鳴らない」後編
「宰相閣下、星脈炉の出力が予定値を下回っています」
機関官が耳打ちする。
「許容範囲です」
「下面区の第三管が過熱を――」
「予備管へ流しなさい」
「鉄翼区の負荷が――」
「祭礼後に検討します」
ヴィエルは声を上げない。
上げる必要がない者の声だった。
ハルの羅針盤が、鞄の中で震えた。
彼は蓋を開く。針は塔を指し、次にヴィエルを指し、その間で迷う。
「また壊れた」
「最初から壊れているのでしょう」とセレナ。
「壊れてるものにも調子はある」
ロロなら分かる、と言いかけ、ロロが露台にいないことへ気づいた。
広間の片づけをしているはずだった。
八時十九分。
群衆のざわめきが静まる。
誰もが塔の外廊を見る。
誓冠鐘の九つ目が鳴れば、王太子が姿を現し、誓文の最後を唱える。
八時二十分。
学院時計が一度、硬い音を立てた。
外廊へ、カイルが出た。
赤金の髪。
白い礼装。
深紅の半マント。
右腕に獅子形の炎が燃え、王家の誓紋が夜へ浮かぶ。
遠目でも本人と分かる。群衆が歓声を上げた。
「カイル!」
エリアが呼ぶ。
外廊のカイルは、聞こえなかったように右手を上げた。
動きがどこか平らだった。
身体が薄いのではない。動作から重さだけ抜けている。
ハルは一歩進む。
「待て。あれ――」
九つ目の鐘が、鳴らなかった。
鐘の内部で、何かが空振りする鈍い音。
外廊のカイルが炎へ崩れた。
人影は一枚の赤い光になり、塔の壁へ吸い込まれる。
次の瞬間、王都全体が沈んだ。
胃が一拍遅れて浮く。
窓の外で、遠くの浮島が上へ動いたように見えた。違う。こちらが落ちたのだ。
皿が卓上から跳ね、群衆が倒れる。雲海が近づく。下面から青い警報灯が連鎖して点滅した。
「星脈炉出力、十二パーセント低下!」
「第二浮力輪、停止!」
「誓冠が成立していません!」
ヴィエルが杖を床へ突く。
「我が誓いは、この王都を落とさない」
黒い誓紋が杖の周囲へ広がり、壁、扉、配管、警報板から無数の文字鎖が伸びた。
既存の命令網を束ねる鎖術〈コード・レイン〉。
鎖は塔と城と星脈炉へ走り、ばらばらの緊急命令を一つへまとめる。
「全区画、第一落下姿勢。上層の大型艇は離岸を禁ずる。下面区の予備誓力を炉へ」
「下面から先に吸うのか」
ハルが言った。
ヴィエルの銀眼が彼へ向く。
「いまは一秒が百人の命です、異界人」
「だから百人へ聞かなくていい?」
「墜落中の船で投票はしません」
ヴィエルの命令は、速かった。
速さはそれだけで人を安心させる。何を切り捨てた命令かを考える前に、誰かが決めたという事実へ身体を預けられるからだ。
露台の床がさらに傾いた。
翼章ごとに整列していた列が一度に崩れ、金も銀も鉄も同じ方向へ滑る。違いは、金翼の前には護衛が立ち、鉄翼の後ろには壁しかなかったことだった。
「手すりへ!」
エリアが槍を振る。
淡緑の線が床へ走るが、混乱した人々は一歩を踏めない。路図は強制的に運ぶ術ではない。本人が進む方向を選ばなければ、光は道にならない。
「聞こえないんだ!」とハル。
「何が?」
「命令が多すぎる。伏せろ、走れ、待て、上へ行け。どれへ一歩出せばいいか分からない!」
彼は近くの長卓へ飛び乗った。
「全員、止まれ! まず今いる場所で、右手を上げろ!」
意味のない命令に、人々が一瞬止まる。
右手を上げた者、左手を上げた者、何もできない者。
「上げられたやつは、隣の上げられないやつを支えろ! 次に緑の線へ一歩。走るな!」
単純な動作へ分けると、人々は動けた。
エリアの路図が固まり、露台の端から広間の安全柱へ続く。
「なぜ右手?」とエリア。
「何でもよかった。選ぶことを一個にした」
「左利きの人は?」
「そこから議論する?」
「次は『片手』と言いなさい」
「改善が早いな!」
大理石の彫像が台座から外れ、子供へ倒れる。
カイルはいない。
代わりにドランが前へ出た。右手首を庇いながら、左肩で彫像を受ける。重さに耐えきれず膝をつく。
「誰か、持て!」
命令する声が震えている。
鉄翼の給仕二人が駆け寄り、一緒に彫像を押し戻す。
「礼は?」とハル。
「いま言うのか!」
「今じゃなきゃ忘れる」
「……助かった!」
ドランは給仕へ怒鳴るように言った。
「声が大きい」と一人が返す。
「すまない!」
「それも大きい!」
床を滑ってきた金の皿を、ロロの補助腕が遠くからつかんだ。
本人は広間の入口にいて、工具箱を背負っている。
「第四冷却管へ行く! 上が電力を切ったら、下の弁を手で開けないと焼ける!」
「待て」とハル。
「待てない!」
「塔時計、何か知ってるだろ!」
ロロの顔が強張る。
「今それ聞く?」
「王子が消えたのと都が落ちたの、同じ時間だ。時計見てたおまえなら――」
「下で人が焼ける!」
答えず、走り去る。
ハルは追えなかった。
エリアが塔へ走り、セレナの黒糸が彼を引き、避難者がまだ露台に残っている。
事件は一つの方向だけへ進まない。助けるべき人、追うべき証拠、問いただすべき秘密が、同時に別の廊下へ走る。
ヴィエルのコード・レインが、壁の伝声管を一斉に鳴らした。
『金翼居住区、第一艇へ。銀翼居住区、東橋へ。鉄翼居住区、現地待機』
「現地待機?」
ハルが聞き返す。
「艇数が足りません」とヴィエル。
「身分順に逃がす?」
「操縦士、医師、資産管理者を先に動かす。都市機能維持の順です」
「子供は?」
「各区画の責任者が判断する」
「下に判断を投げた」
「現場判断を尊重したのです」
きいん。
ひびの音がした。
完全な嘘ではない。言葉の表と裏で、責任の向きが逆になった音だ。
「尊重って言葉、便利だな。助けない時にも使える」
「異界人。いまは理念を争う時ではない」
「いつならいい。落ちる前? 落ちてから?」
「生き残った後です」
「生き残る人を、先に選んでるのに?」
ヴィエルの銀眼がわずかに細くなる。
「あなたはまだ、この都市の重さを知りません」
「知らない。だから人を一人ずつ見る」
「一人ずつ見ている間に、百人が死ぬ」
「百人って言って、一人の顔を見なくなるよりましだ」
議論は決着しない。
床がもう一度大きく傾き、言葉の代わりに壁が割れた。
セレナが証羽を十枚、避難路へ飛ばす。
「私は塔へ行きます。残りの羽が見た安全経路だけを使ってください。羽の外へ出れば記録できません」
「記録できないと助けない?」とハル。
「助けます。ですが助けたことを証明できず、次に同じ失敗を防げません」
彼女は黒糸を短くする。
「行きます。王太子が消えた時刻を失えば、王都が助かっても犯人を失う」
ハルは星見塔を見上げた。
外廊にはもう赤い人影がない。
九つ目の鐘だけが、鳴らなかった時間を抱えたまま揺れている。
「王子」と交わした約束の場所は塔の下。
そこへ行けば、約束を守れるとは限らない。
それでも、行かなければ何が変わったのかさえ分からない。
ハルは露台から走り出した。
その言葉に、ひびの音はしなかった。
ヴィエルは本気でそう思っている。
エリアは塔へ走った。ハルも追う。
セレナの黒羽が肩から鎖へ変わり、ハルの腕を引いた。
「あなたは待機」
「王子と約束した。塔の下で会う」
「その約束は捜査権ではありません」
「約束が捜査権になる国なら、いま困ってないだろ」
「意味の分からない反論を――」
「分からないなら一緒に来い!」
セレナが一瞬だけ目を細め、鎖を短くした。
「監視下で同行。現場へ触れた場合は拘束します」
「もう片腕つないでる」
「両腕へ増やします」
「増やさないで」
星見塔の扉は封印されたままだった。
赤い文字は一度も途切れていない。セレナの証羽も、午後八時以後の開閉を記録していない。
扉の前でエリアが呼ぶ。
「カイル! 返事をして!」
ない。
ヴィエルが到着する。
「封印を強制解除します」
「内部の証拠が損なわれます」とセレナ。
「王太子の生命が優先です」
「同意します。解除過程を全記録」
ヴィエルの文字鎖が封印へ食い込む。
エリアが白傘を閉じ、柄をひねった。布が巻き取られ、白傘から変じる地図槍〈グリムリリー〉になる。穂先で封印の線をなぞり、構造を空中へ描き出す。
「三層目、右下に負荷が集中。そこからなら扉を壊さず外せる」
「見えているのか」とハル。
「道は、扉にもあるのよ」
赤い封印がほどけた。
扉が内側へ開く。
最上階の観測室は空だった。
円形の部屋。
三つの窓は内側から鉄の閂が下りている。
中央の誓台には、読み上げられなかった誓文。
床には濡れた足跡。白い月百合の花びら。青い蝋の欠片。
西壁を覆う古い銀鏡。
足跡は鏡の前で、ぷつりと消えていた。
「誰も出ていない」
セレナが低く言う。
「窓も閉じている」
エリアの声がかすれる。
「なら、どこへ――」
ハルの羅針盤が開いた。
針は銀鏡へ向く。
次に床の青い蝋へ向き、最後にハル自身を指した。
「どういうことだよ」
背後で、ドランが叫んだ。
「そいつだ! その無翼が現れた直後に殿下が消えた! 羅針盤が王家の封印へ干渉したのを皆が見ている!」
不安は、理由より先に犯人を欲しがる。
王子が消え、王都が落ちる夜、空から来た正体不明の少年は、たいへん便利な答えだった。
セレナの黒羽が鋼の縄へ変わった。
ハルの両手首を縛る。
「凪野ハル。王太子失踪、王室儀式妨害、星脈炉への未確認干渉の重要参考人として拘束します」
「参考人の縛り方じゃないだろ」
「逃げない参考人は縛りません」
「逃げると思ってる?」
「空から来た者の移動手段を、私はまだ知りません」
床がもう一度傾く。
窓の外で、王都を支える光輪が一つ消えた。
ヴィエルは銀鏡を見たまま言う。
「王太子の誓いがなければ、午前零時に主炉は休止します。残り三時間四十分」
彼が振り返る。
白い仮面と銀眼が、ハルを値踏みした。
「あなたが隠したのでないなら、証明してみせなさい」
その瞬間。
ハルの耳の奥で、これまでで最も澄んだ音が鳴った。
きいん。
ガラスのひびではない。
言葉の中で、何かが割れた音だった。
◇ ◇ ◇