第7話 第四章「密室の王子」前編

嘘を見抜ける――という表現ほど、嘘に近いものはない。

 声の震えを拾う者は、震えない嘘つきに負ける。脈を測る機械は、真実を話しながら怯える者を疑う。神託は神の語彙しか持たず、裁判官は裁判官の常識から出られない。

 まして凪野ハルに聞こえるのは、言葉の奥で何かがひび割れる、ただそれだけの音だった。

 誰が悪いかも、何が嘘かも、どこまで自覚しているかも教えてくれない。

 便利な力というものは、たいてい説明書の中にだけ存在する。

「もう一度、同じ言葉を言ってくれ」

 両手を黒い光縄で縛られたまま、ハルはヴィエルへ言った。

 星見塔の観測室には、沈み始めた王都の軋みが低く伝わっている。床の青い蝋片が、傾きに合わせて一ミリずつ転がった。

「何をです」

「『隠してないなら証明しろ』」

「あなたが王太子を隠していないなら、無実を証明しなさい」

 きいん。

 鳴った。

 ヴィエルの銀眼は動かない。白い半面仮面も、当然ながら表情を作らない。

「今だ」

「私には何も聞こえません」とセレナ。

「俺には聞こえた」

「聴覚上の主観は記録します。証拠能力は認めません」

「早いな、却下が」

「人を有罪にするには遅いくらいでよいのです」

 セレナは六角単眼鏡を下ろし、黒い羽根を三枚放った。羽根は入口、三つの窓、銀鏡の前へ一枚ずつ止まり、細い線で室内を区切る。

「以後、線の内側へ入る者は私の許可を得てください。触れた物、時刻、理由を声に出す。事実と推測を分ける。『たぶん』『きっと』『普通なら』は推測です」

「『絶対』は?」

「警戒語です」

「母さんと同じだ」

「あなたの母君は法官ですか」

「配達屋。荷物をなくすと法官より怖い」

 セレナは一瞬だけ、口元を緩めかけた。だが左目の単眼鏡へ細い亀裂が光り、すぐ表情を戻す。

 見聞きした事実へ解釈を混ぜれば、彼女の誓具は自ら傷つく。その厳しさは他人だけへ向けた刃ではなかった。

「拘束を片手だけにしてください」とエリアが言った。

「理由を」

「彼の左肩が落下で傷んでいる。両手を後ろへ引けば、捜査以前に脱臼するわ」

「してない」

「さっきから左肘を身体へ付けたまま動かしている」

「よく見てるな」

「あなたがよく落ちるからよ」

「会って一時間で回数を一般化するな」

 セレナはハルの肩を触診し、光縄を前へ回した。右手だけを長い黒糸で自分の手首へつなぐ。

「現場へ素手で触れたら両手へ戻します」

「靴なら?」

「塔から逆さに吊ります」

「法律じゃなくて感情が出たぞ」

「抑止です」

 ヴィエルは二人の会話を待った。待てる人間の沈黙ではなく、待たせることまで命令に変える沈黙だった。

「星律官。検証に必要な時間は」

「最短で三十分。完全な採取なら二時間」

「二十分で終えなさい」

「王太子の生命を理由に記録を削れば、後で王太子を攫った者を裁けません」

「なら三十分。王都の高度は、その間にも失われます」

 窓の外で、白石の街がゆっくり傾いている。上層の噴水からこぼれた水が空中へ帯となり、別の重力圏へ吸われて横へ流れた。

 時間は公平に過ぎる。

 危機の最中だけは、不公平に価値が高くなる。

 最初に調べたのは、唯一の扉だった。

 扉は一枚の白星石で作られ、蝶番は室内側に三つ。王家の血と誓紋で閉じる封印は、セレナの証羽に午後八時から解除まで切れ目なく記録されている。

 エリアが白傘を槍へ変え、穂先で縁をなぞった。

「隙間は最大一・二ミリ。人は通れない」

「薄い人なら」とハル。

「一・二ミリまで痩せたら、人であることを先に諦めているわ」

「紙の魔法とか」

「可能性としては残す」とセレナ。「ただし紙片、折れ跡、誓力残滓は見つかっていません」

「真面目に拾うんだな」

「あなたの思いつきが荒唐無稽でも、事件が礼儀正しいとは限りません」

 扉の下には、粉雪のような白い検封砂が撒かれていた。足跡はカイルが入った一組だけ。外へ向く跡はない。

 ハルはしゃがみ、顔を床へ近づける。

「触れないで」とセレナ。

「見てるだけ。王子、右足の踵が浅い」

「古傷があるの」とエリア。「右膝。雨の日は少し引きずる」

「じゃあ本人の足跡か」

「靴だけ使った可能性は?」

「ある。だから断定しない」

 セレナが黒羽を一枚、跡へかざす。光の輪郭が浮き、礼装靴の底模様と一致した。

 足跡は扉から誓台へ、誓台から西壁の銀鏡へ続く。途中で二度、右足が深く沈んでいる。立ち止まって振り返った跡だった。

「誰かを待った?」とハル。

「扉を見た可能性、鐘を聞いた可能性、計画を迷った可能性があります」とセレナ。「待ったと決めないでください」

「推理って、決めないことばっかだな」

「早く決めるのは推理ではなく、希望です」

 三つの窓には、内側から鉄の閂が下りていた。

 錆、埃、封蝋に乱れはない。窓外は幅二十センチほどの石縁、その先は雲海まで何千メートルあるか分からない空だ。

 ハルは窓枠へ顔を寄せた。

「外廊へ回れない?」

「北窓から鐘廊までは六メートル」とエリア。「手掛かりはないわ」

「手はある」

「あなたの手の数では足りない」

「ロープがある」

「その肩で?」

「右肩は元気」

「身体を左右別会計にしないで」

 それでも、外側を見なければ密室という言葉の中へ閉じ込められる。

 セレナは黒糸を二重にし、自分の腰へ固定した。エリアが窓枠の石へ金の地図針を打ち、淡緑の線で一歩分だけ足場を描く。

「私が見て、測って、印を付けた範囲だけ」と彼女は言う。「その先へ勝手に踏み出せば、道はない」

「一歩ずつ増やせる?」

「あなたが一歩進めば、次を測れる」

「信用の分割払いだな」

「一括で渡す理由がないもの」

 ハルは窓を越えた。

 風が下からではなく横から殴る。王都そのものが落下しているため、空気の流れが街の縁で捻じれていた。赤いマフラーが首を引き、左肩が鈍く痛む。

「一、二、三」

 一歩。

 淡緑の足場が靴底の下で鳴る。

 エリアが次の金針を投げ、石縁へ刺す。道が伸びる。

「三つ数えるのね」

「身体へ予告してる」

「落ちることを?」

「飛ぶことを」

「同じ動作でも、言葉で責任をすり替えないで」

 鐘廊へたどり着く。

 九つ目を鳴らす巨大な鐘の内側では、打ち金が鐘肌から指二本分離れた位置で止まっていた。切断も破壊もない。ただ、駆動棒の歯が一つ、進んでいない。

「鐘を止めた犯人はいない」とハル。

「根拠は」

「時計が九つ目の時刻まで来てない。打ち金は壊されたんじゃなく、命令を待ったまま」

 セレナが窓内から記録する。

「観測事実。打ち金、未作動位置。破壊痕なし」

「塔時計は八時十三分で止まってる。みんなの時計は八時二十分だった」

「差は七分」とエリア。

 その数字が、室内の誰かへ見えない針を刺した。

 エリアは三つ編みの金針へ触れた。ほんの一瞬。

 ハルは見逃さなかった。