第9話 第五章「最上階と最下層」前編

王都の最上階から最下層へは、階段にして四千八百六十二段ある。

 この数字を正確に数えたのは、建築家でも役人でもない。毎朝、上層の厨房へ氷を届けた名も残らぬ運搬人だったという。彼は三十年かけて一段ずつ数え、最後に役所へ「四千八百六十二段目だけ高さが違う」と訴えた。役所は記録を受理せず、段差は百二十年後まで直らなかった。

 大きな歴史が王の年号で数えられる一方、暮らしの歴史は、つまずいた回数で数えられる。

「この昇降機、落ちない?」

「いま王都ごと落ちてるんだから、細かい心配するなよ」

 ロロが言った。

「大きい不安で小さい不安を値引きするな」

「安心しろ。値引きじゃない。まとめ売りだ」

 星見塔から出た一行は、学院外縁の貨物昇降機へ押し込まれていた。

 鉄籠に床板を張り、太い鎖一本で吊っただけの構造である。上層の乗用昇降機には絨毯と椅子と香炉があるらしいが、最下層へ行く者に香りを楽しむ時間は不要と判断されていた。階級制度は、人間の価値だけでなく、落下中の座り心地まで分類する。

 同行するのはハル、エリア、ロロ、セレナ。ヴィエルは王城の危機対策室へ戻り、かわりに黒い命令札を一枚よこした。経路の封鎖を一時解除し、必要な記録を差し出させる権限だ。

 権限は便利だった。

 権限を持つ人間が、必要の意味まで決められることを除けば。

 昇降機が下降を始める。

 白石の学院が格子の向こうで上へ逃げ、貴族街の尖塔が過ぎ、商業街の明かりが近づいた。途中から建物は上下だけでなく、島の側面へ張りつく。窓の外を洗濯物が横向きにたなびき、重力の境目では雨水が球になって浮いていた。

「下っていうより、島の裏へ回ってるな」

「ルミナスの重力核は一つではないわ」とエリア。「各層の星石柱が、生活面へ向けて局所的な下を作る。境界では足もとが九十度変わる」

「先に言え」

「いま言ったでしょう」

「変わる前に」

「変わる前のあなたは、説明を聞かなかったと思う」

「まだ聞いてないのに性格を過去形で決めるな」

 籠が重力境界を越えた。

 床だった板が壁になった。

 ハルは横へ滑り、縛られた右手をセレナに引かれる。エリアは白傘を床――だった壁へ突き、ロロは四本の補助腕で格子を掴んだ。

「一、二、三!」

 ハルは反対側の格子へ足を着き、身体をひねる。左肩へ痛みが走った。

「数えるのが遅い」とエリア。

「先に重力が飛んだ」

「重力は飛ばない。向きが変わったの」

「落ちてる最中に文法を直すな!」

 セレナだけは姿勢を崩さなかった。黒外套の内側から小さな菓子包みが一つ転がり、床へ落ちる。

 ハルが拾う。

「砂糖菓子?」

「証拠品です」

「口の形してる」

「……疲労時の血糖維持用です」

「甘党」

「事実と推測を分けてください」

「今のは証拠がある」

「返しなさい」

 彼女の耳がわずかに赤い。

 ハルは包みを返した。星律官は無表情で袖へしまい、その後しばらく、黒糸を必要以上に短くした。

 工房街を過ぎると、空の色が変わった。

 上層では二つの月が白く街を照らしていた。最下層では月は建物と配管に隠れ、青い作業灯だけが天井代わりの島裏を照らす。太い根、冷却管、下水樋、浮力輪の骨組み。金属と石と生活が、補修材で何世代も縫い合わされている。

 昇降機が停止した。

 扉の外へ熱風が押し寄せる。

「冷却が止まってる」とロロ。

 彼の補助腕が四本とも低く伏せた。

「第三管だけじゃない。五番も、七番も音が変だ」

「音で分かるの?」とハル。

「おまえだって人の言葉が割れるって言うだろ。機械はもっと正直だ。壊れる前から、壊れたくない音を出す」

 通路には人があふれていた。

 作業着の大人、煤だらけの子供、荷車へ工具と布団を積む老人。退避命令は出ている。しかし上層へ続く階段は細く、昇降機はすでに停止が増え、熱で曲がった扉の前には列ができている。

 壁には赤い文字が流れていた。

『下面区の誓力供給を停止。住民は第二避難環へ移動せよ』

 最下層の街には、空がなかった。

 代わりに、人々は天井へ空の絵を描いた。青い塗料は高価なので、工房ごとに余った色を持ち寄り、群青、灰、水色、錆色が継ぎはぎになっている。翼鯨の絵は左半分が子供の線、右半分が船舶工の精密図。月は一つしか描かれていない。二つ目を塗る前に予算が切れたらしい。

「上の祭りでは月を二つ作って、こっちは一つも完成してない」とハル。

「上の月は菓子で壊れた」とロロ。

「俺の責任に戻すな」

「戻さなくても最初からおまえの責任」

 避難列の横には、臨時の冷却所が作られていた。

 熱病で座り込む工員へ、濡れ布と薄い薬水が配られる。吸入器は三台しかなく、子供、老人、作業員の順番をめぐって言い争いが起きている。

「器具を増やせない?」とエリア。

「上の診療所には予備が二十」とロロ。「でも翼章のない区画へ持ち出すには医療局の承認がいる」

「非常時でしょう」

「非常時の承認書は平時より一枚多い」

「なぜ」

「非常を悪用するやつがいるから」

「今は、書類に悪用されてる」

 エリアはヴィエルの命令札を出した。

「これで予備器具を移送できる?」

 冷却所の係は札を見て、首を横へ振る。

「宰相府の札は物資徴発用です。下から上へ持っていく命令には使えても、上から下へ下ろす欄がない」

「欄がないだけで、禁止とは書いていない」

「あとで責任を取らされるのは、私です」

 エリアは口を開き、閉じた。

 上の者が「正しいからやれ」と言えば、実行する下の者が罰を受ける。道を描く者と歩く者の間にあるのは距離だけではない。

「私の名で申請する」と彼女。「ルーンベルグ公爵家が責任を持つ」

「家の名?」とハル。

「いま使える鍵がそれしかない」

「あとで自分の名に替えられる?」

 エリアは一瞬考え、申請欄へ書いた。

 エリア・ルーンベルグ。

 家名だけでなく、自分の名も大きく。

「これでどう」

 係は書類を受け取り、初めて彼女の顔を見た。

「上へ届くまで四十分」

「待てない。私が取りに行く」

「道は?」

「描く」

「戻りは?」

「誰かに引き継ぐ」

 ロロが横から紙を奪った。

「俺の工房に古い吸入器が四台ある。二台は壊れてる。一台は半分壊れてる。一台は俺が使ってる」

「あなたが必要でしょう」とエリア。

「今は息できる。半分壊れてる二台をリメイクで交互に動かす。上の予備が来るまで持たせる」

「代金は」

「修理契約。公爵家じゃなく医療局へ請求する」

「通る?」

「通す。通らなきゃ毎日持っていく」

 ロロの怒りは、ただ上を嫌う熱ではない。

 請求書、部品表、作業時刻、署名。無視されない形へ怒りを加工する技術だった。

 工房へ向かう途中、露店の女が避難列へ黒パンを配っていた。

 札には一個八ルクとある。エリアは銀貨を一枚置き、パンを一つ取る。

「お釣り」と女が銅貨を山ほど差し出す。

「寄付で」

「寄付なら先に言いな。値段を知らず多く払うのは、買ったんじゃなく、私が安いと決めたのと同じだ」

 エリアはパンを持ったまま固まった。

「八ルクは、銀貨の何分の一?」

「百二十五分の一」とロロ。

「……そんなに」

「金翼の財布、重力違う?」

「金額を覚える」

 エリアは銅貨を受け取り、一枚ずつ数えた。途中で数を間違え、最初からやり直す。

 ハルがパンを半分に割る。

「地図の数字は得意なのに」

「距離は嘘をつかない。値段は人が決める」

「だから覚えるんだろ」

「ええ」

 エリアは半分をハルへ渡そうとした。

「俺、金払ってない」

「救助の報酬」

「まだ救助してない」

「では前金」

「前金は仕事を断りにくくする」

「細かい」

「母さんの教育」

 結局、四人で一口ずつ食べた。

 セレナは「証拠品へ油が付く」と言いながら、最後の一口を受け取った。ロロは自分の分を小さくちぎり、薬を飲む老人へ渡した。

 その時、天井の青い作業灯が一列消えた。

 ヴィエルの供給停止命令が届いたのだ。

 暗闇の向こうで、冷却ポンプが一つ、また一つと止まる。

 人々は悲鳴を上げなかった。

 停電に慣れすぎていた。

 代わりに手探りで灯を出し、子供の手を取り、壊れた機械へ人の腕を差し入れる。

「慣れてる」とハル。

「慣れたんじゃない」とロロ。「慣れないと死ぬから、覚えただけ」

 その言葉の直後、旧冷却槽の奥から、金属を引っ掻く声が聞こえた。

「第二避難環は去年の火事で半分閉鎖中だ!」

 誰かが叫ぶ。

「上は地図しか見てない!」

 エリアの右眉が上がった。

 命令へ怒ったのか、自分もつい先ほどまで地図だけを見ていたことへ怒ったのか、ハルには判別できなかった。

「閉鎖区画を迂回する道を描く」と彼女。

 白傘を槍へ変え、床へ金針を刺す。

「第二環までの現状図は?」

「ここ」とロロが壁の油染みた板を外す。「ただし三日前に管が一本落ちた」

「見た?」

「毎日」

「測った?」

「俺の歩幅で二百十七。おまえの歩幅なら百八十くらい」

「印を付けられる場所は?」

「赤い弁が三つ」

 エリアはうなずいた。

「道なき場所へ、道を。けれど道は、歩く者の一歩から始まる」

 淡緑の誓紋が踵から広がる。

 光の航路を描く地図術〈ルート・レイ〉が、壁、天井、配管の間へ何本もの線を引いた。線は避難者の足もとまで伸びたが、そこで止まる。

「緑の線へ一歩乗って!」

 エリアが声を張る。

「私が運ぶのではない。あなたが進む道を、落ちないようにつなぐだけ。子供から、荷車は一台ずつ!」

 最初の一歩を踏んだのは、杖をついた老女だった。

「公爵の娘が、下の道を知ってるのかい」

「知らないから、教えてもらったわ」

「それなら、まあ、知ったふりよりはましだ」

 老女の足の下で光が固まる。次の者が乗り、道が伸びる。

 エリアは一人で決めず、ロロへ距離を聞き、避難者へ通れない場所を尋ねた。質問するたび、彼女の道は細くなるどころか、正確になった。

 ハルは列の横で荷車を押した。左腕をかばうと、右手の黒糸が邪魔になる。

「セレナ、これ外せない?」

「逃走しませんか」

「落下中の街で、どこへ」

「あなたは空の裂け目から来ました」

「帰り道が分かるなら、先に教えてくれ」

 セレナは二秒考え、黒糸を手首から腰帯へ付け替えた。

「半径八メートル。線を越えたら拘束」

「信用が二メートル増えた」

「作業上の必要です」

「信用って呼んだ方が短い」

「短くして意味を変えないでください」

 避難路の最奥で、泣き声がした。

 人間ではない。金属を爪で引っ掻くような、低く細い声。

「冷却管の向こうだ」とロロ。

「立入禁止」とセレナ。

「何かいる」

「人命避難が優先です」

「人じゃなければ後回し?」

「そうは言っていません」

「じゃあ確認だけ」

「凪野ハル」

 呼び止める声より先に、羅針盤が鳴った。

 蓋が開き、針が熱い配管の間を指す。

 なくし物ではない。

 何かが、自分のいた場所へ戻れずにいる。