第10話 第五章「最上階と最下層」後編
配管の裏は、旧式冷却槽だった。
七本の細管が円形に並び、その中央で黒い生き物が鎖へ噛みついている。
猫ほどの大きさ。狐に似た尖った耳。夜の色を吸い込んだ毛。二本の尾の先だけが青白く、細い炎のように揺れていた。右耳の先には三角形の欠けがある。
「夜渡り……」
エリアが息を呑む。
「知ってる?」
「古い航海画でだけ。破約の匂いを追う夜獣〈ノクターン〉。絶えたとされているわ」
「絶えたって言いながら、目の前にいるな」
「歴史書は、生き物へ死亡確認を取りに行かないもの」
黒い獣は彼らを見ず、鎖の先を睨んでいた。
そこには、濁った硝子を寄せ集めたような怪物がいる。人の形に近いが、腕が六本、顔の位置に「あとで」「明日」「必ず」という赤い文字が浮かんでは割れる。
「破られた誓いから生まれる怪物〈ブレイク・ビースト〉」とエリア。「こんな市街にまで」
「どんな約束が材料?」
ロロが床の札を拾った。
「『冷却槽は祭礼前に必ず更新する』。上の工務局の署名だ」
「更新されてない?」
「予算書ではされたことになってる」
怪物が六本の腕を振る。
黒い獣は跳んだが、尾へ鎖が絡みつき、壁へ叩きつけられた。
「助けるぞ」とハル。
「待って」とセレナ。「怪物の核を確認する」
「待ったらもう一発来る!」
「無策で入れば二人増えます」
「じゃあ三秒で策!」
ハルは周囲を見る。
七本の細管。壊れた作業橋。手動弁。天井クレーンは錆びて停止。怪物の六本の腕は鎖から伸び、中央の未更新札へ集まる。
「ロロ、クレーン動く?」
「壊れてる」
「直せる?」
「今から全部は無理」
「前に動いた形へ戻すのは?」
ロロの目が変わった。
工具の話をされた時だけ、恐怖より先に計算が走る。
「構造は知ってる。三十秒なら」
彼は拘束された補助腕をセレナへ突き出した。
「外せ!」
「逃走――」
「工具持って逃げるなら上へ行く! 俺の工房は下だ!」
セレナが黒羽を振る。補助腕の枷が解けた。
ロロは四本同時に工具箱を開き、歯車、線材、油差しをつかむ。
「壊れた機械の動きを戻す術〈リメイク〉。新しい機能は足せない。昔できた動きしか呼べない。だから昔ちゃんと働いた機械は、今の役人より信用できる!」
「機械へ政治を言わせるな」とハル。
「俺が言ってる!」
青い誓紋が補助腕を走り、天井クレーンへ広がった。
錆びた歯車が一つずつ、過去の噛み合わせを思い出す。梁が軋み、鉤が動く。
「エリア、あの札まで道!」
「見えない。腕が塞いでいる」
「見える場所を作る!」
ハルは作業橋の手摺へ乗った。
「一、二、三」
飛ぶ。
怪物の腕が横薙ぎに来る。セレナの細剣が抜かれ、黒羽が刃の軌道を記録する。彼女は腕を切断せず、文字鎖の関節だけを突いた。
「右へ二歩!」
命令どおり踏むと、腕が頭上を通過する。
「見えてるのか?」
「いま見た事実だけです。次は保証しません!」
「十分!」
ハルはクレーンの鉤を蹴った。
鉤が振り子になり、六本の腕をまとめて引っ掛ける。ロロが叫ぶ。
「今!」
クレーンが巻き上げ、腕が上へ引かれた。
中央の札と、怪物の核になった割れた署名が露出する。
エリアが金針を投げる。札の縁へ刺さった。
「見た。測った。印を付けた。ハル、一歩!」
空中に淡緑の線が生まれる。
ハルは作業橋から踏み出した。靴の下へ光路が固まる。二歩目、三歩目。怪物が腕を引き戻し、クレーンが悲鳴を上げる。
「あと五秒!」とロロ。
「道も同じ!」とエリア。
「俺の人生、残り時間が短い説明ばっかりだ!」
核の直前で、左肩が抜けるように痛んだ。
身体が傾く。
黒い獣が鎖を噛み切り、ハルの胸へ飛びついた。二本の尾が背中へ巻き、体勢を押し戻す。
「助けられた?」
獣は返事の代わりに、ハルの顎を後ろ足で蹴った。
「礼儀が野生だな!」
羅針盤の針が、核の中心ではなく、その左下を指した。
署名札の裏。約束を破った言葉ではなく、最初に予算を別へ回した訂正印。
「なくなった理由は、こっちだ!」
ハルは札を裏返し、訂正印へ羅針盤の縁を叩きつけた。
結び目が白く浮く。
セレナが後方から黒羽を飛ばし、印の文字列だけを切断した。
怪物は声を上げなかった。
六本の腕がばらばらの赤い文字へ戻り、床へ落ちる。『必ず』が割れ、『あとで』が薄れ、最後に『予算上の都合』だけが妙に長く残って消えた。
クレーンも力を失う。
ハルが落ちる。
「ハル!」
エリアの光路は一度消えていた。
彼女は左踵を押さえながら、それでも白傘を突き出す。新しい線を描くには、見て、測り、印を付け、対象が一歩を踏まなければならない。
落下中の人間には、踏み出す床がない。
黒い獣がハルの配達鞄からロープを噛んで引き出し、クレーン鉤へ尾で巻いた。
ロロの補助腕がロープをつかむ。
セレナの黒糸が腰帯を引く。
三人と一匹に吊られ、ハルは床から一メートルで止まった。
「確認だけって言いましたね」とセレナ。
「確認した。怪物がいた」
「次からは、確認の定義を先に書面で決めます」
「紙が多い世界だな」
「あなたが増やしています」
黒い獣は救護されることを拒んだ。
ロロが首輪代わりの布を出すと牙を見せ、エリアが傷を見ようとすると傘の上へ逃げ、セレナが「保護対象」と呼ぶと七本並んだ採取管のうち一番端を前足で落とした。
「七つあると一個外すのか?」
ハルが並べ直す。
獣はまた一つ落とす。
「六が好き?」
今度は別の一つを落とす。
「数じゃないな。並んでるのが嫌い?」
獣は鼻を鳴らした。
ロロの工房へ着くまで、そいつは誰の肩にも乗らなかった。
自分で歩き、危険な管の手前で立ち止まり、ハルたちが正しい方角へ進むか確かめるように振り返る。
救われたのではない。
使える群れかどうか、試している。
ロロの工房は、機械が住み、人間が間借りしている部屋だった。
半分解体された小艇、脚だけの時計、翼のないブリキ鳥、名札の付いたレンチ。工具の名前は「焼き芋」「塩豆」「三日寝かせたパン」など、なぜか食べ物で統一されている。
「腹が減ってると工具を忘れない」とロロ。
「塩豆取って、って言われたら食べ物出しそう」
「工房で食べ物を出すやつが悪い」
停電で炉が使えず、夕食は冷たい豆スープと固い平パンになった。
エリアは代金として銀貨を三枚置いた。
ロロは一枚を見て、二枚を返す。
「多い」
「四人分と、その子の分」
「下の飯は施しじゃない。値段を知らないなら聞け」
「……いくら?」
「一人十二ルク。獣は食べた分」
「十二」
「今、百くらいだと思った顔したな」
「顔を読む術が流行っているの?」
「金持ちの顔は桁が多い」
黒い獣は平パンを七切れ並べたうち、一切れを床へ押し出し、残りから三切れだけ食べた。
セレナが落ちた一切れを拾う。
「食べ物を粗末にしないでください」
獣は彼女の袖から砂糖菓子の包みを抜いた。
「それは証拠――」
「まだ言うのか」とハル。
工房の片隅には、下層の作業時計があった。
大きな文字盤に、交代時刻、配給時刻、冷却弁の開閉時刻が三重で刻まれている。針は王都標準時と同じ八時五十六分を示し、背面の記録紙も止まっていない。
「これが独立基準?」
「上の時計が遅れると、下の給料まで遅らされるからな。昔、工房が自分たちで付けた」
「時間まで身分で別なのか」
「上は『公式時刻』。下は『腹が減る時刻』だ」
セレナが記録紙を採取する。
「午後八時十三分、浮力管の脈動増加。八時二十分、外廊投影と同時に第二管出力低下。二つは別の事象として記録されています」
「七分差」とハル。
ロロの補助腕が工具を並べ替え始める。小さい順、取っ手は外向き。考えたくないことがある時の動きだった。
「塔時計を触ったことは認めるんだな」
「認めた」
「七分遅らせた?」
「……」
「依頼したのは王子?」
補助腕が止まる。
本人の左手だけが、平パンを小さくちぎった。
「答えない」
「否定はしない」
「言葉を勝手に足すな」
「じゃあ引く。何も足さない。おまえが答えないって事実だけ置いとく」
ロロは顔を背けた。
「ずるいな、おまえ」
「何が」
「怒鳴った方が、こっちも怒鳴り返せる」
ハルは答えなかった。
怒鳴りたい気持ちはあった。だが、ロロの工具箱の上に、小さな薬包が積まれている。呼吸器の粉薬。工房の壁には、熱で倒れた作業員の交代表。上層の正しさへ口を閉ざすことでしか届かなかった場所が、この少年にはあった。
黒い獣が、銀鏡から採った塩露の管へ鼻を近づけた。
二本の尾の先が青白い星形へ変わる。
次に工房の床を嗅ぎ、古い配管の奥へ顔を向ける。鏡の匂いとは別方向。それより古く、深い何か。
「破られた約束の匂い?」とハル。
獣は短く「ノゥ」と鳴いた。
「ノゥ?」
もう一度、「ノゥ」。
「じゃあ、ノクス」
「鳴き声を名前にするの、雑じゃない?」とロロ。
「おまえ工具をパンって呼んでるだろ」
「道具は文句言わない」
ノクスはハルの耳を噛んだ。
「文句あるらしい」
それでも逃げず、配達鞄の上へ丸くなる。
選んだのか、単に一番温かかったのかは分からない。
分からないままにしておくのも、相手を所有しない方法の一つだった。
エリアが立ち上がる。
三つ編みの金針を数え、一本足りないことへ気づいたように指が止まった。
ハルは彼女の袖口に残る白い花粉を見た。工房の油煙の中でも、月百合の香りだけは冷たく甘い。
「エリア」
「何」
「塔の花、祝宴で触ったんじゃない」
彼女の淡緑の瞳が、静かにハルへ向く。
「王子へ渡したんだろ。鏡を開けるために」
工房の作業時計が、九時を告げた。
上層の塔時計より七分先に、真実へ一歩近づく音だった。
◇ ◇ ◇