第11話 第六章「七分遅れの時計」前編
時計は時刻を示す道具ではない。
正確には、誰と誰が同じ時刻を信じるかを決める道具である。
市場の鐘と工房の交代笛が五分ずれていれば、遅刻者は五分のあいだに生まれる。王城の時計が正しく、港の時計が誤っていると法律に書けば、船は海ではなく裁判で沈む。
ルミナス王国が統一時刻を定めたのは二百十二年前だが、最下層の作業時計だけは一度も王城へ針を預けなかった。
労働者は思想より先に、賃金の切り捨てへ敏感だったのである。
「言わない」
エリアは言った。
「言えない、じゃなくて?」とハル。
「言わない。そこは私が選ぶ」
「選んだ結果、王子が見つからなくても?」
「脅しているの」
「確認してる」
「同じ言葉を低い声で言えば脅しになると思っている?」
「今の俺、低かった?」
「普段より半音。真剣な時だけ無駄口が減るから、かえって分かりやすいわ」
「無駄口を音程で数えるな」
ロロの工房で、作業時計の九時の音が消えても、エリアは月百合のことを話さなかった。
代わりに彼女は冷えた豆スープの器を両手で包み、表面へ映る自分の顔を見ている。月百合の強い香りが苦手らしく、ときどき呼吸を浅くする。幼い頃の病で左肺が弱いと、ロロが薬箱を探す横で小声に教えた。
「公爵令嬢にも弱いところあるんだな」とハル。
「公爵家は肺を二つ以上持っているとでも?」
「金で増やしそう」
「それは公爵家ではなく怪物よ」
「上の人間を怪物扱いする権利、下の区画にある?」とロロ。
「あるわ。少なくとも、本人の前で言うなら」
ロロは一瞬きょとんとし、それから鼻で笑った。
「ちょっとだけ、金翼っぽくないな」
「褒め言葉として受け取るべき?」
「高値で売れるうちに」
セレナは工房の机を臨時の証拠台へ変えた。
塔から採った青い蝋、月百合の花弁、塩露、蝋燭の燃焼片。下面作業時計の記録紙。すべてを白布の上へ時刻順に置き、黒羽で番号を振る。
「九時三分。塔時計整備記録を確認します」
ロロが顔をしかめた。
「飯の最中に取り調べるな」
「食べ終わるまで待ちました」
「まだパンの角が一個ある」
「それはノクスが床へ落とした分です」
「洗えば食える」
「床油の成分表を読み上げましょうか」
「取り調べを始めてください」
セレナが記録帳を開く。
「今朝六時四十分、星見塔の時計機構を点検。担当、ロロ・ピクス。交換部品なし。制動蝋使用量、十二グラム。通常点検の三倍です」
「古い歯が鳴いてた」
「どの歯です」
「第四逃し車」
「交換しなかった理由」
「予備が上の倉庫にしかなくて、鉄翼の俺には鍵が出なかった」
「記録に申請却下印があります。事実と一致」
「ほらな」
「ただし、十二グラム全部を第四逃し車へ使えば、時計は故障します」
ロロの補助腕が、机の下で互いの指を絡めた。
「三グラムは整備。残り九グラムは?」
「……」
「塔床の欠片、鏡の目へ詰められた分を合わせても四グラム。まだ五グラム不足」
「計算が細かいな」
「人の自由を奪う時、計算が粗くてよい理由はありません」
ロロは青いゴーグルを外した。
右目を何度か瞬く。右レンズだけ度が入っており、裸眼では焦点が合いづらい。嘘をつくより、相手の顔を見ないために外したのだとハルには分かった。
「塔時計を、七分遅らせた」
「方法を」
「八時六分から八時十三分まで、逃し車の戻りを一段ずつ抑える。急に七分飛ばすと鐘の記録へ傷が残る。だから一分ごとに少しずつ盗んだ」
「時間を盗んだ」とハル。
「借りたんだ。返すつもりだった」
「時間へ返却口ある?」
「八時二十分に制動が溶ければ、針は早回りして標準時へ戻る。儀式が終わったあとなら、誰も気づかない予定だった」
「戻らなかった」
「月光で鏡の溝が開いた時、蝋が逆へ流れた。歯に噛んで時計が八時十三分で止まった」
セレナが記す。
「依頼者は」
「言わない」
「王太子ですか」
「言わない」
「目的は」
「言わない」
三度目の言葉で、ロロは拳を握った。
ひびの音はしない。
彼の誓いは、機械を直すことでも秘密を守ることでもない。まだハルは知らない。ただ、少年が黙るたび、誰かの部品として捨てられまいとする硬さだけは見えた。
「約束した相手が、戻ってこなくても?」
ハルが聞く。
「戻るって言った」
「何時に」
「儀式が終わるまで」
「終わってない」
「だから約束も終わってない!」
ロロの声が工房へ跳ね返った。
ハルは言い返しかけ、やめた。
八年前、自分も同じことを考えた。父が「帰る」と言った以上、帰るまでは約束が破れたことにならない。今日ではなく明日かもしれない。来月かもしれない。そうやって期限を引き伸ばせば、裏切られたとは認めずに済む。
待つ者は、約束へ優しい。
その優しさで、自分の時間を削る。
「分かった。今は依頼者を聞かない」
「諦めたの?」とエリア。
「時計を先に調べる。人の口より、歯車の方が話したいらしい」
一行は再び上層へ戻った。
今度は貨物昇降機が停止していたため、島の外壁を走る保守軌道車を使う。二人乗りの台車へ四人と一匹が詰め込まれ、ロロが手動レバーを回すたび、鎖の軌道を火花を散らして登った。
「定員二名」とセレナ。
「大人二名。俺たち三人で二・三人分」とロロ。
「獣は」
「荷物」
ノクスがロロの頭へ前足を置いた。
「乗客です」とロロは即座に訂正した。
上昇中、王都の各層が窓のない台車の横を流れた。
下面では避難者が緑の路図を歩き、工房街では停止した機械を手で回し、商業街では店主たちが商品棚へ縄を掛けている。貴族街では使用人が窓を塞ぎ、主たちは王城からの発表を待っていた。
危機は同じ速度で街へ来る。
備えの厚さだけが違う。
エリアは路図を維持するため、ときどき踵を押さえた。
「痛む?」
「歩ける」
「質問へ答えてない」
「あなたに言われたくないわ」
「俺は痛い時、顔に出る」
「出ないように笑うでしょう」
ハルは返事に詰まった。
出会って数時間の少女に、父と同じ癖を見抜かれるのは気分が悪い。自分のものだと思っていた傷が、他人から見える窓だったと知るからだ。
「痛い」とエリアが言い直した。「左踵。路図を三本以上同時に維持すると熱を持つ」
「じゃあ休め」
「避難路が消える」
「誰かへ渡せないの?」
「私の術よ」
「道を独り占めしてる」
「……言い方が悪い」
「内容は?」
「もっと悪い」
エリアは怒ったが、次の中継針へ着くと、下層の作業員に線の監視を頼んだ。自分だけで持たず、印を見張る役を渡す。路図そのものは彼女の術でも、道を守る仕事まで彼女一人の所有物ではない。
小さな変更だった。
物語の中では小さく見える変更が、生活の中ではいちばん長く残る。