第12話 第六章「七分遅れの時計」後編
学院へ戻ると、リディアが時計室で待っていた。
部屋の壁という壁に時計が掛かっている。砂時計、水時計、星晶振子、鳥が時刻を叫ぶ木箱、月の影だけで動く白盤。すべてが少しずつ違う音を立て、正確さの大合唱というより、間違いの合唱になっていた。
リディアの腰には、銀時計と木時計が二つ。
「ようこそ。時計は人数が増えるほど、口論に向いています」
「学院長、分かってたのか」とハル。
「何をでしょう」
「二つの時計がずれてること」
「時計が二つあれば、ずれているのが普通です。完全に同じなら、片方を持つ意味がない」
「哲学で逃げた」
「学院長は出口を多く持つ職業です」
セレナが証拠を並べる。
「銀時計は王都標準時。木時計は?」
「厨房、診療室、工房の三施設が毎朝合わせる生活時計。鐘の権限が王城へ集中した時、先代学院長がこっそり残しました」
「こっそり制度を残すの、学院長らしいの?」とハル。
「堂々と残せなかった制度ほど、後世で美談になります。私は美談が嫌いなので、記録も残しています」
銀時計と木時計は現在、同じ九時四十一分。
リディアは儀式直前の記録紙を取り出した。午後八時十三分、木時計と銀時計は一致。星見塔の遠隔盤だけが八時六分。午後八時二十分、両時計は八時二十分、塔盤は八時十三分で停止。
リディアは「理解したつもり」を嫌った。
ゆえに、時計の差を紙の上で終わらせず、時計室の実験台へ三つの小型機構を並べた。
一つ目は王都標準時の模型。
二つ目は星見塔と同じ逃し車を持つ模型。
三つ目は下面区の作業時計と同じ、振子と紙帯だけの簡素な模型。
「同じ時刻から始めます」とリディア。「ロロ、実際に行った調整を再現してください。ただし制動は七十分の一。七分ではなく六秒の差にします」
「犯行再現みたいで嫌だ」
「あなたが犯人とは決めていません。機構の再現です」
「言葉は正しいけど気分が黒い」
「気分は記録欄の外です」
ロロは青蝋を針先ほど取り、塔模型の第四逃し車へ塗った。
「いきなり止めるんじゃない。一歯ごとに、戻りをほんの少し遅くする。見た目は動いてる。だから正面から時計を見ても気づきにくい」
三つの秒針が進む。
最初は揃っている。
一周目で塔模型だけ一秒遅れ、二周目で二秒。差は小さい。小さいから誰も異常と呼ばない。
「七分を一度に盗むと事件になる」とハル。「一分ずつ借りると調整に見える」
「盗んでない」とロロ。
「返す前提だった」
「そうだ」
「返す時はどうする?」
「月が最大角を過ぎると、受光器の熱で青蝋が溶ける。逃し車に溜めた六秒分が早回りで戻る」
実験台の小さな受光器へ、リディアが白灯を当てる。
青蝋が柔らかくなる。
塔模型の秒針が速まり、標準模型へ追いつく――はずだった。
途中で、鏡縁を模した細管へ蝋が吸われた。
歯車に欠片が噛み、針が六秒遅れの位置で止まる。
「本番と同じ」とセレナ。
「鏡の逆文字を開くため、誰かが細管の封止を外した」とエリア。「溶けた蝋が時計へ戻らず、鏡側へ流れた」
「その誰かは、仕掛け全体を知っていた」とハル。
ロロが唇を噛む。
知っていたのは、少なくとも三人。
計画を立てたカイル。
古航路を読んだエリア。
時計を調整したロロ。
そして、六百年前の改修記録へアクセスできる者。
「制動蝋が鏡に詰まっていたのは、痕跡を消すためじゃない」とハル。「門を封じた昔の仕組み。その一部を今夜、逆に使った」
「犯罪のために新しい機械を作ったのではない」とセレナ。「既存の安全機構を、目的だけ変えた」
リディアが三つの時計を止める。
「道具は、使い手の動機を保存しません。保存するのは動きです。だから動きから、誰が何を望んだかへ飛ばないように」
「学院長、いつも推理の勢いを止めるな」とハル。
「制動蝋の役目です」
「自分で言う?」
ノクスが実験台へ飛び乗った。
七個並んでいた青蝋の小球から、一つを前足で床へ落とす。残る六つを嗅ぎ、そのうち二つへ尾先の星を向けた。
「何が違う」とロロ。
セレナが採取する。
一つはロロが今触った蝋。
もう一つは星見塔の鏡から採った蝋。
同じ材料だが、鏡の方にはごく薄く、月百合の油分が混じっている。
「エリア」とハル。
「月百合を使えば付くわ」
「自分で?」
「……答えない」
ノクスは残りの球へ興味を失い、床へ落とした一つだけを転がして遊ぶ。
「こいつ、証拠の選び方が自由すぎる」とロロ。
「人間の捜査へ協力してるつもりはない」とエリア。
「じゃあ何してる」
「自分が嫌う匂いを分けているだけ」
ハルはノクスの前へ手を出した。
「約束を破った人が分かる?」
ノクスは無視する。
「理由は?」
無視。
「時刻は?」
青い球をハルの指へぶつける。
「分からないんだな」とハル。
ノクスの耳が伏せる。
「責めてない。分からないことが分かるのは、大事だ」
黒い獣は一秒だけハルを見て、配達鞄の上へ移った。
破約の匂いを嗅げても、誰が、なぜ、いつ破ったかは分からない。
力の限界を先に知ることは、力を信じるより難しい。
「塔だけが七分遅れていた」とセレナ。
「王都の時間が遅れたのではない」とハル。「塔の中にいた王子だけが、七分前の世界にいた」
ロロが唇を噛む。
「王子は八時十三分を待ってた」
言った後で、しまったという顔をした。
「何のために」とセレナ。
「……月がいちばん重なる」
「月百合が必要?」とハル。
エリアの指が三つ編みの針へ伸びる。
今度は途中で止め、自分の膝へ置いた。
「月百合は、月光を一時的に溜める」
「渡したんだな」
「用途だけ答えたわ」
「誰に」
「答えない」
「塔の鏡へ使う?」
「答えない」
「王子は鏡から出た?」
「答えない」
ハルは息を吐いた。
「答えない三段活用」
「茶化さないで」
「茶化さないと怒鳴る」
「怒鳴ればいいでしょう」
「怒鳴った言葉って、戻らないから」
エリアが彼を見る。
ハルは羅針盤の蓋を四回叩いていた。三回を越えるのは、不安が指へ漏れた時だ。
「父さんが帰るって言って消えた。だから俺は、帰れないかもしれない時に帰るって言えない」
「それと、私たちの約束に何の関係があるの」
「分からない。でも、待つ側がどうなるかは知ってる」
「カイルは帰る」
「ロロも同じこと言った」
「帰るわ」
「何時に」
エリアは答えられない。
木時計の振子が、一往復する。
リディアが静かに口を挟んだ。
「約束には、成立した時点の条件があります。条件が変わっても、言葉だけを同じ形で守るべきか。それは学院の試験には出ません。採点者が困るからです」
「じゃあ、何で決める?」
「選び直した後、自分で結果を引き受けられるか」
「便利な答えね」とエリア。
「便利ではありません。引き受けるのは、たいてい高くつきます」
リディアは青い制動蝋を温め、鏡縁から採った欠片へ重ねた。二つは同じ温度で柔らかくなり、歯車形の印がつながる。
「制動蝋は時計だけに使われていない」
彼女は古い星見塔の図面を広げる。
「西鏡の縁には、本来、正向きと逆向きの誓文が彫られていました。三百年前の改修で『危険な迷信』として封鎖。文字溝を青蝋で埋め、装飾へ見せかけた」
「誰かが今朝、その蝋を一部外した」とセレナ。
「ロロの作業缶から」とハル。
ロロが机を睨む。
「俺は時計へ入れた。残りは……依頼したやつが持っていった」
「王子?」
「言わない」
しかし、もう否定は薄かった。
セレナは塔の蝋燭記録を時計図へ重ねた。
「八時十三分。塔内の月光受光器が最大値。時計盤は八時六分を示す。八時二十分。塔盤は八時十三分で停止。外廊の証人灯が点火し、誓紋を伴う王太子像が出現」
「王子が部屋にいたなら」とハル、「八時二十分に外廊へ出るまで、どこかで七分待ったことになる。でも足跡は鏡で終わってる。窓も扉も通ってない」
「八時十三分に鏡へ入った可能性が高い」とセレナ。
「じゃあ八時二十分の王子は?」
時計室の全時計が、同じ質問を別々の音で刻んだ。
セレナは証羽を一枚開く。
午後八時二十分の外廊像が、灰色の光で再現される。赤金の髪、白礼装、深紅の半マント。右腕には獅子の炎。身体に現れる誓紋は、王家の登録記録と一致していた。
「映像が粗い」とハル。
「私の位置から見た範囲です」
「顔は?」
「輪郭のみ。しかし誓紋は明瞭」
「動きは同じの繰り返しだ」
「儀礼動作とも考えられます」
「影みたいだ」
「仮に影でも、誓紋だけは本人です」
エリアが低く言う。
「誓紋は魂へ結ばれる。切り離せない」
「ヴィエルも言った」
「事実よ」
「でも言い方が割れた。偽造できないのと、本人がそこにいるのは同じじゃない」
「では、何を見たの」
「王子の誓いを見た。王子そのものじゃなく」
それはまだ仮説ですらなかった。
形のない疑問に、言葉を一枚かぶせただけだ。
ドアが開いた。
ドランが書類の束を抱えて立っている。完璧だった金髪は乱れ、白手袋の右手首には包帯が巻かれていた。
「証拠を持ってきた」
「誰に頼まれた?」とセレナ。
「頼まれていない。私は祝宴会計の補助委員だ。儀礼用燃料、蝋燭、花、料理、すべての納品時刻を記録している。貴様らが好き勝手に王家を疑うなら、帳簿の側から殴ってやる」
「帳簿は殴らない」とハル。
「比喩だ!」
「上の人も比喩使うんだな」
「侯爵家を何だと思っている!」
「床を見ない人」
ドランの顔が赤くなる。
だが反論する前に、机から落ちかけた皿を左手で受け止め、そっと端へ戻した。
自分でやったことに気づき、さらに赤くなる。
「……昨日の件は、別だ」
「まだ昨日になってない」
「気分の上では一生分経っている!」
帳簿には、証人灯用の燃料管が八時二十分零三秒に作動した記録があった。塔内の八本は八時零分。差は二十分。さらに、儀式用反射板一基が三日前、宰相管理区へ移送された許可証の写しも挟まっている。
「反射板」とエリア。
「銀鏡と同じ規格ね」
「許可印は」とセレナ。
「ノクティス宰相府」
ドランが胸を張る。
「だが宰相閣下は八時十五分から評議会席にいた。何百人も見ている。八時二十分の失踪には関われない」
「失踪が八時二十分なら」とハル。
「何?」
「王子が消えたのは、八時十三分かもしれない」
ドランの帳簿が、わずかに下がった。
ドランの帳簿には、もう一つ妙な支出があった。
「王家儀礼衣装・誓力残滓除去」。通常は祭りの翌朝に行う洗浄が、今年だけ儀式前日に一度追加されている。
「何を洗った」とセレナ。
「王太子殿下の予備半マントと手袋一組。理由は『残火過多』」
「残火?」とハル。
「長く使った誓具には、使い手の誓力が熱のように残る」とエリア。「他人が触れても術は使えないけれど、検査灯へ近づけると色が出る」
「指紋みたいなもの?」
「指紋より薄く、匂いより長い」
ドランは自分の白手袋を片方外した。
「これで試せ。私は十三歳から同じ家訓誓礼をしている」
「家訓は?」
「侯爵家の品位を落とさない」
全員が彼の汚れた靴を見る。
「今日は例外だ!」
「誓いに例外を付けると割れない?」とハル。
「品位は汚れの有無ではない!」
「便利な再定義」
「うるさい!」
リディアが手袋を検査灯へ置く。
薄い金色の翼が一瞬浮かび、すぐ消えた。ドラン本人の姿は出ない。
「残火だけで人影は作れない」とセレナ。
「普通の装置では」とエリア。
「普通じゃない装置がある?」
「古い葬儀記録に、亡くなった者の最後の姿を映す術があったと読んだことがある。でも禁術指定。実物は残っていないはず」
「『はず』」とハル。
「推測語です」とセレナ。
「分かって使ってる」
ノクスがドランの手袋を嗅ぎ、くしゃみをした。
「失礼な獣だな!」
「月百合の花粉」とエリア。「あなた、アレルギーでしょう。袖に付いている」
「祝宴の飾りのせいだ。鼻が詰まっているから、外廊像の声を聞けなかったのではない!」
「声は最初から出ていなかった可能性がある」とハル。
「私の鼻を証拠にするな!」
笑いが一度だけ起こった。
夜十時を過ぎ、全員の疲労が言葉の角を丸くし始めている。
リディアは温かい茶を四杯と、冷たい水を一杯出した。
エリアには月百合の香りが残るため水。ロロには咳を抑える蒸気茶。セレナには砂糖を入れないふりをして、底に一欠片だけ沈める。ハルには地球の茶と似た色だが、飲むと舌が少し浮く葉茶。
「この世界、食べ物が身体を浮かせすぎ」
「浮く世界だから」とロロ。
「地球の食べ物は?」
「食べすぎると重くなる」
「不便」
「落ち着くぞ」
エリアが水を一口飲む。
「地球へ帰りたい?」
「帰りたい」
即答した後、ハルは羅針盤を見た。
「でも父さんのことも知りたい」
「二つは反対?」
「今は同じ針が指してる気がする」
「その針、迷っているでしょう」
「迷ってるのと、二つ欲しいのは違う」
エリアは小さくうなずいた。
「行き先は一つに決めるものだと思っていた」
「地図は何本も道がある」
「でも歩けるのは一度に一本」
「途中で選び直せる」
彼女は答えず、水杯の縁をなぞった。
秘密を話すか、約束を守るか。その二択しかないと思っている顔だった。
セレナが茶を置く。
「休憩終了。次は古航路記録を確認します」
「砂糖、溶けた?」とハル。
「記録対象外です」
「甘党確定」
「拘束を戻します」
全員が立つ。
疲れても、王子の影は外廊に残ったまま待っている。
七分。
たった七分は、祭りの音楽なら一曲にもならない。
犯罪の時刻を移すには、十分すぎる長さだった。
それでも壁は残る。
八時二十分、数百人が見た王家の誓紋。
偽造できない印。
本人から切り離せないはずの火。
ハルは灰色の像へ手を伸ばした。
触れれば光は崩れる。
「こいつは王子じゃない」
「証明できますか」とセレナ。
「まだ」
「なら、何です」
ハルは答えられなかった。
時計の七分は取り戻した。
その七分の中に王子が消えたことも分かった。
だが時間を戻しても、誓いの影だけが外廊に立ち続けている。
夜十時。
残り二時間。
すべての時計が同時に鳴った。
正しい時刻へ揃った音は、答えではなく、次の謎の開始を告げていた。
◇ ◇ ◇