第14話 第七章「鏡の裏の海」後編
本の崩落を片づけた後、セレナは移送台帳を見つけた。
三日前、星見塔改修品として保管されていた旧式銀鏡一基が、「祭礼用反射板」の名目で星脈炉・宰相管理区へ運ばれている。
許可印はヴィエル・ノクティス。
搬出時刻、午後六時四十分。
受領欄は空白。
「受領者がいない」とハル。
「管理区へ自動搬送された場合は、管理印だけで成立します」とセレナ。
「誰でも取れた?」
「宰相府の命令札があれば」
「ヴィエル本人じゃなくても」
「可能です。だから許可印だけでは本人の関与を断定できません」
さらに評議会の入室記録を開く。
ヴィエルが証羽に映るのは八時十五分十二秒から。八時以前の所在は、危機対策室と記載されているだけで、目撃記録がない。
「八時十三分に炉心側へいて、二分で評議会へ?」とロロ。
「宰相専用の短距離転送管なら、炉外縁から評議会地下まで一分二十秒」とエリア。
「詳しいな」
「公爵家は非常時の避難路を学ぶ」
「下の避難路は知らなかった」
「……その通りよ」
彼女は言い訳しなかった。
認める言葉は、時に謝罪より重い。
セレナは証羽を閉じる。
「ヴィエルには八時十五分以後のアリバイがある。八時十三分以前はない。犯行時刻の移動が立証できれば、捜査対象になる」
「でも外廊の誓紋が残る」とハル。
古航路書の後半に、鏡門の付属技術が載っていた。
葬儀で故人の最後の姿を数秒だけ映す術。長く身につけた品へ残る誓いの熱を、像へ整える。
古航路書は、その術を「本人の残り火で作る誓いの影」と説明し、古称を本人の残り火で作る誓いの影〈ヴォウ・シェイド〉と記していた。
「誓影」とエリア。「誓紋そのものを偽造するのではない。品に残った本物の一部を映す」
「だからヴィエルの言葉は狭かった」とハル。「偽造はしてない。借りた」
「像を作るには、本人が長く身につけた物が必要」とセレナ。
「王子の右籠手?」
「大きすぎる。外廊で見えた」とロロ。
「籠手の内側の誓布手袋なら」
エリアの声が固くなる。
「カイルは右手の籠手の下に、赤い内手袋を着ける。幼い頃から同じ織り方のものを使っているわ」
証拠が形を持ち始めた。
だが、鏡門の向こうへ行かなければ、手袋も王子も見つからない。
星見塔へ戻り、銀鏡の裏を調べた。
鏡は壁へ固定されているのではなく、巨大な円盤の一部だった。ロロが床の青蝋を除き、古い歯車へリメイクをかける。六百年前の機構が、眠りから起こされるように低く鳴った。
銀鏡が半回転する。
裏面には波の浮彫りと、左右反転した誓文。
ただし文字溝の大半は青い制動蝋で埋められている。
「時計を遅らせる蝋が、文字も遅らせてたんだな」とハル。
「意味が流れる速度を止める封蝋」とエリア。「誰かが今朝、必要な箇所だけ掘り出した」
彼女はようやく、月百合の小瓶を袖から出した。
空だった。
「これをカイルへ渡した」
セレナの目が鋭くなる。
「正式な供述ですか」
「まだ……用途だけ」
「まだ隠すのか」とハル。
「あなたに言われたから話すのではない」
「分かってる」
「状況が変わったから、選び直す」
エリアはハルをまっすぐ見た。
「ただし、全部は次の準備が整ってから。いま話して作業が止まれば、カイルへ届かない」
「期限と場所は」
「人工月光を組む前。ここで」
「約束?」
「確認手順」
「言い換えた」
「刃物を持つなら、鞘も用意するのよ」
リディアが祭礼倉庫から、砕けた銀砂糖の月ではなく、本物の反射銀板を運ばせた。ドランは祝宴会計を盾に作業員を集め、文句を言いながら自分でも板を持つ。
ロロは二枚の集光鏡を修理し、セレナは入射角を記録する。
エリアが月光の道を描く。
作業は、光を当てれば終わるほど詩的ではなかった。
東塔の反射角を〇・一度変えるたび、塔上の集光鏡は十七センチずれる。十七センチずれれば、銀鏡の逆文字へ入る光は一文字分外れ、その一文字が「結ぶ」から「裂く」へ変わる。古代技術が神秘的に見えるのは、整備記録が失われた後だけである。現役時代の神秘は、たいてい細かい注意書きに囲まれている。
「注意一」とロロが古航路書を読む。「二つの月を完全一致させるな。門が行き先を失う」
「重ねる儀式なのに?」とハル。
「少しずらす。片方を入口、片方を出口として見分けさせる」
「月にも名札がいるのか」
「おまえだって異界人札つけられただろ」
「月より扱いが雑だった」
「注意二」とセレナ。「通過者は、自分の名と行き先を入口側へ残す。未記入の場合、帰還時の照合ができない」
「書けば帰れる?」
「書いたから必ず帰れる、ではありません」
「保証書の小さい字みたいだな」
「大きく書いてあります」
「古空語で」
「読めない者が使う想定ではないのでしょう」
「便利な道って、いつも読める人だけの便利から始まるのね」とエリア。
彼女は床へ五つの退避線を描いた。銀鏡から二歩、五歩、九歩。光が暴走した場合、どの線まで下がるかを色ではなく形で区別する。色覚の違う作業員にも分かるよう、第一線は円、第二線は三角、最終線は途切れた四角。
「誰に教わった?」とハル。
「母の古い作業帳」
「さっきの、線の外を見る人」
「ええ。私は母の地図を覚えているのに、母が地図で守ろうとした人を見ていなかった」
「今見たなら、次の線が変わる」
「あなたは何でも道にするのね」
「配達員だから」
「理由になっていない」
「職業は便利な言い訳だよ」
「星律官にも聞かせたい言葉ですね」とセレナ。
「聞いてた」
ドランが蓄光器を二基運び込んだ。右手首を布で固定しているのに、左だけで重い箱を抱えている。
「これは学院天文科の備品だ。破損した場合、請求先を明記しろ」
「王家」とロロ。
「王太子本人の署名が要る」
「助けた後に書かせる」
「助からなければ?」
「おまえ、会計で不吉な条件分岐するなよ」
「帳簿は希望的観測で閉じない!」
ハルは蓄光器の側面を見る。金章用、銀章用、鉄章用と、接続口が三段に分かれていた。無所属用はない。
「俺、どこへつなぐ?」
「本来は触らない」とドラン。
「本来が役に立った日だった?」
「……予備整備口がある。章認証を通さない代わり、逆流保護もない」
「最初からあるなら、何で隠す」
「隠していない。蓋が付いている」
「蓋の内側に制度を入れるな」
ドランは言い返しかけ、予備口の蓋を自分で開けた。
「感電したら私の責任になる」
「心配?」
「会計上の――」
「それ、心配を冷たく言う流行?」
「違う!」
リディアは二つの時計を鏡の正面へ置いた。一つは学院標準時。一つは針を七分遅らせた塔時計。
「今夜、この街には二つの時刻があります」と彼女。「どちらかを偽物と呼べば、そこで考えるのをやめられる。ですが遅れた時計も、事件を正しく語っている。誰が、何のために、七分を作ったかを」
「学院長は行かないの?」とハル。
「行きません。避難所と地上側の門を維持する者が必要です」
「怖い?」
「はい」
即答だった。
「学院長は、怖くない顔をする仕事だと思ってた」
「怖くない者へ、撤退判断は任せられません。恐怖は距離を測る感覚です。従うだけなら足枷ですが、無視するより正確です」
リディアは欠けた左指で、最終退避線をなぞった。
「向こう側に王太子がいても、全員が死ぬ方法では救わないでください。英雄譚は人数を省略しますが、私は出席簿を省略できません」
ロロが撤退レバーを握り直した。
「了解。全員分、帰りの席を残す」
その一言で、鏡門の再現は救出作戦になった。
入る勇気ではなく、戻す責任を含んだ時、冒険は計画になる。
「次の自然反射は一年後」と彼女。「でも大小二つの光源を、同じ角度で七秒だけ重ねれば、門の表面反応までは再現できる」
「七分じゃなく?」
「人工では七秒。通過には足りない」
「なら、何を確認する?」
「向こう側が存在すること。反応が出れば、出力を上げて一度だけ開く」
ロロが撤退レバーを握る。
「七十パーセントを越えたら切る。誰が何と言っても」
「王子が見えても?」とハル。
「見えても。見えることと届くことは別だ」
大小二枚の反射板へ光が入る。
銀鏡に二つの白円が重なる。
エリアが一滴だけ残していた月百合の露を、逆文字へ落とした。
鏡面が揺れた。
水ではないのに波が立つ。
室内の空気へ塩の匂いが満ち、銀面の向こうに、暗い通路と青白い巨大な光が一瞬だけ映る。
その床を、赤い布片が滑っていった。
「カイルの半マント」とエリア。
「向こうは炉心区画」とロロ。
鏡面の奥で、何か重いものが鎖を引く音がした。
ノクスの二尾が青い星形になる。
破約の匂い。
近い。
「反応終了!」
ロロがレバーを切る。
銀面はただの鏡へ戻った。
全員の顔が映る。
五人と一匹。
それぞれ違う理由で、同じ向こう側を見ている。
「開けられる」とエリア。
「一度だけ」とロロ。
「開けたら戻れる保証は」とセレナ。
「ない」とハル。
「即答しないでください」
「でも行く」
鏡の裏には海があった。
海の向こうに、王子へ続く足跡がある。
そして王都の残り時間は、一時間四十分を切っていた。
◇ ◇ ◇