第16話 第八章「炉心へ続く足跡」後編

 鏡門を再起動するには、塔へ二つの月を作る必要があった。

 一つは王城東塔から反射する白光。

 一つは祭礼山車に積まれた銀円盤からの反射。

 ところが王都の傾斜で、山車は広場の反対側へ滑り、倒れた鐘楼と瓦礫の向こうに止まっていた。

「取りに行く」とハル。

「肩が使えない」とエリア。

「足は二本ある」

「あなたは身体を部品表で考えるのをやめなさい」

「ロロに言って」

「俺は部品の欠損を把握してるだけだ!」

 時間は十時二十八分。

 主炉休止まで一時間三十二分。

 反射板を塔へ向けなければ、鏡は開かない。

 広場へ出ると、月冠祭の飾りが災害の瓦礫へ変わっていた。白い幟が地面を流れ、浮遊灯が逆さに燃え、壊れた菓子屋台から星果実が転がる。中央では銀円盤を載せた山車が、傾いた石床の下へ少しずつ滑っている。その先は学院外縁。落ちれば雲海まで止まらない。

 ドランが十数人の生徒を指揮して縄を張っていた。

「遅いぞ!」

「手伝ってるのか」とハル。

「会計資産を保全している!」

「山車が落ちたら弁償?」

「王室祭礼費の三割だ!」

「動機が数字」

「数字は裏切らん!」

「帳簿が一番好きなんだな」

「勝手に人の恋愛対象を決めるな!」

 山車の車輪が一つ外れた。

 銀円盤が傾き、生徒たちが悲鳴を上げる。

「全員、縄を離して!」とエリア。

「離せば落ちる!」とドラン。

「いまの位置では一緒に引かれる。三歩右へ移って、私の線に乗って!」

 エリアは広場全体を見渡す。

 見える。だが傾斜は変わり続け、測った数値が一秒ごとに古くなる。

「ロロ、車輪を戻せる?」

「昔の動きなら二十秒。軸が割れてるから、それ以上は保たない」

「二十秒で塔の向きへ回す」

「誰が押す」

「全員」

 セレナが黒羽を広場へ飛ばす。

「私の羽が通った位置だけ安全と確認済みです。逸れないでください」

「星律官殿、命令権は私に――」

「ドラン・グランデ。右手首を負傷。縄の張力へ耐えられません」

「なぜ知って」

「見れば分かります」

「顔は証拠でないのでは?」とハル。

「腫れは物証です」

 ドランは悔しそうに右手を隠した。

「なら左で引く」

「皿より先に人を見るんじゃなかった?」とハル。

「私は皿を見ていた!」

「誇るな」

「だが……人も見る」

 彼は周囲の生徒へ声を張った。

「怪我人は下がれ! 翼章で列を分けるな、体格で分けろ! 軽い者は外縄、重い者は内縄! 会計上の損失は私が引き受ける!」

「最後だけ貴族」とロロ。

「使える貴族なら今は使え」とハル。

 ロロが山車の軸へ飛びつく。

「壊れた動きよ、まだ終わったふりをするな。二十秒だけ前の自分を思い出せ!」

 青い誓紋が車輪へ走る。

 割れた軸が光でつながり、山車が一度だけ正しい姿勢へ戻った。

「十九!」

 エリアの光路が広場へ扇形に伸びる。

「全員、一歩!」

 金翼、銀翼、鉄翼、胸に何もないハル。

 同時に線へ足を置く。

 道は一人が描いたが、固めたのは全員の一歩だった。

「十五!」

 縄を引く。

 山車が回る。

 王都がさらに傾き、星果実が弾丸のように飛ぶ。ハルは右手で一つを弾き、左肩を庇いながら車台へ飛び乗った。

「一、二、三!」

「飛ぶなって言ったでしょう!」

「押すには乗る!」

 銀円盤の基部へ足を掛け、全身で向きを変える。

「九!」

 ロロが叫ぶ。

 外縁で石床が崩れた。

 山車の後輪が空へ出る。

 ドランが縄を腰へ巻き、自分ごと引き戻す。右手首が震え、顔が白い。

「手を離せ!」とハル。

「会計資産を――」

「おまえの手の方が高い!」

「金額を知らんだろう!」

「本人が値段つけるな!」

 ロロの言葉を借りて叫ぶ。

 ドランは一瞬迷い、右手を離し、左だけで縄を持った。近くの鉄翼生が腰を支える。

「四!」

「角度、あと二度!」とエリア。

 ハルは銀円盤の縁を蹴る。

 山車が最後に回転し、王城東塔の光を受けた。

 二つの白い月が、星見塔の鏡へ重なる。

「ゼロ!」

 リメイクが切れた。

 車輪が砕ける。

 山車は傾いたが、ロロの補助腕とセレナの黒糸、ドランたちの縄が支えた。

 塔の銀鏡が、遠くで海のように光った。

 銀円盤が正しい角度へ向いたからといって、それで光が塔へ届くわけではない。

 光は直線を好むが、都市は直線にできていない。倒れた鐘楼、傾いた屋根、避難用の浮遊幕。一本の白光が星見塔まで進むには、王都を斜めに横切る七枚の反射板が必要だった。

「七枚?」とハル。

「祭礼では七空域の友好を表す」とドラン。「本来は象徴だ」

「今日は実用品」

「象徴を実際に使うな! 傷がつく!」

「役に立って傷つくなら、飾りより立派だろ」

「文化財へ乱暴な倫理を持ち込むな!」

 第一板は学院屋根。第二板は時計塔中段。第三板は貴族席の天蓋。第四板は市場の魚屋が氷を照らす鏡。第五板は下面区の作業照明。第六板は王城回廊。第七板が星見塔正面。

 祭礼の光は上層だけで完結するよう設計されていた。下面の作業鏡を加えなければ、傾いた都市では塔へ届かない。

「借りる」とロロ。

「所有者の同意が要る」とセレナ。

「都が落ちてから請求書を待つ?」

「緊急徴用の記録を残します。返却、修理、補償の順まで」

「そこまで今やる?」

「今やらなければ、後で弱い者の物から『仕方なく』失われます」

 セレナの黒羽が各板へ飛び、所有者名と傷を記録する。

 ハルは、法律が遅いのではなく、遅く見えるほど多くの人の後始末を先に抱えている場合があると知った。もちろん、ただ遅い法律もある。両方を見分けるには、誰の名前が記録から抜けているかを見ればいい。

 反射板を一枚ずつ立てる。

 エリアは塔から見える位置へ金針を打ち、路図で光の通り道を示す。ただし光は一歩を踏まない。生き物でない対象へ道を固める時、彼女自身が各線の始点へ一歩ずつ踏み込まなければならない。

「七回走るの?」とハル。

「ええ」

「肺は」

「持つ」

「平気?」

「……六」

「何が」

「十段階」

 先ほどの診察を聞いていたらしい。

「平気の中では?」

「あなたより安全」

「比較対象が悪い」

 一枚目。二枚目。三枚目。

 傾斜を駆けるたび、エリアの呼吸が浅くなる。四枚目で左脇を押さえ、五枚目で一度膝をついた。

「代われる?」とハル。

「私が見て、測って、印を付けた線。最後の一歩も私でなければ」

「全部自分でやる癖、まだ直ってない」

「一晩で人格を改修できると思わないで」

「ドランと同じこと言った」

「取り消すわ」

 ハルは走る代わりに、彼女の視線の先へ金針を運んだ。エリアが測り、ハルが印を置き、最後の一歩だけ彼女が踏む。能力の条件を破るのではなく、条件へ至る作業を分ける。

「第五板、設置!」

「第六、角度一・四度左!」とロロ。

「左ってどっち」とハル。

「まだ方向感覚あるだろ!」

「異世界の左に自信がない」

「自分の左肩が痛い方!」

「分かりやすいけど嫌な基準!」

 最後の板へ白光が当たった。

 七枚の鏡を渡った光は、七度それぞれ別の街を映し込んでいた。学院の瓦礫、魚屋の氷、下面工房の煤、王城の金壁。それらが一本の光に混じり、星見塔の銀鏡へ届く。

 祭礼は、王家の月を称えるために始まった。

 この夜初めて、その月は街の全部を通ってから門を開いた。

 鏡前へ戻ると、塩の匂いが濃くなっていた。

 逆文字は月百合の露を吸い、銀面の奥に暗い波を作っている。

 セレナが全員へ確認する。

「通過順。私、ハル、エリア、ロロ。ノクスは拘束不能のため自己判断。帰還不能と判断した場合、ロロが撤退を宣言。鏡の維持は最大四分。異議は」

「俺が先」とハル。

「容疑者を未確認空間へ先行させません」

「俺の羅針盤が道を指す」

「証拠品を持つ容疑者を先行させません」

「同じ理由を強くしただけ」

「十分です」

 エリアが口を挟む。

「私が先。鏡門の古航路を読める」

「あなたも容疑者です」

「容疑者だらけね」とエリア。

「事件だからです」

 結局、セレナが片腕を銀面へ入れ、温度と重力を確認。次にエリアが槍で一歩の道を描き、ハルが羅針盤を開いて方角を見る。三人の確認が重なった後、同時に通ることになった。

「一、二、三」

 ハルが数える。

「これは飛ぶんじゃなく、歩くのよ」とエリア。

「身体には違いが分からない」

「頭には?」

「もっと分からない」

 銀面へ足を踏み入れる。

 冷たい。

 水に似ているが濡れず、全身の裏表だけを一度ひっくり返される感覚。耳の中で海鳴りがし、上下が消える。

 鏡の中には、距離がなかった。

 あるのは、同じ言葉を口にした二地点の差だけだった。

 ハルの身体は歩いているのに、足もとへ床が来ない。前へ進むたび、左右に無数の銀面が開き、その一枚ずつに「戻る」と言った自分が映る。凪浜の旧気象塔へ戻る自分。王都の塔へ戻る自分。八年前へ戻り、父を止める自分。どれも顔は同じで、目だけが少しずつ違う。

「鏡を見るな!」

 エリアの声が遠く響く。

「向こうの自分へ名前を教えるなって本にあった!」

「もう札に書いた!」

「入口側へよ! 鏡像へ読ませないで!」

 ハルは名札を胸へ伏せる。

 銀面の一つで、父に似た背中が振り返った。

『ハル』

 声は水の中から届くように歪んでいる。

 胸の羅針盤が熱くなった。

 一歩そちらへ踏めば、手が届きそうだった。

「見つけたのか」と、その背中が言う。

「何を」

「なくした理由を」

 父の言い回し。

 だが、記憶の中の言葉を鏡が並べ替えただけかもしれない。答えは、聞きたい者の形をして近づく時ほど危険だった。

「父さんなら、俺の名前を呼ぶ前に母さんへ謝れ」

 背中は笑ったように見えた。

 次の瞬間、ノクスが鏡像へ爪を立てる。銀面が砕け、ただの塩霧へ戻った。

「助けた?」

 ノクスは知らない顔をする。

「今のが本物だったら?」とエリア。

「本物なら、また証拠を持って来いって言う」

「父親へ厳しいのね」

「八年、利息がついた」

 鏡の裏の海では、音も上下を失う。

 ロロの工具箱から螺子が浮き、セレナの証羽が魚のように泳ぎ、エリアの三つ編みだけが水流のない方向へたなびく。非常縄の三系統は互いを縛らず、離れすぎた時だけ青く光った。

「出口が三つ!」とロロ。

 前方に銀円が三枚ある。

 一枚は星見塔。

 一枚は暗い炉心。

 一枚は、何も映さず黒い。

「どれ」とハル。

「月百合の匂いを追う」とエリア。

「花粉は全部の服に付いてる!」

「塩露の流れ」とセレナ。「炉心側から吸われています。中央」

 中央へ進む。

 ところが黒い出口が横から近づき、縄を引いた。行き先を持たない門は、他の行き先まで空白へ引き込もうとする。

「右へ避けろ!」とロロ。

「右が何個ある!」

「いま見えてる床側!」

「床がない!」

 エリアが銀霧へ金針を投げる。

 針はどこにも刺さらず、光の点だけを残した。

「見た。距離は三歩。印を付けた。ハル、一歩!」

「足場は?」

「踏めばできる!」

「順序が能力者向け!」

 ハルは空中へ足を出す。

 何もない場所を一歩踏んだ瞬間、淡緑の道が生まれた。四人が道へ乗り、黒い出口の吸引を横切る。

 最後尾のロロの工具箱だけが引かれた。

「朝飯! 戻れ!」

「工具へ食べ物の名前つけてる場合か!」

「こいつは命綱切りだ!」

「物騒な朝食!」

 ハルは右手で箱の取っ手をつかむ。左肩へ力がかかり、固定帯が軋んだ。セレナの黒糸が腰へ巻き、エリアが道を太くする。ノクスは箱へ飛びつくと、七本ある留め金の一つを外した。

 蓋が開き、中の重い予備歯車だけが黒い出口へ吸われる。

 軽くなった箱が戻った。

「部品!」とロロ。

「全員ごと取られるよりいい!」

「名前は『昼飯』だった!」

「朝飯の中に昼飯入れるな!」

 怒鳴り合いながら中央の出口へ飛び込む。

 銀色が裏返る。

 重力が一度消え、次に、正反対から全身へ戻った。

 次の瞬間、ハルたちは天井へ落ちた。

「うわっ!」

 セレナの黒糸が梁へ絡み、四人が宙吊りになる。

「向こう側は重力が逆!」とロロ。

「通る前に言え!」

「今分かった!」

 エリアが梁へ金針を投げ、光路を作る。一人ずつ足を着く。

 床だった天井には、青白い星脈管が何百本も走っている。遠く中央で巨大な光が脈打ち、島全体の心音のように響いた。

 全員の服へ、白い塩露が浮いていた。

 鏡門を通った証拠。

 足跡がある。

 礼装靴。右踵が浅い。

 カイルのものだ。

 鏡からまっすぐ制御通路へ続き、途中で乱れ、二人以上の引きずり跡に変わる。

「待ち伏せされた」とセレナ。

「人数は?」

「靴跡は三種。ただし機械脚の可能性あり。断定しない」

 ノクスが鏡から飛び出し、着地すると七本並んだ青い封止栓のうち一本を抜いた。

「何してる!」とロロ。

 だが抜けた栓の奥から、隠し配線が現れる。

「……正解なのかよ」

 ノクスは当然という顔で尾を立てる。

 配線をたどる。

 小さな投影装置へ行き着いた。

 装置の中心に、赤い手袋が固定されている。

 右籠手の内側へ着ける誓布。縁にカイルの王家紋。掌から獅子の火が細く吸い出され、上方へ延びる光管につながっていた。

「外廊への投影線」とエリア。

「本人の残り火で作る誓いの影」とハル。

 セレナは手袋へ触れず、証羽を周囲へ飛ばす。

「固定具に宰相府工房の規格印。起動時刻、八時二十分。入力元、王太子誓布手袋。出力先、星見塔外廊」

 装置の脇には移送許可証が落ちていた。

 白い半面仮面の印。

 外廊に立っていたのは、カイルではない。

 カイルの誓いだけを借りた、七分遅い影だった。

 その時、通路の奥から鎖が鳴った。

 弱い声がする。

「……誰か、いるのか」

 エリアの顔が変わった。

「カイル!」

 彼女は走り出す。

 王子の手袋を残し、炉心へ続く足跡を追って。

     ◇ ◇ ◇