第24話 第十二章「羅針盤に星はなくても」後編
その頃、地球の凪浜では、雨が上がっていた。
凪野ナツミは午前五時四十分に店を開けた。
息子は帰っていない。
旧気象塔には赤い携帯電話と、白文鳥の入った籠が残されていた。警察、消防、市役所。通話履歴、雨雲記録、塔の立入規制。説明できることは全部説明し、説明できない空の裂け目についても、見た子供の証言を省かなかった。
「異世界へ行ったかもしれません」と言えば、相手は困る。
困る相手へ腹を立てるより、困ったまま記録させる方が役に立つ。
ナツミは、警察へ「息子は異世界にいます」と信じさせようとはしなかった。
信じるかどうかは捜索条件にならない、と考えたからだ。
必要なのは、午後六時四十一分に旧気象塔上空で発光があり、塔内から息子の携帯電話が見つかり、本人の足跡が屋上端で消え、落下地点に身体がないという四つの事実だった。
「家出の可能性は」と聞かれた。
「あります」
「事故は」
「あります」
「事件は」
「あります」
「異常現象は」
「あります」
「全部ですか」
「消せるものから消してください。最初に一つへ決めると、違った時に遅れます」
その言い方を、ハルは知らない。
けれど彼が異世界で仮説を一つに決めつけずにいられたのは、何年も同じ家で、その考え方を見ていたからだった。
店の壁には、連絡予定表が貼られた。
朝五時四十分、開店。
七時、警察へ確認。
正午、消防へ塔周辺の再捜索を依頼。
午後六時四十分、ハルの携帯へ発信。
午後八時、店を閉める。
午後八時十分、夕食。
夕食まで書くのは、食べない自分を英雄にしないためである。
眠らないこと、働き続けること、泣かないこと。そうした苦しみは愛情の証に見えやすい。だが苦しみを証明に使うと、休んだ瞬間に愛していないことになる。
ナツミは食べ、眠り、店を開けた。
その全部を、待つことの中へ入れた。
ナツミは兄妹へシロを届けた。
「ハル兄ちゃんは?」
「遅れています」
「いつ帰る?」
「分かりません」
絶対に帰るとは言わない。
帰らないとも決めない。
「今日は、午前中に警察へ追加資料。午後は塔の周りをもう一度見る。夜八時に連絡を待つ。明日も予定を作ります」
「待ってるの?」
「生活しながら待ちます」
店へ戻り、配達票を一枚取る。
宛先を書きかけて、止まった。
凪野ハル。
住所、不明。
配達期限、不明。
ナツミは紙を捨てなかった。
裏返し、今日の予定を書いた。
待つことを、生活停止の言い訳にしない。
それが彼女の約束だった。
王都の復旧作業は三日続いた。
ハルは方向感覚が戻らず、学院の廊下で毎日迷った。北を聞かれると頭痛がする。羅針盤の蓋を三回叩いても、針はもう出ない。
三日のあいだに、ハルは王都で三十四回迷った。
一日目は診療所から厨房へ行くつもりで王城礼拝堂へ入り、祈りの列へ並ばされた。宗教を聞かれて「配達教」と答え、司祭に「届け先は」と問われ、「まだ不明」と返したところ、なぜか深い教義だと誤解された。
二日目は学院食堂から工房へ向かい、貴族寮の浴場へ出た。追い出される途中で、翼章ごとに湯の温度まで違うと知り、リディアへ「温度に身分ある?」と質問した。翌朝、浴場の温度札は章別から用途別――治療用、幼児用、一般用――へ変わっていた。
「学院長、変えるの早いな」と言うと、リディアは答えた。
「簡単に変えられることを、伝統という理由で残していただけです。難しい部分まで変わった気にならないため、簡単な部分は早く直します」
三日目は下面区へ降り、ロロの工房へ着くつもりで、別の修理屋へ配達を手伝わされた。方向は分からなくても、宛名と人へ聞けば届く。羅針盤を使わない配達を、身体が思い出していく。
「北がなくても働ける」とロロ。
「給料は」
「迷子割引で半分」
「迷った分、街を多く見た」
「観光料金を取るぞ」
「相殺」
金銭感覚も覚えた。
一ルクは屋台の薄いパン一枚。
二ルクはロロの助言一回。ただし助言の半分は悪口なので、ハルは一ルクだけ払うと主張した。
十ルクはエリアが値札を見ずに果実へ払う額。実際の価格は三ルクだった。
「七ルク返してもらえ」とハル。
「店主への祝儀よ」
「毎回?」
「値段交渉は品物の価値を疑うようで失礼でしょう」
「値札を信じすぎるのも失礼だ。店主が間違えた時、直す機会を奪う」
「あなた、金銭になるとナツミさんみたいね」
「会ったことないのに母さんを利用するな」
「褒めたのよ」
「じゃあ七ルク返してもらう?」
「それとこれは別」
エリアは結局、店へ戻った。
七ルクのうち四ルクだけ返され、三ルクは昨夜避難した子供たちへの果実代にした。全額取り戻すことも、全額与えることもできる。間を選ぶ練習は、彼女にとって新しかった。
夜には、南下面の名を読む追悼が行われた。
二十年前の二千三百十四人と、今夜の落下で亡くなった人々。名前の分からない者は人数で埋めず、「調査中」と読まれた。
エリアは母の名を自分で読んだ。
ヴィエルは拘置室で同じ時刻に立ち、セレナの証羽だけがそれを記録した。
カイルは王族席を設けず、広場の一番後ろにいた。
ロロは工具を止め、ドランは皿を一枚も数えなかった。
ノクスは七本の追悼灯から一本を消そうとして、ハルに止められた。
「これは外すな」
ノクスはハルを見る。
「七だからじゃない。一本ずつ、誰かの灯だ」
しばらくして、ノクスは灯ではなく、七本を束ねていた飾り紐の一本だけを外した。
灯は消えず、少し離れて並んだ。
「そういう外し方もあるのか」
変な癖は、意味を教えられたから直るとは限らない。
意味を壊さない別のやり方を、自分で選ぶことはある。
追悼の後、ハルは王都の外縁へ座った。
雲海は十二メートル下で白く波打ち、手を伸ばせば届きそうに見える。実際には落ちれば戻れない距離だった。
エリアが隣へ座る。踵の痛みを隠すため、いつもよりゆっくり脚を折った。
「月冠祭の舞踏、途中だったわ」
「踊ってない」
「ケーキへ落ちたのも、あの夜の演目に含めれば」
「舞踏への侮辱」
「では借り一つ。いつか踊ってもらう」
「踊り方を知らない」
「教える」
「足を踏む」
「それは一歩と数えないわ」
約束ではなく、予定に近い言葉だった。
時刻も場所も決めない。決まっていないから軽いのではない。決められる時が来るまで、刃を抜かないまま持っておける。
ただ、三日目の夜。
蓋の裏に、薄い文字が浮かんだ。
『世界の裏側へ』
それだけ。
地名も、距離も、方法もない。
七つ刻まれた星のうち、一番下の一つだけが青く灯っている。
「父さんの筆跡?」とエリア。
「似てる。でも、前に聞こえた声だって記憶かもしれない」
「生きていると思う?」
「思いたい」
「証拠は?」
「ない」
「では、探すのね」
「証拠を」
ハルは蓋を閉じる。
「帰る道も、父さんも。航路を知らないと始まらない」
ロロが改造中の祭礼山車を指した。
銀円盤を船首へ移し、左右に帆を付け、壊れた車輪を姿勢制御輪へ変えている。ピコというブリキ鳥が工具箱から出て、片方だけ赤い目を光らせた。
「山車を船にするの?」とハル。
「元から浮遊機関はある。祭りの時は地面すれすれに浮かせてただけ。船体へ戻す」
「名前は?」
「『請求書号』」
「嫌だ」
「じゃあ『王家全額負担号』」
「沈んだ時に国まで沈みそう」
「おまえが決めろ」
ノクスが船首へ飛び乗る。
七本並んだ飾り杭から一本を外し、空いた中央へ座った。
ハルは針のない羅針盤を見る。
「ゼロスター」
「道具と同じ?」とエリア。
「星がないから、好きな星を目指せる」
「いま一つ光っているわ」
「じゃあ、好きな星が一個できた」
ロロは船体へ白い文字で『ZERO STAR』と書き、最後のRを左右逆にした。
「間違ってる」とエリア。
「異界語だ。これで合ってるかもしれない」
「合ってない」とハル。
「直すなら二ルク」
「自分の間違いで稼ぐな」
船名が決まると、次に決めることが一気に増えた。
所有者。整備責任者。航行許可。救命具。食料庫。誰が船長で、誰が命令を拒否できるか。
「船長は俺」とカイル。
「王太子が国を離れる前提で話すな」とロロ。
「名誉船長」
「何もしない役職?」とハル。
「名誉ある何もしない役職だ」
「一番先に削るべき制度ね」とエリア。
「所有者は?」
「祭礼山車だから王家」とドラン。
「改造費の七割は学院備品、二割は下面工房、残りは市場の鏡だ」とロロ。
「じゃあ全部のもの」とハル。
「全部のものは、誰も修理代を払わないぞ」
結局、船体は王都共同貸与、整備責任はロロ、航行には学院資格者一名以上、緊急時の撤退権は乗員全員へ与えることになった。決定は多数決だけでなく、身体危険に関する拒否は一人でも有効。
「船一隻に国の反省を詰めすぎでは」とセレナ。
「小さいところで試す」とハル。「沈みそうなら国より先に分かる」
「不吉な試験方法です」
ハルの役職欄は空白だった。
航路資格がない。翼章もない。異界出生は登録様式に欄がない。
「雑用」とロロ。
「配達員」
「どこへ届ける」
「まだ決めてない」
「なら空欄」
エリアが空欄へ小さく書いた。
『道を探す者』。
「職業じゃない」
「学院へ入れば、職業に近づくでしょう」
「入れれば」
「都を救った実績がある」
「門が実績を読む?」
「……門の規則は古いわ」
「嫌な予感しかしないな」
翌朝の試験へ向け、エリアは基礎航路記号を教えた。北、南、上昇、下降、退避、帰還。
ハルは方向を失っているため、北の記号を見るだけで吐き気がした。
「無理に覚えなくていい」とエリア。
「試験に出る」
「出題範囲を変えさせる」
「俺一人のために?」
「障害で読めない項目を能力不足と同じに扱うのは、試験の方が間違っている」
「公爵令嬢の圧力」
「合理的配慮」
「言い方で正義が変わる」
「だから理由を記録するの」
セレナが代替試験を認めた。
方角名ではなく、避難標識、荷重計算、非常縄の結び方、地図を使わず人へ道を聞く実地試験。
「これなら通る」とロロ。
「受付時刻も確認した」とエリア。
「七分前に着く」とハル。
「十五分前に」
「早すぎる」
「あなたの七分は信用できない」
準備は完璧に見えた。
完璧に見える準備ほど、門の方が別の条件を持っている。
カイルが包帯姿で現れ、無断で舵輪を握る。
「王太子による試運転だ!」
「退院してないだろ!」
「おまえに言われたくない!」
「その船、まだ帆が片方しかない!」とロロ。
「王家は片翼でも飛ぶ!」
「昨日、翼章を見直すって言ったばっかり!」
セレナの怒声が遠くから飛ぶ。
「全員、船から下りなさい!」
ノクスだけが下りない。
黒い二尾を船首へ巻き、自分の場所だと決めた顔をする。
誰かに飼われるのではなく、同じ船へ乗ることを自分で選んだ。
エリアはハルの赤いマフラーに刺していた金針を抜きかけ、やめた。
「これは、まだ預けておく」
「借り?」
「回収用の印。あなたは道から落ちるから」
「三回しか落ちてない」
「一晩で十分多い」
「返す条件は?」
「自分で戻る道を描けるようになったら」
「難しいな」
「だから価値があるの」
彼女の右手が口元へ上がる。
目は笑っていた。
翌朝、王立星航学院の臨時入学試験が行われた。
ハルは借りた紺の短上着を着て、赤いマフラーを巻き、外門の前に立つ。エリア、ロロ、カイル、セレナ、リディア、そしてノクスが見守っている。
「都を救ったんだから通るだろ」とカイル。
「学院門は政治的圧力を嫌います」とリディア。
「俺、次の王」
「だから嫌われています」
「学院長!」
門は胸の翼章、航路基礎資格、受験時刻を読み取る。
金翼なら金色、銀翼なら銀色、鉄翼なら青白い光を返す。
ハルが触れる。
門は沈黙した。
次いで、赤い文字を大きく表示する。
『所属章なし』
『王国航路基礎履歴なし』
『異界出生・照合不能』
「そこまでは予想内」とエリア。
最後の一行が出る。
『受付終了時刻を七分超過』
『遅刻者、受験資格なし』
鐘が一つ鳴った。
ハルは門を見上げた。
「七分?」
ロロが時計を見る。
「俺、今回は触ってないぞ!」
「誰が受付時刻を決めた!」
エリアがため息をつく。
「その質問から始めるのね」
ハルは門の横を見た。
高い壁。閉じた小窓。警備用の細い梁。
赤いマフラーを締め直し、危険な跳躍の前のように小声で数える。
「一、二、三」
「待ちなさい」とセレナ。
「正門がだめなら別の入口を探す」
「不法侵入です」
「入学前なら校則違反じゃない」
「王国法違反です」
「じゃあ、入ってから考える!」
ハルは走り出した。
エリアが傘を開き、ロロが工具箱を抱え、カイルが笑い、セレナが黒羽を飛ばす。ノクスは七本ある門飾りから一つを蹴り落とし、先に壁へ跳んだ。
針のない羅針盤は、もう方角を教えない。
それでも少年は迷わない。
道がないなら、誰がないと決めたのかを、まず聞けばいい。
第一巻 了