第25話 第一章「開かない落第門」前編
学校の門は、壁に穴を開けたものではない。
入れる者と、入れない者のあいだへ理由を置く装置である。
理由が試験なら学校になる。理由が家柄なら宮殿になる。理由が金なら市場になる。そして理由を説明しなくなった門は、しだいに神殿に似てくる。門の判断へ異議を唱えることが、規則への反論ではなく、信仰への冒涜として扱われるからだ。
王立星航学院〈アルカ・ノア〉の外門は、百七十二年間、ほとんど故障していなかった。
それは機械として優秀だったという意味である。
判断として正しかったという意味ではない。
「一、二、三!」
凪野ハルは走った。
赤いマフラーが朝風を噛み、借り物の濃紺の短上着が肩で跳ねる。目の前には白い学院壁。右には閉じた試験門。左には王都の外へ突き出した発着桟橋と、まだ帆が片方しかない星帆船ゼロスター号。
門は入れてくれない。
壁は、いまのところ何も言っていない。
「無言は許可じゃない!」
セレナ・クロウの黒羽が背後から飛ぶ。
「禁止とも言ってない!」
「王国法は、壁ごとに口頭で説明しません!」
ハルは門柱の飾りへ右足を掛けた。左肩は三日前より動く。だが、治ったのではなく、痛みが日常の奥へ移っただけだ。腕を頭上へ伸ばすと、関節の内側で小さく砂が鳴る。
そこで止まれば、セレナは少し安心しただろう。
止まる理由が痛みだけなら、ハルはたいてい止まらない。
二歩目で石の継ぎ目を蹴る。
三歩目で警備梁へ手を伸ばす。
銀色の刃が、目の前の空気を縦に切った。
ハルは反射で身体をひねった。刃は顔を狙わず、マフラーの先だけを梁へ縫い留める。首が引かれ、足が壁を滑った。
「殺す気か!」
「殺さない位置へ刺した」
「外れたら?」
「外さない」
「会話が全部、結果論だ!」
壁の上から、一人の少女が見下ろしていた。
長身。灰銀の短い髪。右耳の後ろにだけ、深紅の細い編み込み。白い学院制服の裾と肩には、定規の目盛りに似た黒線が走っている。腰の左右へ一本ずつ下げた細身の剣は、柄頭の形が同じだった。
左右対称の武器を持つ人間は、左右対称の性格をしているように見えやすい。
実際には、対称を保つために誰より多く片側を我慢していることがある。
少女は壁から跳んだ。
風を受ける小さな翼布が肩甲で開き、石畳へ音もなく着地する。着地の直前、右膝だけが半拍遅れた。エリアの淡緑の瞳が、その遅れを見た。ハルはマフラーで吊られていたため、見なかった。
「学院外壁への無許可登攀。試験設備への接触。星航生候補の安全区域侵入。第一条、停止しなさい」
「何条まである?」
「必要なだけ」
「じゃあ長いな」
「あなたが増やしている」
少女は二本の剣を抜き、柄をつないだ。
巨大なコンパスになった刃先が石床へ触れる。
きいん、と金属が鳴った。
「規則を宣告する。聞こえた者は答えなさい。外門待機円の内側では、登録が完了するまで境界を越えない」
白い線が地面へ円を描いた。
円周へ細い文字が走る。星の光ではなく、白墨を月光へ溶かしたような色だった。
「聞こえた」とエリア。
「聞こえたけど従うとは言ってない」とハル。
「聞いたかどうかだけでいい」
「契約として雑じゃない?」
「契約ではない。一時的に全員へ課す規則〈フィールド・ロウ〉よ」
ハルが円をまたごうとした。
右足が線の上で止まる。
何かに掴まれたのではない。前へ出そうとした筋肉だけが、床と相談して急に反対票を入れたように動かなくなった。
「うわ、気持ち悪い」
「同律陣〈イコール・リング〉」とエリアが言った。「円の内側へ、測定可能な一つの制限を全員へ課す律令型の誓星術。術者自身も例外になれない」
「説明が速い」
「見たかった術だから」
「今、俺が止められてるのに楽しそうだな」
「未知の仕組みは楽しいわ。あなたの違反は楽しくない」
「分けるんだ」
「混ぜると地図が濁るもの」
少女はハルのマフラーから剣を抜いた。赤い布が自由になり、ハルは首を押さえる。
「風紀隊長、ティア・グランツ。臨時入学試験の規律責任者を務める」
「凪野ハル。門に嫌われた」
「門は感情を持たない」
「感情なしで嫌う方が怖いな」
ティアの右眉が、ごく薄く動いた。
怒ったのではない。紙の端が机から一ミリずれているのを見つけた人間の顔だった。
「門が表示した理由は明確です。所属章なし。王国航路基礎履歴なし。異界出生で照合不能。加えて受付終了時刻を七分超過」
「俺たち、十五分前に来た」とハル。
「試験開始の十五分前です。受付終了は、その二十二分前」
「そんなの聞いてない」
「通知書にあります」
「どこ」
「裏面第五項、付記三」
「表に書け!」
「大声で規則は表へ移りません」
「読まれない裏面は、書いてない表面と同じだろ」
「違う。読まなかった責任が残る」
「読める形にしなかった責任は?」
「通知費は一通三ルク。裏面へ詰めれば紙代が一ルク減る」
門番小屋の小窓から、明るい金髪の少年が顔を出した。青い瞳、磨きすぎた長靴、金の翼章を二枚も付けた学院制服。右手首にはまだ薄い包帯があり、その上から白手袋をはめようとして、痛みで眉を寄せている。
「だからといって、受験者が読む時間を学院の経費へ付け替えてよいわけではないが」
「床しか見ない金翼」とロロ。
「その呼び方を定着させるな!」
「ドラン」とハル。「昨日、皿拾ってた」
「侯爵家嫡男を家事の種類で覚えるな!」
「皿を拾える侯爵家嫡男」
「情報が増えた分、悪化した!」
ドラン・グランデは、月冠祭の王子消失事件の三日前まで、無翼の少年を学院の床へ押しつけようとした側だった。人間の変化は、立場を反転させれば済むほど便利ではない。昨日、皿を拾ったから今日から平等主義者になるわけではなく、今日も彼は自分の二枚の金翼を正しく磨いていた。
ただし、磨いた靴で誰を踏んでいるかは、以前より見るようになっていた。
「私は奉仕処分として、本日の受付会計と時刻記録を担当している」
「信用していい?」
「時計を七分いじったのは私ではない!」
「まだ疑ってない」
「その顔は疑っていた!」
ドランは台帳を開いた。紙の端へ小さな会計記号が並び、時刻欄には赤、青、黒の三色で線が引かれている。
「凪野の一行は試験開始十五分前に桟橋へ到着した。だが通知上の受付締切は二十二分前。さらに異界出生の手動照合に十三分四十六秒かかった。門へ触れた時刻ではなく、照合が完了した時刻を受付時刻として記録するため、七分超過と表示された」
「照合してたのは門だろ」
「そうだ」
「俺は待ってただけ」
「そうだ」
「門が時間を使って、俺の遅刻になる?」
「会計なら、店側の検品時間を客の延滞へ入れれば異議が出る」
「じゃあ出して」
「すでに出した!」
ドランは白手袋の縫い目を数えるように指でなぞり、声を小さくした。
「昨日なら、規則どおりだと言った。今日は、勘定が合わないと言っているだけだ。私を急に立派な側へ置くな。居心地が悪い」
「立派じゃない。計算できる側」
「それも褒めているのか?」
「たぶん」
「たぶんで人の長所を決算するな」
ティアの親指が、右の剣の目盛りを一度なぞった。
「それは、別の審査事項です」
「別にすると今の俺が落ちる」
「一つの不備が、別の要件を消す理由にはならない」
「要件が人を消してる」
「凪野ハル」
リディア・セレス学院長が、円の外から静かに呼んだ。
白金の短髪、左右で高さの違う黒白の襟、左手の三指手袋。声を張っていないのに、ハルの言葉だけでなく、周囲の野次馬の囁きまで一度止まる。
「壁を登る前に、門へ異議を出す手順があります」
「どれくらいかかる?」
「最短で三日」
「遅い」
「あなたが壁から落ちて治療されるよりは速い」
「落ちない」
「三日前にも聞いた気がします」
「俺は言ってない」
「行動が言っています」
カイルが包帯だらけの身体で笑った。
「学院長、王太子権限で臨時合格に――」
「却下です」
「最後まで言わせろ」
「最後まで聞いても却下です」
「王権の衰退が速い!」
「改革の成果でしょう」
カイルは右籠手のない手首を見て、叩く場所を失い、仕方なく左拳で胸を二度叩いた。背中の傷が引きつり、顔色が変わる。
セレナがすぐ横へ立つ。
「王太子殿下。退院許可はまだ出ていません」
「見送りだ」
「外門まで見送る許可は出していません」
「王城からここまで、誰にも見つからなかった」
「誇らしげに罪状を追加しないでください」
ロロはゼロスター号の舷側へ腰掛け、四本の補助腕で帆索を結びながら言った。
「とっとと受からせろ。こいつに資格がないと船を出せねえ」
「あなたも特別実技生の登録前です」とティア。
「整備士としては契約済み」
「学院工具を外へ持ち出しています」
「船に付けたら船具だ」
「書類上は工具です」
「飛ぶ工具」
「没収します」
「それ、船が落ちるけど?」
「……使用後に没収します」
「柔軟じゃん、第一条さん」
ティアの眉が今度は明確に上がった。
「その呼称を許可した覚えはない」
「許可制なのかよ、あだ名」
ノクスが門飾りから落とした金具を咥え、円の中へ戻ってきた。黒い二本尾のうち一本だけが、白線の外へ出ようとして止まり、もう一本が退屈そうに床を叩く。
「ノゥ」
「おまえも引っかかるのか」とハル。
ノクスはハルを噛んだ。
「俺が決めたんじゃない!」
「全員へ同じ制限だ」とティア。
「尾が二本あるやつは負担も二倍?」
「境界を越えられない点は同じです」
「同じと公平は同じ?」
「少なくとも、特定の者だけを通すよりは公平です」