第26話 第一章「開かない落第門」後編
そのとき、外門の列の後ろで金属が擦れた。
「そこ、退け。退けじゃなくて、三歩だけずれて。急に肩へ触るな!」
小柄な少女が、受験票を歯でくわえながら進んできた。
黒い縮れ髪。右側頭部だけ短く刈り、右眼には跳ね上げ式の丸い単眼レンズ。短く切った学院外套の下で、左脚の革と星鉄の装具が三角形の骨組みを作っている。歩幅は左右で違う。違うのに、速度は列の誰より正確だった。
検査係が手を伸ばす。
「装具を外して台へ」
「先に聞け」
「検査です」
「何を調べる」
「規定外の飛行補助がないか」
「外せば立てない。寝て調べる?」
「補助椅子を――」
「高さは?」
「標準です」
「誰の標準?」
少女の言葉は尖っていた。
刃物が人を傷つけるために尖るとは限らない。自分の輪郭を勝手に丸められないため、先に角を立てておく人間もいる。
「マオ・ケルン」とティアが言った。「検査手順は事前に伝えたはずです」
「変更願いも出した。返事は『可能な範囲で配慮する』。可能の範囲を誰も書いてない」
「検査時間は全受験生の持ち時間へ含まれます」
「装具を持ってるから長く調べられて、その長さを私の遅刻にする?」
「装具を持つ者だけ除外すれば――」
「除外じゃない。先に時間を測れと言ってる」
ハルがティアを見た。
「俺だけじゃない」
「同じ事情ではありません」
「違う事情で同じ表示が出るなら、門の方が話を省きすぎてる」
マオはハルの顔を見ようとして、単眼レンズを下ろした。
「誰」
「門に嫌われた同盟」
「同盟に入れた覚えない」
「じゃあ門に嫌われた別団体」
「一人で団体を名乗るな」
「二人いれば?」
「私を数える前に聞け」
「入る?」
「入らない」
「聞いた」
「満足そうにするな」
ティアが円を解除した。
白線がほどけ、ノクスの尾が外へ出る。ハルはすぐ一歩踏み出し、ティアの双剣が同時に動いたため、二歩目で止まった。
「規則解除は許可ではありません」
「解除したのに?」
「別の規則が残っています」
「規則って、終わったふりして次が出るな」
「生活も同じです」
「今のは少し哲学っぽい」
「事務説明です」
学院長は左手袋の三本の指を一本ずつ整えた。
「異議申立てを三日待つ代わりに、臨時の補充試験を設けます」
ティアが振り向く。
「学院長」
「規定第八十六条。外門の照合不能者について、三名以上の教官と一名の規律責任者が同席する場合、手動審査へ移行できる」
「その条項は、災害時に記録を失った在校生の復帰用です」
「異界から来て記録がない人間は、記録を失った人間より少し大きく失っています」
「拡大解釈です」
「だから、あなたを規律責任者にします。異議を記録してください」
ティアはすぐには答えなかった。
剣の目盛りをなぞり、エリアを見、ハルを見、マオの装具へ視線を落とす。
「特例を認めれば、今後の基準になります」
「ええ」とリディア。「基準になる特例だけを選びなさい」
「それが一番難しい」とエリア。
「難しいから教育機関があるのです」
発着桟橋の先で、ゼロスター号の未完成の帆が大きく鳴った。
船は三日前まで祭礼山車だったため、船首には月冠祭の銀円盤が半分だけ残り、船腹には王家の白塗料、学院の青い補修板、下面工房の黒い鋲が互いに遠慮なく並んでいる。新造船なら欠陥と呼ばれる外見だった。修理船なら履歴と呼ばれる。
操舵室にはエリアの透明地図卓。機関室にはロロの工具棚。船首の無星台には針を失った羅針盤を置く丸い窪み。食堂と呼ぶには小さい船室には、固定椅子が五脚だけあった。
「椅子、足りなくない?」とハル。
「乗員が増えたら床へ座れ」とロロ。
「おまえが一番小さいから床」
「船長室を工具室にするぞ」
「船長、決まってない」
「じゃあ全室工具室」
エリアが船腹の線を見上げた。
「学院の航行資格者が一人いれば、今日から近距離訓練へ出せるわ」
「俺が受からないと?」
「私がいるから出せる」
「じゃあ俺いらない?」
「あなたがいなくても船は出せる。あなたがいなければ、出したい場所が一つ減る」
答えは優しかったが、甘くはなかった。必要とされることを、能力の独占で証明しない言い方だった。
ハルは一瞬だけ笑い、すぐ門へ向き直った。
その先で、鐘が低く鳴った。
一度。
学院の外壁へ埋め込まれた白い目盛りが、青く点灯していく。
オルト・グレンが、門番小屋から出てきた。
剃り上げた頭、銅色の顎髭、片方だけ白濁した左眼。煤色の外套の背には、折り畳み担架を盾のように背負っている。部屋へ入る代わりに外へ出たのに、まず人数を数えた。
「受験者、十二。補充候補、二。監督、四。見学、許可なしが三」
「俺は王太子だ」とカイル。
「許可なし一」
「数が減った!」
「王城へ戻れ」
「命令か?」
「医療助言だ。復唱」
「王城へ戻らない」
「誤復唱だ」
オルトはハルを見る。
「補充試験。外門で仮札を受け、救難課、航路科、機関科の三受付を通り、第四鐘までに内門へ到着。途中の規則は現場掲示に従う。救助要請があれば試験を中断し、監督へ報告。単独で英雄になるな。復唱」
ハルは言い換えた。
「三つの場所で入っていいか確かめて、鐘までに中へ着く。誰かが困ってたら、勝手に格好つける前に知らせる」
「番号が抜けた」
「目的は入った」
「試験は目的だけで動かない」
「救難は番号だけで動く?」
オルトの右眼が細くなった。
「今は一つにする。復唱は正確に。その後で異議を言え」
「三受付。第四鐘。掲示に従う。救助要請は監督へ。単独行動しない」
「よし」
「異議。単独行動しないって、仲間が落ちた時に監督が遠かったら?」
「状況を見て判断する」
「規則に書いてない」
「全部書けば読む前に死ぬ」
「じゃあ、書かない部分を誰が決める?」
「現場指揮者だ」
「指揮者が間違えたら?」
「そのために訓練する」
答えは閉じていなかった。
ハルは、オルトを少しだけ好きになった。好きになることと、従うことは別だった。
リディアがハルとマオへ白い仮札を渡した。
翼の形をしていない、長方形の薄板だった。
「身分と権限を示す翼章〈フェザー・ランク〉ではありません。試験中の本人確認札です。終われば返してください」
「翼がない」とハル。
「あなたに合わせたのではなく、権限をまだ付けていないからです」
「同じ形にしたら?」とマオ。
「色を付ける前の翼章に見える」とリディア。
「じゃあ長方形でいい」
「本人が決めた」とハル。
「おまえのじゃない」
エリアは監督補助の銀札を受け取った。
「私は測量記録を担当するわ」
「答え教えるの禁止」とハル。
「あなたが聞けば説明する」
「聞き方まで教えそう」
「それは……気をつける」
ロロは機関科受付の臨時補助へ回され、ぶつぶつ言いながら工具箱を担ぐ。
「俺が採点する側なら、おまえ絶対落とす」
「友達なのに?」
「友達だから、壊れたまま通すとあとで修理代が高い」
セレナはカイルの襟を黒糸でつなぎ、王城方向へ引いた。
「ハル! 合格したら俺が名誉船長だ!」
「何もしない役職は要らない!」
「王家の伝統を一日で消すな!」
「消した方がいい伝統もある!」
ノクスはハルの肩へ跳び乗ろうとしたが、ティアが片手を出した。
「生物の同行は不可」
「仲間」
「資格登録がない」
「俺もない」
「だから試験を受ける」
「ノクスも?」
「試験文が読めない」
ノクスがティアの手袋を噛んだ。
「理解はしてるっぽい」
「感情と資格を混ぜないで」
ノクスはゼロスター号の船首へ戻り、二本尾を不満そうに左右へ振った。七本あった飾り杭は、今朝も一本だけ外されている。
ティアは補充試験の開始板を立てた。
白い学院外壁の上には、細い窓、飛行足場、訓練梁、浮遊する休憩台が何層にも並んでいる。地面から見れば壁。飛ぶ者から見れば横倒しの校庭。歩く者から見れば、道になろうとした形跡の少ない崖だった。
この外壁は、もともと防壁ではない。王都がまだ現在の半分ほどの大きさだった時代、星航士へ「上下が変わっても道を失うな」と教えるため、四枚の訓練場を学院の外へ貼り付けたものだ。鐘が鳴るたび重力方向を九十度変え、床を壁に、壁を天井にする。
当時の星航士候補は、ほぼ全員が自前の翼具を持つ上層子弟だった。歴史は、その事実を差別と呼ばなかった。対象者の外にいる人間は、制度から排除されているのではなく、制度と無関係だと考えられていたからである。
ところが学院が奨学生を受け入れ、工房区へ門を開き、救難士を身分より能力で選ぶようになっても、外壁だけは同じ姿で回り続けた。建物は、理念より遅く老いる。理念が建物より遅く老いる場合もある。
ハルは壁の上に浮く休憩台を指した。
「休む場所、空にあるけど」
「飛行試験だからです」とティア。
「俺の試験も?」
「あなたが内門へ着けるかを測る試験です」
「飛べない俺に、飛行用の休み場所を使わせる?」
「使う義務はありません」
「使えない自由をもらった」
「言葉を曲げないで」
「道の方が曲がってる」
「開始は第二鐘。第三鐘で壁面転換。内門到着は第四鐘まで」
「全部で?」とハル。
「二十四分。第三鐘で壁面が転換します」
「短い」
「全受験生同一です」
「またその言葉」
「嫌なら、時間内に証明しなさい」
ティアは剣を鞘へ収めた。
灰銀の髪が朝風に揺れ、深紅の編み込みだけが遅れて頬へ触れる。
「第一条。遅刻者は失格です」
それは、誰にでも同じように向けられた宣告だった。
だからこそ、誰にでも同じ重さではなかった。