第40話 第八章「九十度目の落下」後編

 第二休息帯の手前で、壁が鳴った。

 ごん。

 鐘ではない。

 石の内側を、大きな拳で一度だけ叩いた音。

 ロロが保守路で顔を上げる。

「第七蝶番」

 ピコの頭羽が扇状に開く。紙帯へ穴が連続する。

「振動上昇!」

 ロロが風管へ叫ぶ。

「前回比一・八。まだ警告線の下だが、上がってる!」

「原因」とティア。

「分からん。停止して中を見るのが一番」

「機関主任」

「温度膨張の範囲。第三鐘の転換前なら継続可」

 風管の向こうで、別の大人が答える。

 判断が割れた。

 ティアは時計を見る。

 試験開始から四分。全員を戻せば、比較試験は成立しない。続ければ、警告線未満の振動を理由に中止した前例が残る。

「止める?」とハル。

「第二休息帯で全員待機。機関科が再測定するまで進行停止」

 即断した。

 百十二人が五十歩の帯へ止まる。

 密集を避けるため、前後へ広がる。だが地上路は一本しかない。

 ロロが音響槌を壁へ当てる。

 一点目。高い。

 二点目。普通。

 三点目。低い。

「表板じゃない。奥の支持輪」

「亀裂?」とエリア。

「音だけじゃ断定できん」

「なら中止」とハル。

「試験責任者へ言え」

 ティアは刃の目盛りをなぞる。

「全員、外門へ引き返します」

 その瞬間、第三鐘が鳴った。

 予定時刻より早かった。

「誰が鳴らした!」

「自動重錘!」とロロ。「待機停止で荷重が中央へ寄った。重錘時計が壁のたわみを転換開始信号と誤認した!」

 壁が動く。

 九十度。

 百十二人の重さが、一本の地上路へ乗ったまま向きを変える。

「支持点!」

 オルトの声。

 全員が横索へ掴まる。

 仮設休息椅子が固定具を軋ませる。給水筒が揺れる。地上路の下で、何かが連続して折れた。

 ぱん。

 ぱん。

 ぱん。

 螺子ではない。

 百七十二年、荷重を受け渡してきた星鉄の留め爪が、一本ずつ降伏する音だった。

「第七区画、離れる!」とロロ。

 ハルの足元に、髪の毛ほどの黒い線が走る。

 線は白石を横切り、休息帯を二つに分け、外壁の端まで伸びた。

「亀裂!」

 エリアの地図板へ、淡緑の警告が広がる。

「全員、内側へ三歩!」とオルト。

 動けない。

 百人が同じ線にいる。内側へ動く場所がない。

「列を分けろ!」

「どこへ!」

「上段へ飛べ!」

 飛べない。

 受験者は規則円に接地を強制されている。

 ティアが規則刃へ手を掛ける。

「救助対象指定――」

 宣言すれば、一人ずつ対象外にできる。

 百人いる。

 名前を呼び、応答を聞き、解除するには時間がない。

「全域解除!」とハル。

「解除すれば、壁面転換中に全員の翼が同時展開する! 衝突する!」

「このままなら壁ごと落ちる!」

 ティアの判断は遅れていない。

 速すぎる事故の中で、二つの死に方を比べている。

 亀裂が開く。

 外壁の一枚が、巨大な本の頁のように剥がれた。

 幅四十歩。高さ八十歩。第七区画。

 そこにいた受験生十八人、教官二人、仮設休息帯、給水筒、ハル、マオが、王立星航学院から切り離される。

「人数二十!」とオルト。

「二十、離断!」

 剥離板はすぐ落ちなかった。

 下端の蝶番一つが残り、外壁から斜めに垂れる。巨大な跳ね橋のように、雲海へ向かって開く。

 板上の全員が、一方向へ滑った。

 仮設椅子が外れ、給水筒が転がり、担架が風を受けて浮く。

「荷を捨てろ!」と教官。

「治療箱は!」

「命が先だ!」

 ハルは担架の留めを切る。銀翼生と同時に押し出す。担架は雲海へ落ちず、外壁との間へ引っかかった。救助索の中継点になる。

「結果的に使える!」とハル。

「結果を狙ったみたいに言うな!」とマオ。

 マオは装具の小噴気を使おうとする。片足を板へ残せば規則には触れない。だが亀裂へ外枠が挟まり、弁が開かない。

「装具不調!」

「報告受領!」とオルト。

 教官の一人が転倒し、額から血を流す。

「意識あり。右腕、動かない」

「受験生が教官を運ぶ!」

「救助開始!」

 オルトが宣言する。

 その言葉で、受験者の個人術使用が減点から外れる。

 鉄翼生が爪を立てる。銀翼生が風を受けて身体を横へ伸ばす。金翼生はまだ接地規則に縛られているが、手と翼膜で他人を覆う。

 ハルは負傷教官へ這う。

「動かしていい?」

「首、痛みなし。右腕固定。運べ」

「分かった」

 マオが治療箱を開く。

「肩へ触る。いい?」

「いい」

 彼女は自分の痛みを隠さず、他人の許可も取る。

 布帯で右腕を胸へ固定する。

「ハル、頭側。私は足を引けない」

「銀翼の人、足側できる?」

「できる!」

 三人で教官を担架網へ載せる。

 板上では、試験の役割が反転した。

 測られていた者が、測る者を運ぶ。

 規則円の白い文字が、板の上にも残っていた。

「接地、解除されてない!」とマオ。

 金翼の受験生が翼を開こうとする。

 身体が板へ押し戻される。

 銀翼生の滑空布も風を掴めない。

 救難班は対象外だ。

 オルトたちは飛べる。

 しかし、板の上の受験生を持ち上げようとすると、規則が本人を板へ留める。

「一人ずつ救助対象へ!」とティア。

 規則刃を床へ突き、名前を呼ぶ。

「ルーク受験生、救助対象!」

「聞こえた!」

 一人の身体が軽くなり、金翼が展開する。

 オルトが受け取る。

「次!」

 板がさらに傾く。

 名前を呼ぶ時間がない。

 名簿はティアの手にある。だが、顔と名前を一致させる数秒が命になる。

 ティアは右膝を床へつき、規則刃の柄へ両手を置いた。

 円が広いほど、解除対象を一人選ぶ負担が増える。白い文字が彼女の腕へ逆流し、皮膚へ細い線を刻む。

「隊長、全域を」と風紀隊員。

「衝突予測を!」

 エリアが上空へ地図を広げる。

 金翼九、銀翼五、鉄翼四、無翼二。板の周囲に救難班十一。全員が同時に離床した場合、飛行線が七か所で交差する。

「一斉解除で、最初の三息に衝突七。高度を分ければ三まで減らせる!」

「高度命令は誰が」

「オルト!」

「解除後、金翼は上へ十、銀翼は水平、鉄翼は板へ爪を残して待機!」

 オルトが救難声を飛ばす。

「復唱!」

 板上から声が返る。

「金翼、上へ十!」

「銀翼、水平!」

「鉄翼、待機!」

 命令はできた。

 それでも無翼の二人には、飛ぶ場所がない。

「凪野とケルンへ救命索、あと八息!」とロロ。

 保守塔から射出索を装填する。四本の補助腕が別々の歯車を回す。

「風、右から三。板の回転、毎息十二度。エリア、先を描け!」

 エリアの左肺が痛む。息を吸うほど胸が狭い。

 それでも、地図槍を振る。

「射角、青線!」

 淡緑の線が空へ伸びる。

 ロロが射つ。

 索は板の縁を掠め、給水筒へ巻きついた。

「届いた!」とハル。

「固定点が弱い!」とマオ。

「どこなら」

「休息椅子の基部。赤いボルト!」

 ハルは索を持って這う。

 左肩は使えない。右手で引き、歯で結び目を作る。

 板が一度大きく揺れる。

 索が外れかける。

「私を先に」とマオ。

「聞いてない」

「いま言った。装具がない。板が縦になったら這えない」

「分かった。腰帯へ」

「右から回せ」

 ハルは索をマオの腰へ通す。

 自分の赤いマフラーを補助結びへ使う。エリアの金針が布の中で光る。

「ハルは」とマオ。

「次」

「次がある保証」

「作る」

「答えになってない」

「今は一つにする。おまえを先」

 オルトの言葉を借りた。

 マオは反論を飲み込み、索を掴む。

 外壁側で救難班が引く。

 板が回る。

 給水筒が空へ飛び、固定索へ当たった。

 赤いボルトが半分抜ける。

「固定、あと三息!」とロロ。

 ティアは規則刃を握ったまま、解除の言葉を飲み込む。

 一斉解除の命令は整った。

 無翼二人の索は、まだ一人分しか固定できていない。

「番号で!」とドラン。

「胸札の番号を叫べ!」

「三十二!」

「四十一!」

「七!」

 ティアが一人ずつ対象外にする。

 七人。

 八人。

 下端の蝶番が半分裂ける。

 マオの装具が板の亀裂へ挟まった。

「外れない!」

 ハルがしゃがむ。

「どこ持つ!」

「装具じゃない。留め革を切る。右腰の短刃!」

 ハルは短刃を抜く。

 革へ当てる。

「切ったら歩ける?」

「歩けない。でも落ちる板に脚を置いていくよりいい!」

 切る。

 装具の外枠が亀裂へ残り、マオの左脚が自由になる。足首が内側へ傾く。彼女は痛みで息を呑むが、声を飲み込まない。

「痛み四!」

「聞いた!」

 ハルは肩へ触れない。

「運ぶ?」

「まだ。這う。右側にいて」

 二人は板の内側へ進む。

 板上の教官が救難索を投げる。

 外壁まで十二歩。届く。

 だが、板が傾き続け、索が石角へ擦れる。

「全員、索へ!」

 ハルはマオの腰へ索を回す。

 自分は右手で握る。左肩は使えない。

 九人目が救助対象になる。

 十人目。

 その時、外壁と剥離板の間に張られた安全結界が弾けた。

 青い膜が、割れた硝子のように光る。

「結界外へ出る!」とエリア。

 彼女は上空から落下線を描こうとする。だが板が大きすぎ、風を受けて回転を始める。軌道が一つに決まらない。

「ハル、板の右端へ!」

「右が分からない!」

「赤い給水筒がある側!」

 ハルはマオを支えず、彼女の右側で這う。

 給水筒へ向かう。

 最後の蝶番が叫んだ。

 ごうん。

 星鉄が千切れる。

 第七区画は学院から完全に離れた。

「全域解除!」

 オルトがティアへ叫ぶ。

 ティアは規則刃を握る。

 解除すれば、残る十人は飛べる。飛行能力のないハルとマオは、接地を失ってそのまま落ちる。解除しなければ、金翼も銀翼も板へ縛られ、巨大な石板と共に雲海へ沈む。

「凪野とケルンへ索を!」

「間に合わない!」

 板が安全結界の外へ出た。

 空の色が変わる。

 学院の重力補助が切れ、雲海へ向かう本来の落下が始まる。

 ハルは身体が軽くなる瞬間を知った。

 床が床でなくなる。

「一、二、三!」

 右手で索を投げる。

 外壁へ届かない。

 マオがハルの赤いマフラーを掴む。

「勝手に落ちるな!」

「一緒に落ちてる!」

「言葉の問題じゃない!」

 規則円が二人の足を剥離板へ残そうとする。

 板は回転し、雲海へ縦になる。

 白い文字が空へ流れる。

 ティアだけが、その規則を終わらせられる。

 彼女の口は開いた。

 声は、まだ出なかった。

 ハルとマオは、学院の結界の外へ落ちた。