第39話 第八章「九十度目の落下」前編
安全策には、事故を減らすものと、事故の形を変えるものがある。
火を消すため水を撒けば、火災は止まる。床は滑る。
船を軽くするため荷を捨てれば、沈没は遠ざかる。食料は減る。
混乱を防ぐため全員を一つの道へ集めれば、迷子は減る。その道へ全員分の重さが乗る。
後世の記録は、事故の直前に愚かな者が一人いたと書きたがる。
その方が読みやすいからだ。
現実の大事故は、正しい判断が違う時間に積み重なって起きることが多い。
橋を丈夫にした者。
飛行者との衝突を避けた者。
経路を一本にした者。
点検表へ「許容内」と書いた者。
全員が、自分の欄では正しかった。
補充試験の再々試験は、第四日の朝に行われた。
「再が多い」とハル。
「制度が一度で直ると思う方が傲慢です」とティア。
「俺が一度で受かりたいのは傲慢?」
「合格基準を満たせば」
「基準を作り直してる途中」
「だから条件付き判定です」
「仮の仮?」
「暫定補充試験・実証区分」
「長くしてごまかした」
「正式名称です」
外門の前には、新しい受付台が並んでいた。
翼章別ではない。処理時間別。
『自動照合』
『手動照合』
『装具確認』
『文字・出生登録補助』
マオが白墨で、その下へ書き足す。
『すぐ終わる』『時間がかかる』『道具を見せる』『書くのを手伝う』
「正式掲示へ勝手に」とティア。
「仮掲示の許可、昨日取った」
「食堂内です」
「ここでも読みにくい」
「申請範囲が違います」
「読めない人は場所ごとに変わる?」
ティアは一呼吸置いた。
「仮併記として試験終了まで有効。終了後に掲示委員へ提出」
「最初からそう言えば」
「無許可を無言で通すこととは違います」
「第一条さん、言い返しが速くなった」
「呼称は変わっていません」
ハルの手動照合は、開始前に済ませた。
地球の出生欄には新しく『環外・番号なし』が追加され、共通空字の氏名は本人確認と地球字の原記録を並べる。
「受付完了」と係員。
「今、到着?」とハル。
「今日は登録です。試験到着は待機線通過と内門受付を別々に記録します」
「分けた」
「異議審査前の試行です」
ドランが二つの時計を持っている。
青は身体の通過。赤は処理の完了。
「私の台帳では、最初から別にする。誰かが後で一つに足そうとしたら、元数字が残る」
「眼鏡は?」
「話題を変えるな」
「遠い時計、見えてる?」
「見えている!」
「青と赤、逆」
「……照明の反射だ」
彼は時計を顔へ近づけた。
見栄はまだ治っていない。人間は一巻で成長しても、次の巻で別人にならない。
第一外壁には、地上休息帯が五十歩ごとに置かれた。
給水。高さの違う椅子。平易な掲示。救難用の横索。
昨日までなかったものが、一晩で増えている。
「全部、仮設」とロロ。
「落ちたら?」とハル。
「椅子は落ちねえ。おまえは知らん」
「救命具の説明になってない」
「横索に二本で留めろ。左肩は腰帯へ逃がす。料金――」
「学院支給」とティア。
「俺の工賃は?」
「請求書を提出してください」
「通る?」
「内容を審査します」
「内容じゃなく、字で落とすだろ」
「口頭添付を認めます」
「進歩したな、第一条」
「あなたまで呼ばないで」
試験前の安全会議は、外壁の影で立ったまま行われた。
リディアは二つの時計を持っている。銀の正刻時計と、少し遅れる木の人間時計。
「本試行の目的は、合格者を急いで作ることではありません」と彼女。「複数経路と時間補正の必要性を確かめること。事故条件が変われば中止します」
「中止の基準は」とオルト。
「構造警告線、負傷者三名、誘導不能、責任者判断」
「負傷者二名なら続ける?」とハル。
「人数は自動中止の線です。一名でも重大なら責任者が止める」
「責任者が止められなかったら」
「副責任者」
「誰」
「私だ」とオルト。
ティアが横を見る。
「規則円の解除は術者にしかできません」
「試験中止の宣言は俺ができる。解除する責任はおまえだ」
「分かっています」
「復唱」
「副責任者の中止宣言を受けた場合、規則円を解除し、受験結果を保留する」
オルトは頷く。
「おまえ一人の判断へしない」
「最終解除は私です」
「手は一つでも、決める声は増やせる」
マオが手を上げた。
「受験者がやめたい時は」
「任意撤退。失格でなく未判定」とティア。
「理由は必要?」
「安全記録のため申告を求めます。言いたくない場合は『本人判断』でよい」
「あとで臆病って書かない?」
「書きません」
「家へ通知」
「本人の同意なしに医療詳細は通知しない」
「装具工房へは」
「不具合がある場合、共有範囲を本人が選ぶ」
マオは仮札の裏へ自分で書く。
『撤退は失敗ではなく選択』
「それ、正式文にして」とハル。
「長い」とマオ。「『帰ると言える』でいい」
「試験なのに帰る?」
「帰れない試験は捕まってるだけ」
エリアはその言葉を地図の余白へ写した。
目的地を描く地図は多い。引き返す道を同じ太さで描く地図は少ない。
ティアは参加者全員へ目を向ける。
「不参加を選んでも、異議審査の権利は失いません」
三人が列を離れた。
一人は昨日転んだ金翼生。一人は装具の冷却弁に不安がある鉄翼生。一人は理由を言わなかった。
誰も責めなかった。
オルトが人数を数え直す。
「受験者九。比較参加六十九。監督二十七。整備八。合計百十三。撤退三、別待機。復唱」
「合計百十三、撤退三!」
人数を減らすことが安全になる時、撤退者は欠落ではなく救助者になる。
ティアは再び大きな規則円を描いた。
ただし前回と違い、条件は一つ減らされている。
「試験中、指定地上路にいる受験者は、身体の支持点を一つ以上、外壁面へ接触させ続ける。監督者と救難班は対象外。緊急救助を行う受験者は、教官の宣言により一時対象外とする」
「聞こえた」と全員。
前回、救難班まで飛べなかった失敗を直した。
マオの術も、オルトが「救助開始」と宣言すれば減点対象から外れる。
「変えた」とハル。
「記録から必要な修正をしただけです」
「誉めていい?」
「不要です」
「じゃあ心で」
「顔へ出ています」
エリアは外壁全体を見上げた。
仮設休息帯。新しい水筒。一本へまとめられた地上路。横索。人の列。
「構造荷重の再計算は」と彼女。
「昨夜、機関科が行った」とティア。「参加者百十二、装具と救難器材を含む最大荷重。許容の六十八パーセント」
「分布は」
「地上路へ均等」
「均等?」
「五十歩ごとに待機線を置き、密集を防ぐ」
ロロが外壁へ耳を当てた。
「昨日より低い音する」
「異常?」とハル。
「まだ分からん。でかい物は気温でも声が変わる」
「点検した?」
「表からは。裏の第七蝶番、封印板があって開けられなかった」
「なぜ」とエリア。
「古い王立規格。開封に理事印三つ」
「申請は」
「出した。返事は五日」
「今日の試験後」
「だから音だけ取った。許容内って機関科は言った」
ティアが記録板へ書く。
『第七蝶番、内部未確認。外観・音響、許容内。異常時は中止』
「中止を決めるのは?」とハル。
「私です」
「迷ったら」
「オルト教官と機関主任の意見を聞く。ただし最終責任は私」
「全部自分で持つな」とマオ。
「責任者です」
「落としたら拾えない重さになる」
ティアは答えず、規則刃を腰へ戻した。
第二鐘が鳴った。
「開始!」
最初の百歩は、前回より滑らかだった。
速行列と休息列。
追越し声かけ。
装具の小噴気は片足接地の範囲で許可。
休息時間は別時計で記録し、最終到達時刻から必要分を分けて審査する。
同じ時間へ押し込めるのではなく、時間の内訳を残す。
ハルは走らなかった。
走れる場所でも、マオの右側を歩く。
「合わせなくていい」とマオ。
「俺の試験でもある」
「先に行ける時は行け」
「一緒に行くか聞いた」
「同じ順路なら、って言った」
「まだ同じ順路」
「言葉の端を握るな」
「落ちないように」
マオの口元が少し上がる。
「寒い」
「何が」
「今の」
「自分でも思った」
エリアは上空の監督路から地図を描く。
「五十歩先、休息帯。次の区画は風門。周期は――」
「一つだけ」とハル。
「二枚目の閉鎖が昨日より半息早い」
「理由は」
「気温」
「それ二つ」
「危険情報」
ハルは風門の音を聞く。
低、一、高、高。
昨日と違い、二枚目だけ高音が早い。
「マオ、二枚目で止まる?」
「止まらない。三枚目の前」
「分かった」
二人は自分の速度で抜けた。
金翼の受験生は歩行へ慣れ、追越し前に声をかける。鉄翼生は爪を掛ける位置を白墨で後ろへ知らせる。
制度を直す前から、人間は互いの運用を直し始める。
ドランが通過時刻を叫ぶ。
「第一群、前回より一分十二秒短縮。休息列、待機差三十六秒!」
「どう?」とハル。
「勘定は前より合う。まだ完全ではない」
「完全になる?」
「帳簿が完全なら、たいてい何かを数え忘れている」
彼は自分で言って、驚いた顔をした。
以前のドランなら言わない言葉だった。
最初の課題は、救難荷を次の区画へ運ぶことだった。
砂袋、治療箱、折畳み担架、通信灯。受験生全員が同じ物を持つのではない。自分で一つを選び、全体として必要数を揃える。
「前回は同じ重さだった」とハル。
「同じ負担が同じ能力を測らなかったため、役割選択へ変更しました」とティア。
「誰が何を持つ」
「受験者間で相談」
金翼生は軽く大きい通信灯を選ぶ。飛べない今日は風を受けやすいが、腕力は要らない。
鉄翼生は低い重心で砂袋を取る。
マオは治療箱の高さを測り、自分の工具帯へ固定できる一番小さい箱を選ぶ。
「ハルは」とエリア。
「担架」
「左肩」
「一人で持たない。前を持つ人を探す」
ハルは周囲を見る。
昨日なら勝手に担架を担いだだろう。
「誰か、後ろ持てる?」
銀翼の受験生が手を上げる。
「持てる。歩幅は?」
「俺、速くなる。合図して止めて」
「私、風門で遅くなる」
「じゃあ交代場所を決める」
相談してから持つ。
進む速さは一人の能力ではなく、二人が予測できる速さになる。
地上路の中ほどに、折り畳み橋があった。
昨日ロロが仮設したもの。三人幅。荷重を分散させるため、一組ずつ渡る。
「待機列、前後五歩!」とティア。
「五歩だと後ろが風門へ入る」とエリア。
「七歩へ変更」
「変更記録」とドラン。
「理由、風門周期との干渉」
ティアはその場で直す。
決めた規則を守ることと、決めたから変えないことは同じではない。
ハルたちが橋へ乗る。
担架の後ろを銀翼生が持つ。橋板が小さくしなる。
「重い?」
「担架は。あなたは速い」
「俺を重さみたいに言うな」
「歩幅の話」
「一、二で合わせる?」
「三まで」
「落ちる数え方」
「橋だから」
「一、二、三」
二人は同時に進む。
ハルの左肩へ一度、担架の揺れが来る。顔が歪む。
「交代する?」と銀翼生。
「あと五歩」
「痛み」
「二」
「誰の尺度」
「俺の五段階」
「定義は」
「一、忘れられる。二、言われると思い出す。三、動き方を変える。四、止まる。五、もう遅い」
「二なら、いま思い出した」
「交代する」
橋を渡り切る前に、次の者へ後ろを代わってもらう。
ハルは自分で言えた。
エリアは上空から何も言わず、地図へ小さな丸を一つ付けた。
地上路へ人が並ぶ。
休息帯へ止まる。
荷を置く。
再び持つ。
外壁は飛行訓練時、受験者の重さを空へ散らすよう設計されていた。金翼は壁から離れ、銀翼は風路へ広がり、鉄翼は少数だけ縁を進む。構造計算上の最大荷重は百十三人分でも、その全員が同じ幅三歩の帯へ乗ることは想定されていない。
重さの合計は同じ。
重さの置かれ方が違う。
砂を手のひらへ広げれば支えられる。針先へ集めれば皮膚を破る。
ドランの帳簿は総重量を数えた。
機関科の計算も総重量を数えた。
誰も、列がどこで待つかを十分には数えていなかった。
第二休息帯では、風門待ちの者、橋待ちの者、荷の交代者が重なった。
五十歩ごとの休息帯が、三つの流れを一か所へ集める。
「密度、上がってる」とエリア。
「前後へ分散!」とティア。
「後ろは橋、前は風門!」
「休息不要者は次へ!」
「次が閉じてる!」
止まる場所を作った結果、止まる理由が重なった。
ロロが保守路から叫ぶ。
「第七区画、荷重点が真ん中へ寄ってる! 椅子を二十歩ずらせ!」
「試験中に設備を移せません」と機関主任。
「椅子は仮設だ!」
「固定具の再確認が必要です」
「固定したまま人を動かせ!」
「休息帯を一時閉鎖。前後へ分ける!」とティア。
決断は出た。
だが、百人へ届くまでに時間がかかる。