第38話 第七章「仮入学生の食堂」後編
第三鐘前、配膳事故が起きた。
厨房から下層へ向かう螺旋搬送路で、盆車が三台詰まった。
壊れたのではない。上層の臨時祝賀会へ料理を増やし、同じ搬送管へ空皿の返送便を入れたため、下りと上りが一つの交換所で向かい合った。
「下面定食、百八十食、停止!」
配膳係が叫ぶ。
「昼休み終了まで七分!」
鉄翼席の学生たちは空の盆を前に待っている。
授業へ遅れれば減点。食べずに戻れば午後の実技へ響く。
「別の道」とハル。
「搬送路は一本です」と係員。
「人が運ぶ」
「厨房から下層まで二百四十段」
「走れば」
「食器衛生規程で、指定配膳員以外の厨房入室は禁止」
「指定すればいい」とティア。
「臨時配膳員の登録に監督印が――」
「私が押します」
「人数、健康確認、手洗い、運搬教育」
「何分」
「通常二時間」
「七分では無理」とハル。
ロロが天井を見た。
「使ってない返却レールがある」
「汚れ物用」と係員。
「洗えば料理を乗せられる」
「勾配が上りです」
「駆動輪を逆にする」
「安全検査が」
「空盆一枚で試す。落ちたらやめる」
ティアの視線が動く。
昨日なら、規程外だから止めただろう。
今日の彼女は、まず条件を数えた。
「第一条、厨房側と下層側に停止係。第二条、空盆試験。第三条、熱物は蓋を固定。第四条、失敗時は冷食へ切替。第五条、七分で終了」
「俺、走る」とハル。
「あなたは左肩負傷」
「盆を抱えない。経路の詰まりを知らせる」
「階段でなく、レール横の保守路を使うこと。跳躍は――」
「禁止?」
「許可。三歩を越える場合は声を出す」
「何で」
「下の者が避けられる」
「分かった」
「私は?」とマオ。
「先に聞きます。何ができますか」
「下層で、盆車を床へ固定する。傾きがある」
「個人術は?」
「使わない。楔を打つ。必要なら使う前に言う」
「採用します」
「私も地図を」とエリア。
「道、全部言う?」とハル。
「分岐だけ一つずつ」
「採用」
「あなたに採用されるのね」
ドランは会計板を開いた。
「料理数を数える。途中で失えば誰の食券が未提供か追える」
「領収光は?」とロロ。
「食堂費は学院が支払っている。私個人が払った物資ではないから追えない」
「役に立たねえ金持ち術」
「術以外で役に立つ!」
臨時配膳作戦が始まった。
ロロが返却レールの駆動歯を逆転する。
「太麺、蜜匙、焦げ豆!」
「最後、工具?」とハル。
「焼けた歯車だ!」
「料理みたいに言うな!」
空盆を一枚流す。
厨房から下層へ、がたがたと二百歩。途中で一度跳ね、マオの打った楔で受ける。
「空盆、到着!」
「復唱!」とどこかでオルトの教え子が叫ぶ。
「空盆、到着!」
今度は蓋付きの豆煮を十食。
ハルは保守路を走る。
「一番分岐、左!」とエリア。
「見えた!」
「二番、低い梁!」
「一つずつ!」
「いま二つ目!」
ハルは梁をくぐり、詰まりかけた盆へ手を伸ばす。左肩は使わず、右足で車輪の向きを変える。
「十、通過!」
ドランが下で数える。
「十一から二十!」
金翼の学生が空中レールから見下ろした。
「飛んで運べば早い」
「食堂内飛行は禁止」と係員。
「臨時許可を」
ティアは彼を見る。
「運べますか」
「一度に二盆」
「蓋固定、速度制限、下層着地帯をマオの指示に従う。参加する?」
「します」
銀翼生も手を上げる。
「滑空なら四盆」
「参加する?」
「する」
飛べない者へ合わせて全員を歩かせるのではない。
飛べる者は飛ぶ。
足場を作れる者は作る。
数えられる者は数える。
地図を描ける者は分岐を減らす。
違う能力が、同じ温度へ向かった。
マオは下層の着地帯へ白墨で大きく書く。
『ここへ置け。人へ渡す前に声』
難しい食堂規程を、飛びながら読める者はいない。
短い言葉が事故を減らす。
「三十食!」
「六十!」
「九十!」
ハルは上り階段を走る。
右足、左足、梁、手すり。方向記号を使わず、豆煮の胡椒と厨房油の匂いを追う。
「一、二、三!」
三段を飛び越え、詰まった盆の前へ着く。
固定帯の下で左肩が痛む。右手だけで盆を押す。動かない。
「ロロ、重い!」
「下から二番目の車輪!」
「どれ!」
「焦げた色!」
「全部焦げてる!」
エリアが地図槍の光を一本だけ飛ばす。
淡緑の点が、固着した車輪へ付く。
「そこ」
「一個だけ。助かる!」
ハルが靴底で蹴る。
車輪が回る。
最後の四十食が下層へ届いた。
昼休み終了、一分前。
温かいとは言えない。
最初の鍋よりは冷めた。
だが、これまでの通常便より湯気があった。
鉄翼席から拍手が起こりかける。
マオが手を上げた。
「拍手より食べろ。冷める」
全員が匙を取った。
それが一番正しい評価だった。
食べ終えた後、問題が残った。
返却レールを料理へ使ったため、汚れた皿の戻り道がない。
「作戦終了」とティア。
「終わってない」とハル。
「提供は完了しました」
「皿が百八十」
「食堂係が順次運びます」
「次の授業がある」
「受験者の作業範囲ではありません」
「途中だけ助けて、片付けを仕事の人へ押す?」
ティアは返却口を見る。
配膳係は十人。百八十枚を二百四十段上げる。午後の仕込みも始まる。
「臨時作業を延長します」とティア。
「第五鐘まで?」
「皿の返却完了または第五鐘、早い方」
「期限つき」
ハルは右腕で皿を重ねた。
「左肩を使わない」とエリア。
「相談?」
「条件」
「選択肢」
「十枚ずつ運ぶか、洗い場で右手作業」
「洗い場」
エリアが銀片で払った食事代を、皿洗いの賃金から返すことにした。
食堂の臨時賃金は一時間四ルク。ハルの食事は三ルク、利子半ルク。五十二分洗えば足りる。
「四十五分でいい」とエリア。
「利子込み」
「私の計算では四十五」
「公爵価格?」
「残り七分は、道を教えすぎた罰として私が払う」
「罰を金にするな」
「では、共通空字を七文字教える」
「一分一字?」
「高い?」
「安いか分からない」
「あなたが決めて」
「三文字」
「成立」
洗い場で、エリアは『熱』『返』『待』の三字だけ教えた。
四字目を言いかけ、口を閉じる。
「いま、何を言おうとした」
「『到』」
「言った」
「字名だけ。形は教えていない」
「ぎりぎり守った顔」
「規則を守る練習は、ティアだけのものではないわ」
マオは返却口の難しい掲示を消し、大きく書き直した。
『熱い皿は赤。割れた皿は左。持てない時は呼ぶ』
「勝手に」とティアが言い、続ける。
「……仮掲示として第五鐘まで有効。正式案を提出してください」
「私が?」
「書いた人が理由を説明する」
「採用される?」
「審査します」
「読めない字で返事するな」
「平易文を併記します」
ロロは返却レールを元へ戻し、外した歯車を数える。
一つ足りない。
「ノクス!」
黒い小獣は七枚重なった小皿から一枚を抜き、そこへ歯車を隠していた。
「何で皿の下!」
「ノゥ」
「油と食器を混ぜるな!」
ノクスは叱られ、代わりに苺のへたを一つ盗んだ。
真相を見抜かず、制度も直さず、ただ食堂を少し騒がしくする。それが彼の役目である。
片付けの後、ハルは食堂の空いた席へ座った。
正式な学生ではない。
食堂札も第五鐘で失効する。
それでも、誰かが置いた低い椅子、ロロの工具音、マオの白墨、ドランの数字、ティアの咳、エリアの地図が同じ場所にある。
「ここ、壊れてほしくないな」とハル。
「食堂が?」とエリア。
「学校。嫌なところ多いけど」
「入って一日で評価が早い」
「入れてない」
「境界の上」
「その答え、ずるい」
「地図は境界を描くものよ」
「境界のどっちに俺を書く?」
エリアは右手で口元を隠した。
「自分で決めて」
「教えすぎない訓練?」
「ええ」
「じゃあ、内側」
ハルはそう言った。
正式な許可より先に、所属したいという気持ちが生まれた。
学校に愛着を持つとは、学校を無条件に好きになることではない。壊れている場所を直して、残したいと思うことかもしれない。
ドランが配送表を持ってきた。
「食堂監督の許可で複写した。見ろ」
厨房から各席への標準所要時間。
金翼二分。
銀翼六分。
鉄翼十二分。
「違い、書いてある」とハル。
「その下」とドラン。
『全食、同時刻到着として温度管理費を算定』
「同時じゃない」
「会計上の到着は、各配膳台が受領印を押した時刻だ。料理が席へ渡る時刻ではない」
「また受付」
「しかも、搬送時間の基準表は入学試験と同じだ」
表の端に、小さく記されている。
『金翼標準飛行速度表・学院共通第七版を準用』
食堂の料理も、受験生と同じ一人の速度で運ばれていた。
「試験だけの欠陥じゃない」とマオ。
「建物のあちこちが、同じ速さを普通にしてる」
「直す場所が増えた」とハル。
「入学前から仕事を増やすな」とロロ。
「仕事なら請求できる」
「それなら増やせ」
エリアは食堂配送表と、過去五年の試験時刻票を並べた。
到着。
同じ字。
同じ行政記号。
彼女は資料庫から持ち出した用語規程を開く。
古い共通空字の欄外へ、定義があった。
『到着――指定の受付者が対象を受領し、確認処理を完了した時点をいう』
対象。
料理でも、人間でも、同じ。
「正確に言うわ」
エリアの声が、静かな食堂へ落ちた。
「これまで私たちが見ていた『到着時刻』は、走り終えた時刻ではない。学院が読み終えた時刻よ」
「じゃあ過去の遅刻分布は」とハル。
「移動の遅さと、受付の遅さが混ざっている」
「分けられる?」
「一部しか。待機線の時刻を記録していない年が多い」
「証拠が足りない?」
「いいえ」
エリアは配送表を指す。
「同じ仕組みが食堂にもある。物が届いた瞬間ではなく、学院が受け取った瞬間を到着と呼ぶ。受け取る側の時間を、運ばれた側の時間へする」
ティアは胡椒で赤くなった目を拭き、規程を読んだ。
「この定義なら、凪野生が線へ着いていても、受付処理中は未到着です」
「規則上は」とハル。
「はい」
「現実では?」
ティアは青い待機線の記録を見た。
「現実では、着いています」
言い換えで人を外へ置ける学校で、規則を守る少女が初めて、規則と現実を別々に呼んだ。