第42話 第九章「遅刻者の地図」後編
剥離板が縦になった。
ハルは赤い給水筒の固定輪へ右腕を通している。左肩は身体へ縛った。残る受験生たちは、横索へ並ぶ。
「板上残り十。飛行可能八、無翼一、負傷教官一」とオルト。
「合計が合わない」とドラン。
「鉄翼一名、翼具故障で飛行不能!」
「飛行不能三!」
全域解除後、自力で離れられないのは三人。
「救命索、あと二本」とロロ。「一本はハル側、一本は負傷教官へ。鉄翼へ回す索がない!」
「ゼロスター号の帆索」とハル。
「船は桟橋。距離三百!」
「ノクス、持って来られない?」
「小獣へ三百歩の索を運ばせるな!」とエリア。
ノクスは桟橋の舷側にいた。
話を理解したのではない。七本束ねた細索から一本を咥え、遊び始めただけである。
「その一本、予備射出索!」とロロ。
黒い小獣は逃げる。
「捕まえろ!」
ピコが飛び、ノクスの前へ回る。
ノクスは方向を変え、ちょうど射出機の投入口へ細索を落とした。
「偶然でも使う!」
ロロが索を装填する。
「三本目、準備!」
ノクスは褒められたと思い、今度は残り六本全部を外そうとする。
「それはやめろ!」
機械と小獣の騒ぎの横で、エリアは落下線を更新した。
板はただ下へ落ちていない。
右端の給水筒が重く、風を受けて回転する。裏面へ風が入るたび、学院側へ一度近づき、次に大きく離れる。
「振り子」とハル。
『何』
「昨日の壁登りと同じ。近づく瞬間がある」
『何息後』
「七」
『数える』
「待って。あなたは跳ばない」
『近づいたら索を掛けるだけ』
「左肩」
『右でやる』
「失敗したら」
『戻れない』
「なら許可しない」
『監督補助に許可権ある?』
「あるわ」
『言い方で増やした!』
エリアは唇を噛んだ。
彼の試行を奪わないと決めた。命の危険まで自由に渡すと決めたわけではない。
「代案を描く。七息後、板が近づく。射出索三本を同時に掛ける。あなたは固定輪から動かない」
『三本、全部届く?』
「一本は届かない可能性が二割」
『高いな』
「だから、あなたの跳躍を四本目にしない。三本目が外れた場合だけ、固定輪から手索を投げる。跳ばない」
『俺の役割、残した?』
「残した」
『採用』
エリアは息を吐いた。
教えすぎず、放しすぎない。
地図へ、選べる分岐を二本描く。
事故原因図の下へ、エリアはもう一枚の地図を開いた。
「いま?」とドラン。
「いまだから」
学院理事塔は、試験の中止と再開を決めようとしている。事故を飛行禁止だけの失敗と結論づければ、以前の試験制度へ戻る。地上路が壊れたから金翼の直線飛行だけが安全だった、と。
それでは、落ちる前の問題が消える。
エリアは過去五年の記録を呼び出した。
金翼。銀翼。鉄翼。無翼。
外門の処理時間。
実経路。
休憩所。
待機。
内門処理。
「遅刻者の地図を作る」と彼女。
「遅れた人を描く?」とドラン。
「違う。遅れが作られる道を描く」
まず、百七十二年前の標準者。
エリアは地図の左へ、四つの時計を置いた。
外門へ身体が来た時刻。
外門受付が終わった時刻。
内門待機線へ身体が来た時刻。
内門受付が終わった時刻。
「これまでの記録は、二番目と四番目だけ」と彼女。
「学院が人を読み終えた時刻」とハルの声。
「ええ。人が来た時刻ではない」
ドランが今年の生票を持って走る。
「今日の九人は四つ全部ある。過去異議票から二十七人、外門警備日誌から十二人、医務申告から八人、身体到着を復元できる」
「推定は色を分けて」
「確定を青、目撃で復元を黄、範囲推定を灰」
「家名は消して」
「すでに番号だけだ」
エリアは四十七人の線を描いた。
金翼は、身体到着と受付完了の差が細い。
鉄翼は外門で太くなる。装具検査。
無翼はさらに太い。照合と係員待ち。
内門でも同じ差が繰り返される。
「遅刻者の移動速度だけを比べるなら」とドラン。「身体到着から身体到着を取るべきだ」
「計算して」
金翼平均、十一分四十息。
銀翼、十三分十二息。
鉄翼、十五分三十息。
差はある。
だが受付を足すと、金翼十二分九息、銀翼十四分四十、鉄翼二十一分三。
「倍近く広がった」とハル。
「道の差へ、読む側の差が足される」とエリア。
マオが医務艇から言う。
『休息を取った時間は』
「失格者の欄には『停滞』としかない」
『休んだか、渋滞か、装具故障か分からない?』
「分からない」
『なら、次から本人に理由を選ばせて』
「休息、待機、修理、助け、本人判断」
『難しい』
「平易語は後であなたが」
『仕事にするなら払って』
「学院へ請求して」
『成立』
危機の最中でも、次の書式が作られる。
制度は会議室だけで生まれない。落下中に必要だった言葉が、後の欄になる。
エリアは四十七本の線の上へ、第四鐘を引いた。
金翼の多くは前。
鉄翼と無翼は、身体が前に着いているのに、受付完了だけが後ろへ出る。
「遅刻者は、遅れて来た者だけではない」と彼女。「着いていたのに、学院が読み終えるまで外へ置かれた者がいる」
百七十二年前の標準者へ戻る。
身長百八十二。体重七十一。金翼二枚。
受付は家名章から自動。十二秒。
空を六百八十歩相当。
休憩所は平均軌道上。
内門確認は十秒。
一本の金線が、第四鐘より前に着く。
次に銀翼。
受付二十九秒。
風路八百二十四歩。
休憩所七か所。
金線より遅れるが、平均は間に合う。
鉄翼。
装具検査三分二十六秒。
縁路千二百歩。
休憩所一。
内門で装具番号と奨学枠確認。
青い線が第四鐘へ触れる。
少しの風、痛み、待機、係員の読字で後ろへ出る。
無翼。
異界出生照合十三分四十六秒。
指定係待ち。
地上路。
休憩所零。
共通空字照合。
赤い線は、開始する前に遅れている。
「ハルが走る速さを、どれだけ上げても」とドラン。
「受付で十三分を使われれば、取り戻せない」
「世界を救う能力があっても」
「測っていない能力は、試験には存在しない」
エリアは同じ開始時刻の縦線を引いた。
そこから四本の経路が出る。
「同時に出ていない」とマオの声が風管から来た。救難班へ収容され、脚を医務員に固定されている。
「受付時間が持ち時間なら、私たちは門へ来た時点から試験が始まってる」
「そう」とエリア。
「でも金翼は十二秒」
「同じ開始鐘は、紙の上だけ」
ハルの声も入る。
『俺、十五分前に来た』
「受付締切は二十二分前」
『通知を読めなかった』
「通知の責任もある。でも、読めない者を受け入れる補充試験で、裏面の古字だけへ締切を置いた」
『俺も悪い?』
「一つにしない。読まなかった責任と、読める形にしなかった責任は別」
ティアが地図を見る。
腕へ白い規則文字を食い込ませたまま。
「経路を分けること自体が不公平なのではない」とエリア。「違う経路を、同じ標準者の時間へ縮め、処理時間を本人の能力へ混ぜ、休息へ届かないことを持久力と呼んだ。それが名目上は同じだが負担が違う規則〈レベル・トラップ〉よ」
意味仮名は、学院の行政研究で使われる俗称だった。
平らに見える床の下へ、違う高さの罠がある。
「悪意ある者は」と理事塔。
「必要ない」とエリア。「門も係員も、書かれた通り動いた。だから毎年、同じ翼章の者が同じ鐘で落ちた」
「標準受験生は」とリディア。
「平均ではない。最初に測った金翼飛行者一人です」
広間の掲示板へ、四本の線が映る。
学生も教官も見る。
犯人の顔はない。
代わりに、一本の金線が百七十二年かけて「普通」と呼ばれるまでが見えた。
掲示板の下で、金翼生が声を上げた。
「でも、飛ぶ能力が高い者を選ぶ学校だろう」
反論は間違っていない。
星航士には飛ぶ能力が必要な職もある。
「なら、飛行試験と呼ぶべきです」とエリア。「救難、航路、機関を総合すると言いながら、受付と休息まで金翼の飛び方へ合わせる理由にはならない」
「鉄翼は装具で補う。装具も能力だ」
「ええ。だから装具を使わせる。検査時間を本人の遅刻へせず、装具を使った救難や整備を測る」
「無翼は」
視線が赤い点へ集まる。
「飛べない」とエリア。「その事実を消して合格させるのではない。飛べない者に何ができ、何が必要で、どの職務なら担えるかを測る。飛行が必須の資格は別にする」
『俺、飛行教官にはならない』とハル。
「まず学生になれ」とドラン。
『いま落ちてる!』
「だから帳簿上は受験中だ!」
緊張の中に短い笑いが起きる。
別の学生が言う。
「同じ試験じゃなくなる」
「同じ学校へ入るために、同じ動きをする必要はない」とマオ。医務艇から、まだ腰帯を外されながら話す。「同じ目的を測れ。違う道具で、人を帰せるか。壊れた物を直せるか。道を選べるか」
ティアが白い規則文字の中で、その言葉を聞いていた。
彼女は反論しない。
同意もしない。
いまの役目は円を維持し、落下者を救うことだ。
議論を後へ送るのは逃避になることがある。
生存を先へ置くための順序になることもある。
「射出まで三息!」とロロ。
救難図が上へ戻る。
板が学院へ近づく。
射出索三本。
一つはハル。
一つは負傷教官。
一つは翼具故障の鉄翼生。
「一、二、三!」
ロロが三つの引金を引く。
エリアが路線を描く。
オルトが受け手を配置する。
一本目、ハルの固定輪へ。
二本目、担架網へ。
三本目――風で逸れる。
「外れた!」
鉄翼生の頭上を越える。
ハルが手索を掴む。
『投げる!』
「跳ばない!」
『分かってる!』
右腕で投げる。
索の輪が鉄翼生の装具爪へ掛かる。
「固定!」
三本が揃った。
「ティア、解除!」とオルト。
ティアの口が開く。
その時、ドランが規則台帳の一頁を見つけた。
「待て!」
全員が彼を見る。
止めるべき時ではない。だからこそ、声に理由がある。
「同律陣による認定試験規則、第九十八条。第三鐘後、術者が全域規則を任意解除した場合――」
「読んで!」とエリア。
ドランの顔色が変わる。
その条項は、善意で作られた。
四十年前、ある訓練責任者が自分だけ危険を避けるため規則円を解き、隊列が崩れて学生が負傷した。以後、術者が最後まで条件を支える責任を、資格そのものへ結びつけた。
規則を途中で捨てる者を止めるための条文。
いまは、規則を途中で止めなければ人が落ちる場面にある。
法律は過去の事故を覚える。
未来の事故まで同じ形とは限らない。
「試験条件の継続制御不能とみなし、術者の規則救難資格を即時停止。資格に基づく隊長権限も失効。再審査まで復帰不可」
風の中で、白い規則文字が鳴る。
ティアは解除すれば、試験を無効にするだけではない。
自分が最も長く守ってきた資格と、風紀隊長の命令権を失う。
「責任条項」と彼女。
声は静かだった。
「知らせない方がよかったか」とドラン。
「いいえ」
「いま言えば、判断を鈍らせる」
「後で知れば、私の選択ではなくなる」
ティアは風紀隊長章へ触れた。
深紅の円へ、白い一本線。規則を課す者が最初に円へ入るという印である。
「資格停止は処分ですか」とハルの声。
「自動措置」とドラン。「故意や過失の判定前に、指揮権だけ止める」
『戻れる?』
「再審査に通れば」
『どれくらい』
「最短三か月。事故が出た場合は未定」
ハルが黙った。
落下している側が、解除しろと言えば、ティアへ代償を強いる形になる。
「ハル」とエリア。「あなたが決めることではない」
『でも俺を助けるため』
「十人を助けるため。彼女の資格は彼女が決める」
「正確には」とティア。「資格を失うかどうかを決めるのではない。規則を解除するかを決めます。失効は、その結果です」
「第一条さん」とマオ。
『私が言うのも違う。でも、聞く。隊長をやめたい?』
「いいえ」
『規則を解きたい?』
「救難条件が揃えば、解きます」
『じゃあ、どっちも本当』
「はい」
何かを捨てる決断は、捨てたかったことにしなければできないわけではない。
大切なまま、失うことはある。
「解除後の指揮」とティア。
「俺が引き継ぐ」とオルト。
「風紀隊員は」
「救難班へ入れる。隊長章が消えても命令系統は残す」
「受験結果」
「全件保留」とリディア。
「事故記録」
「あなたの解除時刻も、私の中止判断も、全部公開します」
ティアは一つずつ確認した。
自分がいなくなった後ではない。
自分の権限がなくなった直後に、誰が何を担うかを決める。
「射出索三本、固定!」とロロ。
「板、学院へ最接近まで二息!」とエリア。
「残り十、生存!」とオルト。
条件が揃った。
ティアの右親指が、規則刃の最後の目盛りへ触れる。