第43話 第十章「結界の外の受験生」前編

命令を出す者は、始め方を学ぶ。

 軍は号令を教え、役所は告示を教え、学校は宣誓を教える。

 終わらせ方を教える組織は少ない。

 一度出した命令を、いつ撤回するか。

 撤回した瞬間、誰が指揮を引き継ぐか。

 従っていた者へ、もう従わなくてよいとどう伝えるか。

 権力は、握る時より手を開く時に形が出る。

 ティアは規則刃を抜いた。

 白い円を維持していた二本の刃が、地面から離れる。

 腕へ食い込んだ文字が、逆向きに流れ始める。

「規則を撤回します」

 声は震えなかった。

「第一外壁試験区における接地義務を、全域解除。聞こえた者は答えなさい」

 風の中から、声が返る。

「聞こえた!」

「聞こえた!」

「聞こえた!」

 最後にハル。

『聞こえた!』

 白い文字が砕けた。

 同律陣〈イコール・リング〉が消える。

 同時に、ティアの胸の風紀隊長章から光が抜けた。深紅の円に走っていた白線が灰色へ変わる。資格台帳の遠隔印が、役職の失効を告げる。

「解除時刻、第三鐘後一分四十二秒」とドラン。

 彼は声を詰まらせず記録した。

 記録することが、見捨てない方法だった。

「指揮を引き継ぐ」とオルト。

 低い救難声が空を打つ。

「金翼、上へ十! 銀翼、水平! 鉄翼、板へ三息残れ! 飛行不能者の索を守る。復唱!」

「金翼、上へ十!」

「銀翼、水平!」

「鉄翼、三息!」

 翼が開いた。

 金色が上へ弾ける。

 銀色が横へ広がる。

 星鉄の爪が剥離板へ食い込む。

 同じ瞬間に違う方向へ動く。

 それでも、命令が短ければ互いの道を予測できる。

 衝突予測七。

 実際の接触、一。

 負傷、なし。

 ただし、解除は安全そのものではなかった。

 禁止されていた力が戻るということは、止められていた癖まで一斉に戻るということだ。

 金翼生の一人が反射で真上へ跳ねた。上を安全と身体へ教え込まれてきた者の飛び方だった。ところが外壁はもう九十度傾き、その真上には別の受験生がいる。翼同士がぶつかりかける。

「止まれ!」

 ティアの口から命令が出かけた。

 だが、胸の章は灰色だ。命令する資格を失った者が、命令だけを習慣で残せば、手を開いたふりをして指を握り直すことになる。

 彼女は言い直した。

「グレン教官、金翼二、上方で交差します!」

「情報、受領。銀翼三、間へ入れ。止めるな、流せ!」

 銀の翼膜を持つ三人が、壁と平行に滑った。正面から受け止めれば四人まとめて失速する。肩と翼端を触れさせ、衝突の角度だけを横へ逃がす。金翼生は一回転し、鉄翼生が打ち込んだ爪索へ両足を着いた。

「接触者、自己申告!」

「右翼端、擦過。飛べる!」

「左肘、痛み二。動く!」

「鉄爪、固定中!」

「飛べる者は飛べるとだけ言うな。何ができるかを言え」とオルト。

「金翼一、高度保持十息!」

「銀翼二、横流し継続!」

「鉄翼一、索点を守る!」

「採用。各班、一人ずつ次の判断者を決めろ。俺の声が切れても止まるな」

 命令は一つだった。

 一つの命令で、命令する人間を増やした。

 ティアは一歩下がる。右膝が痛んだのではない。下がるべき場所を、初めて役職ではなく自分で選んだ。

「残り!」

「板上、飛行不能三!」

 ハル。

 右腕を負傷した教官。

 翼具の壊れた鉄翼生。

 三本の索が張る。

 剥離板は規則から解放された途端、風をまともに受けた。

 白い石板が裏返る。

「回転、毎息二十一度!」とロロ。

「索の交差!」とエリア。

 三本が板の中央で絡む。

 このまま引けば、人ではなく索同士が締まり、石角で切れる。

『俺が分ける!』

 ハルは固定輪から腕を抜いた。

「動かない約束!」とエリア。

『解除前の約束!』

「言葉の期限を勝手に短くしないで!」

『今は必要!』

 ハルは回転する板を走った。

 足元が床になり、壁になり、天井になる。

 一歩ごとに重力の向きが変わる。

 方向感覚は役に立たない。吐き気が喉へ上がる。

 見るのは物だけ。

 赤い給水筒。

 白い椅子。

 黒い亀裂。

 銀の索。

「一、二、三!」

 石の縁を蹴る。

 索の交差へ着地する。

 左肩は使わない。

 右手と歯で結び目を解く。

「一本、教官! 二本、鉄翼! 三本、俺!」

「色を!」とドラン。

「教官、青! 鉄翼、黄! 俺、赤!」

「青を引け!」とオルト。

 救難班が負傷教官へ担架網を寄せる。

 若い救難生が無言で右腕へ触れようとした。

「先に聞け!」

 医務艇からマオの声が飛ぶ。

 救難生は手を止めた。

「右腕を固定します。肩か肘、どちらを先に支えますか!」

「肘だ。肩は自分で守る!」

「復唱、肘を先!」

 選ぶのに使った一息は、救助を遅らせたのではない。選ばず掴んで肩を外す三十息を防いだ。

 担架網が板を離れる。

「教官一、回収!」

「残り二!」

 黄色の索が石角へ擦れる。

 白い煙。

「切れる!」

 ハルは赤い索を腰から外した。

「俺のを黄へ足す!」

「あなたの固定がなくなる!」とエリア。

「鉄翼の装具、重い!」

「あなたは飛べない!」

「知ってる!」

 赤い索を黄色へ結ぶ。

 二重になる。

「鉄翼、引け!」

 索が張り、少年の身体が石板を離れかける。だが壊れた翼具の左爪だけが、板の継ぎ目へ噛み込んだ。上から引けば腰がねじれる。

「装具を切る!」と救難生。

「待て!」

 少年が初めて叫んだ。

「切ったら、家へ帰る脚がない!」

 装具は学院の備品ではない。彼の身体の外へ付いているだけで、生活の内側にある。救難者には重い金属でも、持ち主には明日の足だった。

「どう外す!」とハル。

「左腰の黒環! 二度引いて、押す!」

「二度引く、押す!」

 一度。二度。

 押す。

 装具の安全継手が開き、爪部だけが板へ残った。少年の胴と主翼具は黄色と赤の二重索で浮く。

「回収後、爪を取りに戻る」とロロが風管へ割り込む。

「落ちたら弁償できない!」

「値段の話じゃない!」

「分かってるから値段を言ってんだ! 取り戻す価値があるって意味だ!」

「鉄翼、引け!」

 救難班が引く。

 翼具の壊れた少年が板から浮く。彼は切り離した爪から目を離さなかったが、救難生の肩へ自分から腕を回した。

 その瞬間、板が百八十度回った。

 ハルの足元が消えた。

「一、二――」

 三を言う前に落ちる。

 右手が、板裏の低い保守手すりを掴んだ。

 第六章で見つけた、籠保守員のための手すり。

「裏にも道がある!」

 ハルは片腕でぶら下がる。

 左肩の固定帯が身体を締める。右手の指が滑る。

「ハル!」

 エリアが飛び出そうとする。

 踵の地図線が切れかける。

「地図を維持!」とオルト。

「でも――」

「救助者を出す。おまえは道を描け!」

 エリアは歯を食いしばった。

 道だけ描く。

「金翼二名、赤線へ! ハルの上からではなく、板の回転先へ回って!」

 二人が飛ぶ。

 剥離板の裏には、古い補強梁が格子状に走っている。ハルは低い手すりから梁へ足を掛けた。

「掴むぞ!」と金翼生。

「どこ!」

「右腕!」

「右は手すり! 腰帯!」

 金翼生が腰帯を掴む。

 もう一人が赤いマフラーへ手を伸ばす。

「それ首!」

「他にない!」

「金針を抜くな!」

「救助中に注文が多い!」

 板がまた回る。

 金翼生の翼膜が石角へ当たり、片側が裂けた。

「飛行力低下!」

「二人で離せない!」

 ハルは手すりへ戻る。

「俺を置いて、翼を直せ!」

「置けるか!」

「今は戻れる!」

 エリアが線を描く。

「板が学院へ近づくのは五息後。裏梁を右――給水筒の反対へ四歩。そこに射出索の残り!」

「一つずつ!」

「一つ目、梁を四歩!」

 ハルは進む。

 金翼生たちは一度離れ、翼膜を留める。

 梁が途中で切れていた。

 設計図ではつながっている。現物では三十年前の補修で一間だけ撤去され、代わりに細い点検縄が渡されている。地図は嘘をついていない。ただ、古い真実を正確に言っている。

「エリア、道がない!」

「現物を言って!」

「梁が切れてる。縄一本。右手は手すりで塞がる。左肩は上がらない」

 ここでいつものハルなら、跳んだ。

 自分を最も安い代償として差し出し、成功すれば笑い、失敗すれば落ちながら次を考えた。

 右手の指が滑る。

 羅針盤の蓋へ触れようとして、やめる。針は出ない。出たとしても、この一間を渡るのは方角の仕事ではない。

「一、二――」

 三が出ない。

 助けを求める時だけ出ない数字が、喉へ引っ掛かった。

「……手伝って!」

 言ってみれば、短かった。命令より短く、言い訳より長い。

「何を!」と、翼膜を留め終えた金翼生。

「腰を持って、縄へ足を乗せるまで!」

「右か左!」

「左は肩が悪い。右腰!」

「復唱、右腰!」

 金翼生が背後から帯を支える。もう一人は縄を張る。ハルは一人で跳ばず、三人分の重さを三点へ分けて渡った。

「足、乗った!」

「離すぞ!」

「離して!」

 支えがなくなる。

 自分の足で、次の梁へ移る。

 自分で戻る道。

 まだ描けない。

 他人の地図を、自分の足で選ぶことはできる。

 他人の手を、自分の言葉で借りることもできる。

 医務艇では、マオが起き上がった。

「安静」と医務員。

「左脚に体重をかけない。分かってる」

「腰帯圧迫があります」

「三呼吸だけ足場を止める」

「何の」

 救難受け台が、外壁から伸ばされていた。

 板が学院へ最接近する時、ハルを受けるための可動台。だが外壁転換の余震で、台の車輪止めが滑っている。

 ロロが下で怒鳴る。

「固定爪が一個折れた! 台を出すと後ろへ逃げる!」

「私が止める」とマオ。

「装具がありません」と医務員。

「足裏があれば術は使える」

「左股関節へ負担」

「右足で接地する」

「あなたの術は左足の誓紋では」

「誓紋は両足。装具は左を強くするだけ」

 マオは先に条件を言う。

「台へ寝たまま運んで。右足を固定板へ。腰は動かさない。三呼吸で終わる。終わったら戻す」

 医務員はティアを見る。

 もう隊長ではない。

「私に許可権はありません」とティア。

「じゃあ誰」とマオ。

「俺だ」とオルトの声。

「本人説明を確認。医務員が中止権。三呼吸のみ。採用」

 マオは受け台へ運ばれた。

 右足を固定板へ置く。

 これまで彼女は、自分が落ちないために摩擦を固定した。

 今度は自分の身体を動かさず、他人を受ける台を止める。

「接地、三呼吸」

 黄白い光が足裏から板へ走る。

「足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉!」

 受け台の車輪が床へ噛みつく。

「一呼吸!」

 ロロが台を最大まで伸ばす。

「二呼吸!」

 ハルの剥離板が近づく。

「三呼吸――」

 まだ届かない。

「延長するな!」と医務員。

「分かってる!」

「解除!」

 台が再び滑り始める。

 だが三呼吸で、伸長位置まで出せた。

 マオは息を吐き、すぐ言う。

「痛み四。戻す」

 自分から申告した。

 医務員が彼女を下げる。

「ハル!」

 マオが風管へ叫ぶ。

「受け台、出た! 勝手に別へ跳ぶな!」

『聞こえた!』