第44話 第十章「結界の外の受験生」後編
剥離板は、学院へ向かうだけではなかった。
その下には発着桟橋と、未完成のゼロスター号がある。
「衝突まで二十息!」とドラン。
「板をずらせ!」とハル。
「人間の力では無理!」とロロ。
「壁を動かす機関は」
「第六区画の回転軸なら生きてる。九十度だけ動かせば、板へ風を当てられる!」
「動かして!」
「全壁を戻すと救難台が潰れる!」
「第六だけ」
「区画独立錠が閉じてる!」
ロロは保守塔へ飛び込んだ。
四本の補助腕が、別々の操作輪へ伸びる。
「独立錠、手動。太麺、細麺、揚げ輪、誰か右の赤を押せ!」
ドランが来る。
「赤が三つある!」
「一番高い!」
「見えない!」
「眼鏡掛けろ!」
「持っていない!」
ロロが工具箱から丸い拡大鏡を投げる。
「これ使え!」
「工具だろ!」
「見えりゃ同じ!」
ドランは拡大鏡を片眼へ当てる。
「上の赤、確認!」
「押せ!」
二人で操作輪を回す。
第六区画だけが、ゆっくり九十度動き始めた。
完全な修理ではない。
必要な一枚だけ、必要な角度へ。
「回転途中で歯が飛ぶ!」
「何息」
「八!」
「板衝突まで」
「十六!」
「間に合う!」
「勘定が合った!」とドラン。
「喜ぶな、押せ!」
第六区画が立ち上がり、巨大な風受けになる。
王都の上昇気流が石面へ当たり、剥離板の横腹を押す。
軌道が桟橋から四十歩ずれた。
「ゼロスター、回避!」
未完成船の帆をカイルが勝手に開こうとする――その姿はなかった。今回は王城へ連れ戻されている。
代わりにノクスが船首で二本の尾を立て、何もできずに「ノゥ」と叫んだ。
船は係留索で揺れたが、板の直撃を免れた。
「板、最接近まで七息!」とエリア。
ハルは裏梁を走る。
上も下もない。
胃が空へ置いていかれる。
「一、二、三!」
四歩。
射出索の端へ着く。
「次!」
「索を腰へ二周。結び目は右脇!」
「一つずつ!」
「二周!」
巻く。
「次!」
「右脇で結ぶ!」
結ぶ。
「受け台へ跳ぶ。距離七歩!」
「それ、一つ?」
「一つ!」
板と受け台が近づく。
七歩。
六。
五。
ハルは梁を蹴った。
「一、二、三!」
空へ出る。
受け台まで、わずかに足りない。
ティアが台の先端にいた。
隊長章は灰色。右膝に支持帯。二本の規則刃は、もう円を描かない。
「手を!」
右手を伸ばす。
距離が足りない。
「左は肩が!」とエリア。
ティアは自分の右膝を見る。
「補助を要請します!」
横にいた鉄翼生が答える。
「どこ!」
「腰帯を後ろへ。右膝へ荷重を入れない!」
鉄翼生がティアの腰帯を掴む。
彼女は身体を前へ倒す。
規則刃二本をつなげない。
左右別々に伸ばす。
「凪野生、刃の平を踏みなさい!」
ハルの右足が一本目へ。
左足が二本目へ。
ティアの腕が沈む。
鉄翼生が腰を支える。
「上げる!」
三人でハルを受け台へ投げる。
ハルは転がり、右肩から床へ落ちた。
「人数!」とオルト。
「ハル一!」とマオ。
「板上!」
「零!」
「救助者!」
「全員!」
「復唱!」
学院外壁、救難艇、桟橋、受け台から声が返る。
「板上零! 全員生存!」
しかし、ドランの台帳で数字が一つ合わなかった。
「待て。受験者四十七、教官六、救難生十八。回収記録は七十。合計は七十一だ」
オルトの顔から、救難中にも消えなかった血の色が引いた。
点呼で一人足りない。彼にとって数字の不足は、数字ではなく十一個の鉄輪が一度に鳴る音だった。
「全班、動くな」
声が低くなる。
「名で数える。翼色ではなく名だ。記録係、読み上げろ」
ドランが濡れた紙を開く。
姓。返事。姓。返事。
風の中で、名前が一人ずつ身体へ戻っていく。
三十六人目で、同じ姓が二度出た。
「ケルン生が二件」とドラン。
「私、一人」とマオ。
「医務艇へ運ばれた時と、受け台固定術の時に別登録されている」
「私を増やすな。奨学金も二倍になるなら考える」
ロロが補助腕を一本上げた。
「負傷者台帳と術者台帳の統合不良。人間を仕事の数で数えた」
不足ではなかった。重複だった。
それでもオルトは安堵を隠さず、長く息を吐いた。
「訂正。七十人、全員確認」
「復唱、七十人!」
学院外壁、救難艇、桟橋、受け台から声が返る。
「板上零! 七十人、全員生存!」
オルトが右拳を一度、胸へ当てた。
「指定方向へ全員の足場を揃える号令〈ユニゾン・ブレイス〉。受け台中央を下とする。三呼吸!」
彼の誓星術が、一度だけ響いた。
剥離板が通過する衝撃で、外壁全体の重力が揺れる。
金翼も銀翼も鉄翼も無翼も、三呼吸だけ同じ「下」を感じる。
全員が受け台と外壁へ足を置く。
「一呼吸。負傷者を内側へ!」
「二呼吸。翼を畳め!」
「三呼吸。解除!」
足場が元の違う重力へ戻る。
しかし、その三呼吸で救助者たちは互いを踏まず、安全線へ入った。
オルトは続けて術を使わない。
「金翼班、上空点呼! 銀翼班、索回収! 鉄翼班、受け台固定! 医務班、本人確認!」
役割を分ける。
今は一つにした後、また複数へ戻す。
剥離板は第六区画の風を受け、学院の下を通過した。
雲海へ落ちる前に、救難艇の曳索が三本掛かる。完全には止められない。王都下面へ当たらない方向へずらす。
人を救い終えたからといって、危機が終わるとは限らない。
救難で最も見落とされやすいのは、最後の一人を数えた後に残る、名前のない巨大物である。壁、船、火、煙、水。人間の点呼へ返事をしないものほど、次の場所で多くの人を巻き込む。
エリアが空中へ三本の落下予測線を描いた。
「左へ流せば、下面住宅の給水管。中央は発着桟橋。右は雲海へ落とせるけれど、定期貨物路と交差する」
「貨物路を止めろ」とオルト。
「学院に空域封鎖権はありません」とティア。
命令ではなく、権限情報を出す。
「港務へ要請」
オルトが風管を取る。
「学院外壁事故。右落下路の貨物を七分停止要請。剥離板一、推定質量四百二十。学院が誘導責任を持つ」
返答まで三息。
その三息に、板は十二歩落ちる。
『停止承認。七分。延長は再要請』
「期限、受領。右へ流す。エリア、線を共有」
「港務灯へ送る。赤線が板、青線が曳索、白線が安全境界」
彼女の地図線が、学院だけでなく遠くの桟橋灯へ渡る。すべてを自分で操る線ではない。向こうの港務員が、自分の空を自分で閉じるための情報だった。
「板右端を三十歩押す必要」とロロ。「曳索三本じゃ角度が足りねえ」
「曳索、一本見当たらない!」と救難員。
ドランが在庫板を見る。
「七本出庫。射出三、医務二、桟橋一。残り一は――食堂返却路の臨時固定へ貸出中!」
「取りに行ける?」
「距離二百。間に合わない」
彼は白手袋を外し、腰の私物袋を開いた。
下面区の猫へ餌を運ぶための細索が入っている。
「耐荷重が足りない」とロロ。
「三本束ねれば」
「長さが」
「食堂の配膳索とつなぐ。私が昨日、交換費を立て替えた。領収光で位置を追える」
ドランの指から金色の細い線が走る。
自分が支払った物資だけを追う領収光〈レシート・トレイル〉。
線は食堂下層へ伸びる。
「そこ!」
学生たちが配膳索を外し、窓から下ろす。
ロロが三本を束ねる。
「猫の紐、使うぞ!」
「正式には個体管理索だ!」
「どうでもいい、結べ!」
最後の曳索が板へ掛かる。
巨大な石板は王都を避け、雲海の外れへ落ちた。
白い雲が山のように跳ねる。
遅れて、低い轟音が学院へ届く。
静かになった。
静かになったからこそ、痛みの声が聞こえた。
擦過傷。脱水。過呼吸。裂けた翼膜。装具継手の損傷。恐怖で指が開かない者。救助後に初めて泣き出す者。
全員生存は、全員無傷という意味ではない。
無傷でないことは、救難失敗という意味でもない。
ティアは反射的に医務班の配置を指示しかけ、灰色の章へ触れた。
「グレン教官、北側――」
北という言葉にハルの胃がひっくり返りかけるのを見て、言い直す。
「鐘塔側に呼吸困難二。床線側に翼膜裂傷三。これは命令ではなく報告です」
「受領。医務班、鐘塔側へ二、床線側へ三。ティア、おまえは座れ」
「私は歩けます」
「歩けるかではない。右膝、震え幅三指。自己申告」
ティアは一度だけ直立を強くした。
強く立つほど、古傷を隠していると分かる身体だった。
「痛み五。荷重で増加。支持帯を要請します」
「採用。誰へ触れられてよい」
「右腰は避け、左腕を」
救難生が確認してから肩を貸す。
ティアは借りた。
解除した規則の最初の成果は、空を飛べたことだけではない。
助けられる側が、助け方を言えたことだった。
ハルは受け台へ仰向けになっていた。
空が回る。
身体はもう止まっているのに、耳だけが落ち続ける。
「吐く?」とマオ。
「たぶん」
「横向ける?」
「右」
「肩へ触る。いい?」
「いい」
マオと医務員が身体を右へ向ける。
ハルは何も吐かなかった。代わりに、笑いが出た。
「何」とマオ。
「全員、生きてる」
「笑うとこ?」
「分からない」
エリアが降りてくる。
地図線を消した足は震え、左肺の呼吸は浅い。
「勝手に動いた」と彼女。
「道、描いてくれた」
「動かない約束を破った」
「期限の話」
「期限を決めていない」
「じゃあ俺が悪い」
「素直だと怒りにくいでしょう!」
エリアの右手が上がる。
口元を隠すのではなく、ハルの額へ触れようとして止まる。
「触っていい?」
「額なら」
指が触れる。
熱を確認し、すぐ離れる。
「生きている」
「さっき報告した」
「自分で確かめたかった」
ティアは少し離れた場所で、灰色になった隊長章を外した。
左手で持ち、リディアへ差し出す。
「規則救難資格、失効を確認しました。風紀隊長権限を返上します」
「預かります」とリディア。
「返してほしいとは言いません」
「再審査を受ける権利はあります」
「それは後で選びます」
ハルが身体を起こす。
「助かった。ありがとう」
ティアは彼を見る。
「解除は、あなた一人のためではありません」
「知ってる。だから全員分」
「一人で全員分を言わないでください」
マオが横から言う。
「私はありがとう」
「ケルン生――」
「受け取るか断るか、先に決めるな」
ティアは口を閉じる。
「……受け取ります」
風紀隊長ではない少女が、初めて礼を受け取った。
ドランが合否台帳を持って来た。
紙は水と白石粉で汚れている。
「全受験結果、事故により未判定。凪野は初回の不合格判定が残る」
「全員助けても?」とハル。
「救助は記録する。試験の合格とは別だ」
「善行で違反を消さない」
「そうだ」
「違反じゃないけど、遅刻を消さない」
「異議審査は明日」
ティアが言った。
「私が証言します」
「もう隊長じゃない」とハル。
「だから、責任者としてではなく、規則を作り、解除した当事者として」
翼具を切り離した鉄翼生が、医務艇の窓から雲海を見ていた。
「爪部は」
ロロは答えを急がなかった。
取り戻すと言えば慰めになる。沈んだ場所も分からない物へ「必ず」は、次の失望を先払いする言葉になる。
「落下板に残った。板の着水標を付けた。回収艇を出せるか、港務と相談する」
「戻る?」
「分からねえ。戻らなかった場合、同型を作る。使い癖まで同じにはならない」
少年は唇を噛む。
「金がない」
ティアが灰色の章を持たない胸へ手を置きかけ、やめた。
「試験中の救難で失われた装具です。学院補償の対象として申請します」
「申請だけ?」
「決裁権はありません。ですが、事故記録、本人証言、救難映像を添えます。却下された場合は、却下理由を公開審査へ出すよう要請します」
「前なら、払うって言った?」とハル。
「前なら、私の権限で代替装具を手配したでしょう」
「今はしない?」
「今も、今日歩くための仮装具は手配します。生活を止めない応急と、誰が恒久費用を負うかは別です」
ロロが少年へ工具帯を向ける。
「仮爪の形、選べ。元と同じ、軽い、固定強い。痛む位置も言え」
「元と同じがいい」
「同じに近づける。完全に同じとは言わねえ」
救助とは、落ちている一瞬だけを空中で掴むことではない。
明日、同じ人が自分の脚で扉まで行けるようにするところまで含めるなら、救難は事故現場から生活へ長く伸びる。
全員は生きて帰った。
壁の外にいた受験生は、まだ学院の内側へ入れていない。
救難は終わった。
合否は、規則の上でなお止まっていた。