第45話 第十一章「規則を止める者」前編
裁判は過去を決める。
会議は未来を決める。
もっとも、これは建前である。
過去を決めたつもりの裁判が百年後の身分を作り、未来を決めるはずの会議が昨日の責任を誰へ置くかで一日を使い切る。人間は時間を三つに分けたが、制度はそれほど行儀よく分かれてくれない。
王立星航学院〈アルカ・ノア〉の公開審査は、事故の翌々日、第一講堂で開かれた。
議題は三つ。
外壁試験の有効性。
救難中に解除された規則の責任。
そして、門の外にいる受験生を、これからどう扱うか。
三つと告示された議題は、開始前に四つへ増えた。
「入れない」
第一講堂の入口で、マオが言った。
扉までは七段の階段だった。
左右に手すりはある。中央には赤い絨毯。式典用の幅広い扉。車輪も装具も通せる大きさはあるのに、そこへ至る斜面がない。
係員が慌てて降りてくる。
「裏の搬入口へご案内します」
「公開審査なのに、公開されてない入口から?」
「では、お運びします」
「先に聞け」
係員の手が止まる。
「何を希望されますか」
「今ここを通る。自分の脚と装具で。審査が終わった後に直すんじゃなくて、審査が始まる前に」
「開始鐘まで十二分しかありません」
「遅れたら失格?」
階段の上で、ティアが止まった。
灰銀の短髪。深紅の細い編み込み。胸にあった風紀隊長章はなく、右膝には制服の上から黒い支持帯を巻いている。
昨日までの彼女なら、裏口を正式な代替経路として記録し、開始時刻を守っただろう。
裏口が使えることと、正面を使えないことは、帳簿の上では同時に成立する。だから帳簿だけ見れば困難は解消される。本人が「同じ場へ入った」という一点にだけ注目すれば。
「開始鐘を延期します」とティア。
係員が目を見開く。
「しかし、審査規則では――」
「私に審査開始を変更する権限はありません」
「では」
「変更を要請します。理由は、参加者が会場へ到達していないため」
講堂内から理事の声が飛んだ。
「ケルン生は到着しているだろう。階段下に」
「それを到着と呼ぶかどうかが、本日の議題です」
ティアは条文を盾にしなかった。
条文を捨てもしなかった。
誰に、何を、なぜ求めるかを言った。
「開始を十五分延期します」
リディアの低い声が講堂から届く。
「失敗してよい範囲を先に作りなさい。十五分で仮設できなければ、さらに延期します」
「学院長、審査対象である学院側が――」
「ですから時刻変更は議事録へ残し、異議を受けます。さて、誰が作りますか」
「請求先が決まるなら俺」とロロ。
黄色い作業上着の補助腕が四本、同時に上がった。
事故で外れた外壁の薄い保守板を二枚、機関科から運んでくる。板は本来、水平な足場だった。片端を階段上へ、片端を地面へ置けば斜面になる。ただし、そのままでは中央がたわむ。
「支柱!」
「何本」とハル。
「三本! 太麺二、短い揚げ輪一!」
「食べ物じゃなくて形で言え!」
「俺の工具に俺が付けた名前だ!」
「初対面の係員に通じない!」
「じゃあおまえが翻訳しろ!」
ハルは保守板を抱えた。左肩は固定帯が外れたばかりで、上まで持ち上がらない。
「右で持つ。左は支えだけ」
エリアが手を出しかけ、止める。
「反対側を持っていい?」
「お願い」
短いやりとりで、板の重さが二人へ分かれた。
ドランは白手袋の片方を外し、階段幅を測る。
「この角度では銀翼車輪が横滑りする。右へ三指」
「見えるのか」とロロ。
「床の継ぎ目は見える!」
「文字は?」
「今は床の話だ!」
オルトは講堂の椅子を五脚、出口から退ける。
「作業者六、通行者一。見物人、線の外。復唱」
「見物人、線の外!」
ティアは工具を取ろうとした。
マオが言う。
「膝、何」
「痛み三。固定済み。短時間の荷重は可能です」
「何をする」
「上端のずれ止め」
「採用。右膝を曲げない位置」
許可を与える立場と、許可される立場が入れ替わる。
入れ替わったから復讐になるのではない。条件を言い合えるなら、役割が変わっても仕事になる。
十二分後、仮設斜路ができた。
マオは板へ右足を置き、左装具の爪を浅くする。一段目に相当する角度で止まり、足裏を測った。
「中央、沈み二指」
「支柱一本追加」とロロ。
「私が先に試す」
「荷重が軽い」とドラン。「私は六十四キロだ。装具と同程度の試験荷重になる」
「体重を公開する貴族、初めて見た」とハル。
「会計に必要なら公開する!」
「眼鏡も会計に必要じゃない?」
「議題を増やすな!」
ドランが斜路を上り、下りる。
次にマオが上った。
講堂へ入った時、開始鐘はまだ鳴っていなかった。
審査前に増えた四つ目の議題は、斜路を正式設備へするかどうかではない。
問題をいつ直すか、だった。
第一講堂は、もともと飛行式典のために作られている。
天井は高く、二階席は翼で直接出入りできる。床席は半円形に下がり、中央の証言台だけが一段高い。
「また段差」とマオ。
「今度は一段」とハル。
「段数の問題じゃない」
証言台は外され、床と同じ高さへ置かれた。
壇を下ろすのに三分。
権威は三分で低くできた。権威そのものがなくなったわけではない。
傍聴席には受験生、保護者、学院生、下面区の工房主、上層の家令、新聞記者が詰めかけていた。剥離した外壁を見た者ほど声が大きく、見ていない者ほど結論が早い。
「試験を中止したから事故が起きた」
「違う、試験を続けたからだ」
「飛ばせばよかった」
「飛ぶ者だけに戻す気か」
「隊長が英雄的に解除した」
「英雄にするな。最初に禁止したのも彼女だ」
正しい断片は、集めただけでは正しい全体にならない。
欠けた皿を同じ箱へ入れても、勝手に食器へ戻らないのと同じである。
リディアは中央席へ座らず、半円の端に立った。
「本日の審査は学院長裁定ではありません。教官三名、学生代表三名、工房・医務・保護者の各代表一名で仮決定を作り、公開異議を受けます。私は学院の責任者として資料提出と安全停止だけを行います」
「学院長が逃げるのですか」と二階席。
「逃げないために、一人で決めません」
声は低く、広間の奥まで届いた。
ティアは証言台の左端へ座る。机の端と紙の端を合わせ、右膝を隠さず前へ出した。双規刃アレイオンは封印布へ包み、椅子の下へ置いている。
灰色の隊長章をリディアが机へ載せた。
「グランツ生。資格停止の経過を」
「第三鐘後一分四十二秒、私の一時規則を全域解除。同時に、規則救難資格と風紀隊長権限が失効しました。章は返上済みです」
二階席から拍手が起きた。
ティアは左手を上げた。
「拍手をやめてください」
音がばらばらに止まる。
「私は権限を失う選択によって人命を守りました。同時に、私が設定した規則が救難を妨げ、荷重集中の一因となりました。前半だけを称賛すれば、後半が消えます。後半だけを非難すれば、解除判断を次の者が恐れます。どちらも記録してください」
「隊長復帰を希望しますか」
「希望しません」
即答だった。
感情的になるほど一語ずつ区切る彼女が、区切る必要もないほど決めていた。
「処分を受け入れるという意味ですか」
「処分と役職は別です。処分は審査を受けます。役職は、私が正しい行動を一度した褒賞として返されるべきではありません」
ハルは小声でエリアへ聞いた。
「正しいことしたら戻してもよくない?」
「正しいことをした人が、同じ役職に最適とは限らないわ」
「難しい」
「簡単に言えば、謝れる船長と操船できる船長は別」
「両方ほしい」
「だから制度にするの」
ティアの耳後ろの編み込みが、指で一度だけ直された。
「第一条。私は、全員へ同じ条件を課せば公平になると判断しました」
彼女は自分の言葉を、自分の前へ置いた。
「第二条。その判断は誤りでした。同じ開始時刻。同じ禁止。同じ鐘。同じ処分。字面は同じでも、身体、装具、経路、受付時間が違えば負担は違う。名目上は同じだが負担が違う規則〈レベル・トラップ〉を、私は公平と呼びました」
「その語は誰が作った」と理事席。
「昨日、ケルン生が私の報告書の余白へ書きました」
マオが白墨の端を噛みかけ、やめる。
「難語にしたのはそっち。私は『平らって書いてある落とし穴』って書いた」
「それを報告書の語へ直しました」
「直す前に聞け」
「今、異議を受けました。併記します」
講堂の空気が、わずかに緩む。
笑いは問題を軽くすることがある。問題を話し続けられる重さへ調整することもある。
最初の資料は、エリアの地図だった。
講堂中央へ四枚の透明板を重ねる。
一枚目に、身体が外門を通過した時刻。
二枚目に、受付処理が完了した時刻。
三枚目に、身体が内門の青線へ触れた時刻。
四枚目に、内門受付が結果を記録した時刻。
「過去の試験記録は、第一と第三を残していません」とエリア。
「到着時刻として保存されるのは、第四のみ。したがって、門へ着いた後の待ち時間も、受験生の移動時間として扱われます」
淡緑の線が空中へ伸びた。
金翼の線は短く、ほぼ直線。
銀翼は風門で曲がる。
鉄翼は外壁縁を大きく回り、装具検査で線が止まる。
ハルの線は、外門前で十三分四十六秒、文字どおり動かなかった。
「到着してるのに到着してない」とハル。
「正確には、身体は到達しているが、行政上の到着が成立していない」
「長くしただけ」
「長くしたから分けられるの」
「でも門は分けてない」
「だから問題なのよ」
エリアは二本の線へ名前を付けた。
「境界通過と、処理完了。今後は別時計で記録します」
理事の一人が手を上げる。
「受付が遅れても、早く来ればよい。社会では余裕を持つのも能力だ」
ハルが答えようとしたが、エリアが先に地図板を回した。
「検査時間は事前に公開されていません。金翼の平均二十九秒、鉄翼の平均三分十一秒、無登録は十二分十一秒。必要な余裕が分類によって異なるのに、同じ十五分前を案内しています」
「ならば全員、一時間前に来させれば」
「門は開場前に待機できる場所を、金翼桟橋にしか設けていません」とマオ。「鉄翼路地から一時間前に来たら、雨除けなしで装具を冷やす。私の股関節は冷えるほど動かなくなる。余裕を増やすほど遅くなる人間もいる」
「個別事情を無限に考慮することはできない」
「無限じゃない」とハル。「今ここにいる人の分から始めればいい」
「制度は一人ずつ作れない」
「一人用を四十七個作れって言ってない。最初から一種類しかないのを、何種類かにしろって言ってる」
「何種類なら公平だ」
ハルは口を開き、閉じた。
「分からない」
傍聴席がざわめく。
「分からないのか」と理事。
「分からないから、知ってる人に聞く。俺一人が決める方が危ない」
答えられないことを隠さなかった。
無知を告白しただけでは制度は変わらない。しかし、無知を権限で隠さないことは、変えるための入口にはなる。
ドランが次の資料を置いた。
五年分の失格時刻を、翼章別に並べた表。
金翼の失格は広く散り、寝坊、道迷い、装備不良など理由も散っている。鉄翼と無登録は第四鐘の前後へ針の山を作っていた。
「同じ失敗なら、時刻も原因も散る」とドラン。「だが鉄翼の失格十二件中十一件が四十秒内に集中した年がある。翌年も似た集中。個人の怠慢が、毎年同じ秒へ集合する確率は低い」
「数字だけで差別と決めるのか」
「決めない。数字は誰も侮辱しない代わりに、誰も救わない。何を公平とするかは人間が決める。ただし、決める前に数字を消すな」
ドランは白手袋の縫い目を数えず、正面を見た。
「私は以前、金翼の通過率を努力の証明だと思っていた。金翼は訓練費も装備費も多く、家の教育も受けている。だから速い。速いこと自体は事実だ。だが、速い者の経路を唯一の経路にしてから、その経路で遅い者を努力不足と呼べば、勘定が二重になる」
「侯爵家の嫡男が階級制度を否定するのか」と上層席。
「階級を否定する議題ではない。試験費用の使途を監査している」
「逃げたな」とハル。
「会計の言葉で戦っている!」
「でも今の、ちょっと格好よかった」
「聞こえる声で言うな!」
ドランの耳が赤くなった。