第47話 第十二章「仮入学、期限つき」前編

学校へ入った日を、人は入学式で覚える。

 校門をくぐった瞬間。

 名を呼ばれた瞬間。

 制服へ袖を通した瞬間。

 しかし実際に、そこが自分の生活になるのは、もっと小さな時である。

 食堂の水がどこにあるか分かった時。

 廊下で迷い、誰へ聞けばよいか分かった時。

 自分の机へ置いた物を、翌朝も同じ場所で見つけた時。

 国家は所属を印で決める。

 人間は所属を反復で覚える。

 公開審査の採決は、満場一致ではなかった。

 賛成六、反対二、保留一。

 保留票を投じた教官は、「三十日では事故傾向を測るには短い」と理由を記した。反対票の一人は複数経路が資格価値を損なうと主張し、もう一人は予算の根拠が不十分だとした。

 反対は議事録から消されなかった。

 賛成した者の名だけを残せば、制度は最初から正しかったように見える。最初から正しかった制度ほど、後で間違いを認めにくい。

 翌朝、学院中央広場の掲示板へ、三枚の大きな紙が貼られた。

『外壁試験 結果無効』

『受験者選択手続』

『期限付き仮入学者名簿』

 難しい規則文の横には、マオの字で平易文が並んでいる。

『今回の合否は使いません』

『学校へ通いながら受け直す、外から受け直す、受けるのをやめてお金を返してもらう――三つから選べます』

『困ったら、誰へ何を聞けばいいか下に書いてあります』

 最後の一文は、当初の案になかった。

「『相談窓口へ』だけじゃ相談できない」とマオが書き足したのだ。「窓口がどこか、誰がいるか、何を持っていくか。聞くための入口まで書け」

 窓口の場所は、鐘塔の絵と青い床線で示された。

 北棟、南棟という表示は残したまま、その横へ食堂、工房、鐘塔、外壁の絵が追加された。

 ハルは北の記号を見た瞬間、耳の奥が傾いた。

 視界が右へ流れる。

「見なくていい」とエリア。

「消さないで」

「でも」

「俺以外には要る。上から紙をかぶせて。自分で開けられるやつ」

 エリアは濃紺の小さな紙扉を作り、北記号の上へ貼った。

 閉じれば鐘塔の絵だけ見える。開けば方角記号も読める。

「選択式」とハル。

「暫定よ。あなたの症状が治るまで」

「治らなかったら?」

「暫定を見直す」

「ずっと暫定?」

「世界で一番長く続く制度は、見直されない暫定かもしれないわ」

「怖いこと言うな」

「だから期限を書くの」

 紙扉の裏に、エリアは小さく日付を書いた。

 三十日後。

 期限付き仮入学を選んだ受験生は、四十七人中三十一人だった。

 外から再試験を選んだ者が十人。

 辞退して返還を求めた者が六人。

 学院は、辞退を敗北として発表しなかった。

 戻らない選択も、選択として同じ大きさで名簿へ載せた。名は本人が公開を望んだ場合だけ記す。

 名簿の隣には、改訂委員自身の参加条件も掲示された。

 最上段に、ティアの字がある。

『右膝靱帯旧損傷。連続立位二十分で休止。長時間着地訓練は支持帯を使用。階段会場では着席位置を本人と確認』

 家は完治と公表している。学院でも、彼女は痛みを規律で押さえ、直立を能力のように見せてきた。自分の身体条件を公示すれば、家門の発表が誤りだったことまで明らかになる。

 窓口係は声を落とした。

「委員の内部資料に留めることもできます」

「なぜですか」

「ご家族への影響が」

「私の膝を、家族の体面で曲げないでください」

「しかし、公開すると配慮を求める象徴として――」

 マオが横から言う。

「象徴にするかは、見る側の問題。本人が仕事に必要な条件を書いてるだけ」

 ティアは一度、彼女を見る。

「ありがとうございます」

「礼だけで終わるな。『連続立位二十分』、寒い日は?」

「十五分」

「痛みが出たら?」

「五以上で中止を申告」

「申告しなかったら」

「同席委員が歩幅と震えを確認し、中止を提案できます。ただし、身体へ触れる前に確認する」

「提案を断れる?」

「医務上の停止線までは。越えた場合は医務員が止めます」

 マオは掲示を読み、白墨で一語だけ加えた。

『寒冷時十五分』

「これでいい」

 ティアは自分の弱点を、告白としてではなく運用条件として置いた。

 傷を見せるだけなら勇気で終わる。誰が、いつ、どう止めるかまで書けば、次の人が使える仕組みになる。

 マオは仮札を受け取る時、窓口係へ聞いた。

「これ、装具使用の注意が裏に小さく書いてある」

「一般的な安全文です」

「一般的なら表へ」

「欄が足りません」

「札を大きくする」

「規格が」

 窓口係はそこで止まり、深呼吸した。

「希望する大きさは?」

「私の希望だけで決めるな。手が小さい人、読字が苦手な人、視野が狭い人にも試させる」

「委員会へ提出します」

「提出番号は」

「今、発行します」

 マオはようやく札を受け取った。

 長方形の白い板。翼ではない。中央に名前、下に期限、右端に本人が選んだ補助条件を記す空欄がある。

 ハルの札には、最初にこう書かれた。

『方角記号の代替表示可』

『左肩への無断接触不可』

『長時間の回転訓練は医務確認』

「俺、注意書き多くない?」

「昨日まで書いてなかっただけ」とマオ。

「弱そうに見える」

「実際、左肩弱い」

「言い方」

「強そうに書けば肩が治る?」

「治らない」

「じゃあ正確に書け」

 ハルは札を裏返した。

 裏には自分で記入する欄がある。

『できること』

 彼は字を書くのに時間をかけた。

『走る』

『縄』

『道をきく』

 最後の一つで、エリアの地図針が止まった。

「『聞く』の送り仮名が違う」と彼女。

「意味は分かる?」

「分かる」

「じゃあ後で直す」

「今、直した方が覚えるわ」

「俺がどこを間違えたか探す」

「時間がかかる」

「俺の字だから」

 エリアは答えを言いかけ、口を閉じた。

「一つだけ手掛かり。耳で聞く方と同じ字よ」

「今、耳で聞いた」

「言葉遊びをして逃げないで」

 ハルは二文字を見比べ、やがて直した。

 エリアは紙へ手を出さなかった。

 教えないことは、見捨てることではない。相手が試せる場所まで引き、そこで待つことも教育だった。

 仮入学者の最初の授業は、礼法でも航法でもなかった。

 校内を一周し、戻ってくること。

「俺だけ落とすための授業?」とハル。

「全員対象です」とティア。

 彼女は風紀隊長の制服を着ていない。

 同じ白と深紅でも、胸章の位置には細長い紙札がある。

『外壁試験改訂委員・第一期』

『任期 七日』

 七日後には別の委員へ交代する。継続を望むなら再選ではなく、まず活動記録を公開する。

「第一条さん、隊長じゃなくなったのに第一条は残るんだ」とマオ。

「思考の順序です。役職ではありません」

「じゃあ第二条から考えたら?」

「第一条。順序の変更は、理由を示せば可能です」

「第一条を守ってる」

「これは例示です」

「例示で自分を正当化するな」とハル。

 ティアの右眉が上がる。

「凪野生。仮入学初日に委員へ挑発する必要はありますか」

「ハルでいいって昨日」

 一瞬、ティアの編み込みが耳へ掛け直された。

「……授業中は凪野生です」

「期限付き?」

「見直し可能です」

 校内一周には三つの経路が用意された。

 階段と広い廊下を使う歩行路。

 吹き抜けを滑空する翼路。

 低い保守通路と昇降板を使う装具路。

 どれを選んでも、途中の医務室、食堂、工房、避難鐘の位置を確認し、最後に一つ荷物を運ぶ。速さは経路ごとに別時計で測る。経路変更は自由だが、理由を口頭か札で残す。

「何を運ぶ」とハル。

 オルトが三つの箱を置いた。

「水、工具、包帯。班で一つ選べ。重さは違う。目的地も違う」

「同じじゃない」と金翼生。

「同じ能力を測らない。共通項目は、選択理由、目的地確認、途中点呼、荷物状態、帰還報告」

「競争にならない」

「競争項目は別にある。最速だけが総合順位ではない」

「総合」とマオ。

 オルトの右眼が細くなる。

「今の総合は、内訳を示す」

「なら許す」

「許可を求めていない」

「異議を受けるって言った」

「受けた。採用は別だ」

 二人の会話には、敵意と信頼が同じ速度で走っていた。

 ハル、マオ、ロロは工具箱を選んだ。

「水じゃないの?」とハル。

「工房の昇降板が昨日から引っ掛かる」とロロ。「工具を届けりゃ帰り道が直る」

「課題の答え知ってるの、ずるくない?」

「俺が壊れた音を聞いた。知ってることを知らないふりする方がずるい」

 エリアは監督線の外から言う。

「ただし、故障を自分で作っていたら不正よ」

「疑い方が具体的すぎる!」

 三人は装具路へ入った。

 ハルは歩行路でも走れたが、低い通路には壁の傷と油の匂いがある。一度通れば覚えやすい。マオは自分の装具に合う高さを選ぶ。ロロは工具箱の重さを「朝飯二人前」と表現し、誰にも通じない。

 最初の角で、音声案内が鳴った。

『次の分岐を北へ』

 ハルの足が止まる。

 耳の奥が回った。

 壁の縁が上下へ揺れる。

「ハル」とマオ。「どこに触っていい」

「右腕。壁へ向けて」

 マオが右前腕を取り、低い手すりへ置く。

 ロロは案内箱を開けようとした。

「止める」

「壊すな」とハル。

「止めるだけ!」

 音が消える。

「鐘塔の絵がない」とマオ。

「仮設札、入口だけだった」とハル。

「試験中止か」とオルトの声が風管から届く。

 ハルは吐き気が引くのを待った。

「班は続けられる。案内だけ直して」

「本人、継続希望。症状、何」

「吐き気三。立てる。回転感は下がってる」

「医務確認まで速度評価を停止。経路確認だけ継続」

 時計の青い針が止まった。

 ハルだけを止めず、評価だけを止める。

 エリアが別の風管から言う。

「次の分岐は、鐘塔の低い音が聞こえる方。床の青い三角を二つ越えて右」

「一つずつ」

「青い三角を二つ」

「分かった」

 三人は進んだ。

 途中、昇降板の前で鉄翼生の班と重なる。以前なら同じ狭路で順位を争った。今は荷物の目的地が違う。

「先に行く?」とハル。

「工具箱が重いなら、こっちが板を押さえる」と鉄翼生。

「その分、そっちの時間が遅れる」

「補助記録へ書く。帰りに包帯箱を持ってくれ」

「交換?」

「共同」

 マオが聞く。

「板へ手を置いていい?」

「右端。左は爪が出る」

 四人で昇降板を固定する。

 誰かの補助が、誰かの失点ではなく記録になる。

 工房へ工具箱を届けると、ロロはその場で昇降板の引っ掛かりを直そうとした。

「授業中」とティア。

「帰り道が壊れてる!」

「修理を課題へ追加するなら、時間と安全確認を」

「三分、機関停止、ハルが工具渡し、マオが傾斜確認。失敗したら別路で帰る」

「誰が監督しますか」

「おまえ」

「要請の形で」

「ティア、監督してくれ」

 名前で呼ばれ、ティアは一拍遅れた。

「受けます」

 ロロが床板を開ける。

 ハルは工具名を形へ翻訳する。

 マオは足裏で傾斜を測る。

 ティアは三分の砂時計を返し、終了条件を声にする。

 二分四十息で、昇降板は動いた。

「成功」とハル。

「仮修理」とロロ。「成功って言うと、次の点検を忘れる」

 ティアが記録へ書く。

『仮修理。七日以内に内軸点検』

 期限は、完成していないことを恥にする印ではない。

 次に触る者へ、どこまで信じてよいか伝える印だった。

 昼の食堂では、入口の翼章別札が外されていた。

 完全な改装は間に合わないため、三つの入口は残っている。ただし金翼口、銀翼口、鉄翼口ではなく、段差なし、短距離、混雑少の表示へ変わった。

「短距離口に階段ある」とハル。

「飛行者には短距離」とエリア。

「また誰にとって近いか」

「暫定札へ異議を出すわ」

「食べる前に?」

「食べてから。空腹で制度を直すと、全ての基準が食堂へ近くなる」

 その日、同じ温度の豆煮が三つの入口へ同時に届いた。

 配膳経路は、ハルたちが前日に作った臨時線をもとに組み直されている。

 ティアは最安の下面定食を選び、香辛料壺を持った。

「四振り」とマオ。

「これまでは四振りでした」

「毎回むせる」

「個人の嗜好です」

「身体の記録を無視する規則」

 ティアは壺を見た。

 迷うと剣の目盛りをなぞる癖があるが、双剣は持っていない。代わりに壺の穴を親指で一つずつ数えた。

「三振りへ改訂します」

「大改革」とハル。

「嘲笑しないでください」

 三振り。

 ティアは一口食べ、盛大にむせた。

「多い」とマオ。

「次回、二振りを試行します」

「今、水飲め」とオルト。

「はい」

 彼女は水を飲んだ。

 意地で食べ続けることを責任とは呼ばなかった。

 ドランは食堂の隅で、下面区の猫へ餌を運ぶ申請書を書いている。

「猫、学院に入れるの?」とハル。

「入れない。食堂廃棄を衛生処理した上で外へ運ぶ」

「名前は?」

「グランデ侯爵、グランデ公、グランデ初代――」

「家の人に怒られない?」

「猫の方が礼節を知っている」

 ロロが伝票を見る。

「餌代、高くねえ?」

「保存缶の保証金を含む」

「缶は返す?」

「返却で二ルク戻る」

「じゃあ台帳に戻り入れろ」

「言われなくても!」

 二人は同じ紙を挟み、左右から数字を書き始めた。

 学院の日常は、大事件の後も腹が減る。

 腹が減るから、大事件の反省は食堂の値札や入口へ降りてくる。

 歴史は碑文だけでなく、温かい昼食が誰へ同時に届いたかにも残る。