第48話 第十二章「仮入学、期限つき」後編
午後、ハルは寮の鍵を受け取った。
仮入学生用の部屋は、機関科寮の三階、工房に近い一室だった。
正式入学者が優先されるため、三十日後に移動する可能性がある。家具はベッド、机、衣装箱、洗面器。壁の一部には古い船板が使われ、風が強いと低く鳴る。
「家賃は」とハル。
「仮入学期間は受験補償へ含みます」と窓口係。
「無料?」
「学院事故による滞在費です」
「働いて返す?」
「返済義務はありません」
ハルは落ち着かない顔をした。
エリアが言う。
「賠償を労働で返したら、事故を起こした側が得をするでしょう」
「でも、何もしないのは」
「部屋を使い、問題があれば報告する。それが今の役割よ」
ロロが壁を叩く。
「隙間風、二か所。報告したら俺の仕事になる」
「修理代は学院へ」
「分かってきたな」
ハルの荷物は少ない。
赤いマフラー。
配達鞄。
針のない羅針盤。
地球の安い腕時計。
借りた濃紺の短上着。
王都外縁で拾った白い端石。
衣装箱の半分も埋まらない。
ノクスが空いた半分へ入り、丸くなる。
「そこ、おまえの部屋じゃない」
「ノゥ」
「本人が選んだ」とマオ。
「俺の箱」
「先に聞け」
「ノクス、入る?」
「ノゥ」
「今の肯定?」
エリア、ロロ、マオが別々に訳した。
「肯定よ」
「所有宣言」
「聞くのが遅い」
ノクスは全員を順番に噛もうとし、最も近いハルだけ噛んだ。
机の上へ仮入学札を置く。
翌朝もここにあれば、少しだけ自分の場所になる。
ハルは配達鞄から、折れていない紙を一枚出した。
学院の申請用紙の裏である。表には『異界出生者・保証人欄』があり、保証人の住所を三行で書くよう求めている。地球の住所を書いても、今の郵便では届かない。空欄へすれば、母がいないことになる。
ハルは表を伏せ、裏へ書いた。
『母さんへ』
一行目から止まる。
『元気です』と書けば、左肩も耳鳴りも隠すことになる。
『大変です』と書けば、何もできず待つ人へ重さだけ送る。
『必ず帰る』は書けない。父が置いていった言葉と同じ形をしている。
ノクスが衣装箱から出て、紙の端を嗅いだ。約束の匂いを探す獣は、まだ何も書かれていない場所に鼻を置く。
ハルは書き直した。
『左肩は治りかけ。方向はまだ分からない。今日は学校へ入った。正式じゃなくて、三十日だけの仮入学。三十日後にもう一回試験がある。帰る方法を探してる。分からないことは分からないままにしない。危ない時は、前より少しだけ人に頼む。』
ここまで書いて、最後を迷う。
『待っていて』とは書かない。
『待たないで』も、相手の時間を勝手に決める。
母ならどう書くかを考えた。
帰れない時に理由を説明し、次にすることを言う人だった。
『明日は学院の授業へ出る。夜はゼロスターの修理を手伝う。帰る道が見つかったら、その時に連絡する。母さんも店を開けて、食べて、寝てください。』
「命令っぽい」と自分で言う。
最後に一行加えた。
『俺も食べて寝る。』
手紙は送れない。
送れないから無意味なのではない。いつか道ができた時、当時の自分が何を約束せず、何を続けようとしたかを届けられる。
宛先欄に、地球の住所を書く。
神奈川県凪浜市。古い商店街と丘の境。配送店の二階。
アステリアの字ではない。日本の字だ。
ハルは紙を配達鞄へ入れ、なくし物を戻す時の癖で、一度だけ机の中央へ置き直した。それから鞄の内ポケットへしまう。
「まだ届けられない荷物」とハル。
ノクスは紙を追わず、机の下へ座った。
破られた約束の匂いはしなかった。
夕方、ゼロスター号の工事が再開された。
船はまだ片帆である。
船腹の白、青、黒の補修板は揃っておらず、船名の最後のRは左右逆のままだった。
「直さないの?」とマオ。
「直すと二ルク」とハル。
「自分の間違いで稼ぐな」とエリア。
「異界文字の教育費だ」とロロ。
船内の固定椅子は五脚。
ハル、エリア、ロロ、ノクス、航行資格者または臨時乗員を数えると、すでに足りない。ノクスは椅子へ座らないが、一脚を荷物置きに使う権利だけは主張する。
ロロは壁へ細い枠を取り付けた。
引けば椅子になり、押せば壁へ戻る。座面の高さは三段階。背もたれは外せる。左右どちらからでも固定帯を通せる。
「船内の六番目の折畳席〈シックス・シート〉」とロロ。「客員席。誰が乗るか決まってねえから、誰にでも合わないように作った」
「普通、誰にでも合うようにじゃない?」とハル。
「誰にでも合うって言う椅子は、だいたい誰かが我慢してる。まず変えられるようにした」
マオが座る。
「一段下げる。左側の帯、二指前」
ロロが直す。
ティアが座る。
「背もたれ上端が右肩甲へ当たります」
ロロが削る。
ドランが座る。
「座面布が作業着用だ。礼装へ油が付く」
「座るな」
「客を選ぶな!」
エリアが座る。
「地図筒を置く場所がないわ」
「人が座る椅子だ!」
ハルが座ると、全員が見る。
「何」
「不具合」とロロ。
「少し高い」
「足、届くだろ」
「座れる。でも、すぐ立つ時に左肩で壁を押しそう」
「じゃあ右へ起立取っ手」
誰か一人へ完璧な椅子は作れない。
変えられる椅子なら、次に座る者が自分の不具合を言える。
「名前を書く?」とハル。
「書かない」とロロ。
「客員席なのに?」
「座ったやつが、自分の名前を一時札へ書く。降りる時に外す。椅子は誰の記念碑でもねえ」
ノクスが座面の下へ、どこからか盗んだ銀のスプーンを隠した。
「すでに物置」とエリア。
「ノゥ」
「本人は備蓄庫と言ってる」とハル。
「勝手に翻訳しないで」
客員席は、最初の日から汚れた。
新しい制度と同じである。使う前の美しさを守れば、誰も使えない。
日が落ちる前、エリアは船室の透明地図卓へ教本を広げた。
ハルの基礎文字授業。
ロロの綴り補習。
マオの規則文改稿。
三つを同じ机で行うのは、教師が一人しかいないからではない。別々に始めても、十分後には全員が他人の紙へ口を出すからだった。
「帰還」とエリアが書く。
「これは?」
「帰る」
「正確には、出発点または指定安全点へ戻ること」
「帰れない時は?」
「不達」
「別の場所へ戻ったら?」
「経路変更」
「戻りたい場所が二つあったら?」
エリアの筆が止まる。
地球。
アステリア。
どちらかを出発点にすれば、もう一方は寄港地になる。地図は一枚の中心を要求することがある。人間の生活は、中心を二つ持つことがある。
「教本にはないわ」
「じゃあ余白」
ハルは『帰還』の横へ、小さく二本の矢印を描いた。
向きは正確ではない。片方は紙の外へ出ている。
「矢印の起点が重なっていない」とエリア。
「離れてる場所から、同じ俺が帰る」
「地図としては――」
言いかけ、彼女は止めた。
「一つだけ手掛かり」とハル。
自分が教えられる側だった時の言葉を返す。
エリアは淡緑の地図針を取り、二つの起点の間へ点線を引いた。
「まだ測れない距離は、実線にしない」
「消さない?」
「測れていないと記録する」
ハルは頷いた。
ロロが隣で『蝶番』の綴りを三回間違え、最後に蝶の絵と板の絵を描いてつないだ。
「絵で通じる」と主張する。
「試験は文字」とエリア。
「機械は絵」
「両方書けば」とマオ。
マオは規則文の『合理的な範囲における必要かつ相当な補助』を全部線で消し、横へ書いた。
『できるか先に確かめ、本人と医務員で決める』
「短すぎる」とティア。
「長い方は下に残す。入口を上に」
「『本人と医務員』だけでは、機関安全の判断が抜けます」
「じゃあ『必要な担当』」
「誰が必要か曖昧です」
「具体例を付ける」
二人は紙の上で争い続けた。
以前の争いは、どちらの言葉が相手を止めるかだった。
今の争いは、誰がその言葉へ入れるかだった。
ハルは教本の端へ、今日覚えた字をもう一度書く。
『聞く』
今度は間違えなかった。
寮の帰館鐘は、夜九時だった。
ハルは八時四十分に船を出た。
学院の寮までは、普通に歩けば十二分。
「二十分ある」と言うと、エリアが三十秒考えた。
「送る」
「一人で帰れる」
「あなたの一人で帰れるは、到着地点を問わないでしょう」
「今日は聞く」
「誰に」
「迷った場所にいる人」
「いなかったら」
「鐘塔の音」
「風向きで反響が変わる」
「青い床線」
「途中で三本に分かれる」
「全部教えたら、俺が試せない」
エリアは三つ編みの地図針を触った。
不安を差し直すように、一度抜き、一度戻す。
「では、一つだけ。帰館鐘の前は、食堂から寮へ戻る生徒が多い」
「人を探す」
「ええ」
彼女はハルの赤いマフラーにある金針を見た。
「回収用の印は、まだ預けておく」
「三十日?」
「期限は決めない」
「見直せない」
「返す条件は決めてある。自分で戻る道を描けるようになったら」
「今日、聞いて戻ったら?」
「道の一部よ」
「厳しい先生」
「教えすぎる先生より改善したでしょう」
右手が口元へ上がる。
目が笑っている。
ハルは一人で船を降りた。
最初の分岐で、鐘塔の絵を選ぶ。
二つ目で間違え、医務棟へ着く。
戻ろうとして北記号を見かけ、紙扉を閉じる。
廊下にいた清掃員へ聞く。
「機関科寮、どっちですか」
「何階?」
「三階」
「青線を二つ越え、揚げパンの匂いがしたら左」
「揚げパン?」
「夜食庫」
「分かりやすい」
匂いを辿る。
途中でロロが工房から顔を出す。
「遅刻まで四分!」
「寮の入口どこ!」
「その上!」
「階段?」
「昇降籠! いま点検中!」
「じゃあ階段!」
「右膝悪いやつが下りてくる、ぶつかるな!」
ティアが階段をゆっくり下りてくる。
支持帯を隠していない。手すりの左側を使い、下りる者優先の仮札を自分で掲げている。
「凪野生、帰館まで三分」
「どいてとは言わない。追い越していい場所は?」
「次の踊り場。右側が広い」
「分かった」
踊り場で追い越す。
「ありがとう」
「受け取ります」
ハルは三階へ着いた。
自分の部屋を一度通り過ぎ、戻る。
鍵を差す。
帰館鐘の一息前、扉が開いた。
机の上には、朝置いた仮入学札がある。
衣装箱にはノクスがいる。
窓の外では、片帆のゼロスター号が桟橋灯に揺れている。
正式な所属ではない。
三十日後には、ここを出る可能性がある。
だから今日使わない理由にはならない。
「ただいま」
ノクスが片目を開ける。
「ノゥ」
誰へ言ったのか、自分でも分からない。
それでも、言葉は部屋へ残った。
同じ時刻、改訂委員室では、ティア、エリア、マオ、ドラン、ロロが旧試験資料の参照欄を確認していた。
到着時刻表。
外壁設計図。
休憩所配置。
受付処理規程。
同じ基準表が学院の食堂、配送、外壁試験へ流用された経緯を追ううち、一枚の古い目録票が出てきた。
『標準飛行経路算定根拠』
『参照 学院中央書庫・十三番書架』
「中央書庫の書架は十二まで」とエリア。
「増設記録はない」とティア。
「書き間違い」とドラン。
「十二と十三を間違える?」とマオ。
「番号転記ならあり得る」とティア。
ロロは紙を灯りへ透かした。
「後から一を足した傷じゃねえ。最初から十三。紙も印も当時物」
「では旧書式の名残かしら」とエリア。
「調べる」とティア。
「今夜?」とマオ。
ティアは壁の時計を見る。
改訂委員の活動時刻は、夜九時で終了する。
「明日です。任期規則を自分で破りません」
「成長した」とロロ。
「開始二日目で評価しないでください」
その時、窓の外で大きな羽音がした。
学院の伝書鳥ではない。
翼亀図書館の紋章を付けた、大型の伝書鳥だった。甲羅を模した帆布の郵袋を背負い、窓枠へ四本の爪を掛ける。
郵袋の宛名は、王立星航学院・試験制度改訂委員会。
差出人は、翼亀図書館。
ティアが封を開く。
文面は短い。
『貴院が公開した改訂資料の参照番号について、当館目録においても「十三番書架」への記録を確認しました。現存区画との照合ができません。関係資料の共同確認を求めます』
それ以上は書かれていない。
書架の中身も。
なぜ存在しないのかも。
学院と移動図書館の記録が、なぜ同じ番号を指すのかも。
ただ、ないはずの棚を、別の場所の紙も知っていた。
ティアは返書用紙を出し、第一行へ日付を書く。
マオが言う。
「難語にするな」
「共同確認を希望する、では不足ですか」
「誰が行くか、いつ返事するか」
ロロが補助腕を上げる。
「棚なら構造確認が要る」
エリアは地図帳を開く。
「翼亀図書館の現在位置を照会するわ」
ドランは旅費欄を見る。
「予算申請が先だ」
五人が同時に話し、すぐ止まった。
「今は一つにする人がいない」とロロ。
ティアは灰色の章へ触れかけ、手を下ろす。
「では、返事の期限だけ決めます。明日の昼鐘。参加者は本人が選ぶ」
翌朝、仮入学生の机へ配られる最初の正式な課題は、航路計算でも礼法でもなかった。
存在しない十三番目の棚へ、返事を書くことだった。
第二巻 了