第49話 第一章「本が翼を持つ朝」前編

本には、足がない。

 だから古代の王は、本を鎖で机へつないだ。逃げないためではなく、盗まれないためである。後世の商人は、本へ値札を付けた。誰のものか分かるようにするためである。役人は目録番号を振った。どこにあるか分かるようにするためだった。

 足のない本を、人間はずいぶん長いあいだ移動させてきた。

 人間の方が、本より落ち着きがなかったからである。

 王立星航学院〈アルカ・ノア〉の最初の校外実習で、凪野ハルが訪れることになった図書館は、森と町を載せる長命亀〈キャラバン・シェル〉の腹にぶら下がっていた。

 本が逃げる心配より、図書館ごと飛んでいく心配を先にする場所だった。

「提出物は三つ」

 朝六時、学院発着桟橋。

 ティア・グランツは、深紅の編み込みを右耳の後ろへ正確に収めたまま言った。

「第一、翼亀図書館の区画図。第二、利用者の移動条件。第三、学院資料に記された十三番書架の照合結果。期限は帰院翌日の昼鐘です」

「一個目から無理」とハル。

「まだ出発していません」

「だから分かる。図書館の場所が動く。動く場所の地図は、書いた瞬間に古くなる」

「地図が古くなる速度を測るのも実習です」

「それ、地図を描ける人の発想」

 ハルはエリアを見た。

 濃紺の三つ編みへ差した地図針が、朝日に一度だけ光る。

「私を見る理由は?」

「得意な人がいる」

「共同実習は、不得意を得意な人へ捨てる制度ではないわ」

「じゃあ俺は何を描く」

「迷った場所」

「全部になる」

「優秀ね。空白が減る」

 エリアは真顔だった。

 真顔で言う冗談は、冗談の逃げ道を閉じる。

 ハルは仮入学札を胸へ付け直した。白い長方形。名の下には、落第門の公開審査で決めた条件が残っている。

『方角記号の代替表示可』

『左肩への無断接触不可』

『長時間の回転訓練は医務確認』

 北という文字を見ても、以前ほど世界は回らなくなった。

 治ったのではない。吐き気が起きるまでの距離が伸びただけだ。左肩も日常の高さなら上がる。頭上で体重を支えれば、関節の奥で古い砂が鳴る。

 軽い負傷は、日付が変わっただけで消えるほど礼儀正しくない。

 かといって、毎朝同じ痛みを同じ大きさで主張するほど勤勉でもない。身体は回復しながら、昨日までできなかったことを今日へ返す。その返却日は、医務室の帳簿より本人の癖に先に現れる。

 ハルは赤いマフラーを結び直した。

 左肩を回す回数が、昨日より一度少なかった。

「凪野生」

「ハルでいいって言った」

「授業中です」

「期限付き?」

「呼称の見直し期限は設定していません」

「いちばん危ない暫定」

 ティアの右眉が上がる。

 風紀隊長章はもうない。胸には『試験改訂委員・第一期』と書かれた細い紙札がある。任期は七日。今日が三日目だった。

「第四の提出物を追加します」

「増えた!」

「凪野生の不用意な言葉を、いつ、誰が、どのように止めるか」

「それ、卒業まで終わらないよ」とマオ。

 左脚の星鉄装具を鳴らし、マオ・ケルンが桟橋の傾斜を足裏で測る。今日は制服の外套を膝上まで短くし、腰へ黄黒の工具帯を巻いていた。

「出発前に確認」とマオ。「船の乗降板、昨日より二指高い」

「潮じゃなくて風圧で桟橋が沈んでる」とロロ。

「原因を言えば高さが消える?」

「消えねえ。いま直す」

「直す前に私が希望を言う。右側へ手すり、傾斜はこのまま。下げると装具爪が引っ掛かる」

「先に聞いた。えらい俺」

「聞いただけで褒める制度はない」

「制度がなくても褒めろ!」

 ロロ・ピクスの四本の補助腕が、本人より先に乗降板へ伸びた。一本が留め具を外し、一本が手すりを運び、一本が工具箱から短い揚げ輪を出す。

「それ何」とハル。

「留め輪」

「いま食べ物の名前で言わなかった?」

「正式名を教えても覚えねえだろ」

「食べ物なら覚えると思われてる」

「当たってる」

 真鍮の機械鳥ピコが、ロロの肩から降りて留め輪を咥えた。丸い胴を傾け、青い観測眼を光らせる。

「ピ」

「返せ」

「ピココ」

「修理補助機が修理を妨害すんな!」

 ノクスは船首の羅針盤台で欠伸をし、二本の尾を別方向へ伸ばしていた。片方は朝市の燻製魚、もう片方はエリアの地図筒を狙っている。

「乗員点呼」

 オルト・グレンの低い声が、桟橋の風を一つにした。

 煤色の救難外套。背中の折り畳み担架。白濁した左眼と、人数を落とさない右眼。

「ハル」

「一」

「エリア」

「二」

「ロロ」

「三。ピコは機材」

「ピ!」

「抗議を記録。ノクス」

「ノゥ」

「四とする。ティア」

「五」

「マオ」

「六」

「セレナ」

 返事がない。

 ハルが桟橋の入口を見ると、黒い外套が朝の白石を切ってきた。セレナ・クロウは六角形の単眼鏡を左眼へ付け、右手に菫色の紙袋を持っている。

「七」

「遅刻一分」とティア。

「正式出発時刻の四分前です」

「点呼時刻は五分前です」

「点呼規則の改訂案は昨日、あなた自身が『参加者の到着確認後に開始』へ変更しました」

「本日は全員が到着していました」

「私は桟橋境界を三十七秒前に通過しています。あなたが視認していなかっただけです」

 セレナは黒い羽根型証拠札を一枚出した。

 羽には、彼女が境界線を越えた時刻と足音が記録されている。

「事実を使って風紀へ勝つな」とハル。

「事実以外で勝てと?」

「勝ち負けの話じゃないです」とティア。

「では遅刻の撤回を」

「……撤回します」

 セレナは紙袋から蜂蜜菓子を一つ出し、外套の襟を閉じて食べた。

 議論の勝敗を甘味で祝っているように見えたが、本人は低血糖対策だと言い張るだろう。

「王国証拠保全官として同行します」とセレナ。「共同確認中に事故記録、個人名簿、未公開証言が発見された場合、学院委員だけで閲覧範囲を決めないでください」

「まだ事故記録と決まったわけではありません」とティア。

「ですから、決まる前に扱いを決めます」

「お菓子を食べる前に?」とハル。

「食べながらです」

 最後の一口を飲み込み、セレナは乗船名簿へ署名した。

 乗船前の最後の作業は、荷物ではなく、帰還不能時の連絡票だった。

 学院の用紙には、三つの欄がある。

『本人へ伝える相手』

『事故時に決定へ参加する相手』

『帰還が遅れた場合、待機を依頼する相手』

 ハルは一つ目へ『学院の仲間』、二つ目へ『本人が話せるなら本人』と書いた。

 三つ目で鉛筆が止まる。

「空欄は不可です」とティア。

「地球の住所を書いても羽が飛ばない」

「送達不能と、相手が存在しないことは別です」

「待ってくれって頼みたくない」

「では、待機を依頼しない、と書けばよいでしょう」

「それでいい?」

「あなたの意思です。学院が“家族なら待つ”へ訂正する権限はありません」

 ハルは欄へ書いた。

『待たなくていい。店を開けて、食べて、寝ていてほしい。帰る方法が分かった時に、次の連絡をする』

「長い」とマオ。

「言いたいことが」

「欄が小さい。別紙にして、ここには『待機依頼なし/生活継続』」

「母さんへ役所の文を送ると怒る」

「送れないんでしょ」

「いつか送れる時に、最初の言葉がこれなの嫌だ」

 エリアが、用紙の裏を指した。

「公的な欄と、私的な手紙を分ければいいわ」

「同じ紙なのに?」

「同じ紙でも、読む権限は分けられる」

「裏表で?」

「簡易的だけれど」

 ハルは表へ短く書き直した。

 裏へ、母への文を書く。

『今日は、空を飛ぶ亀の図書館へ行く。帰りは三日後の予定。予定が変わったら、変わった理由を記録する。必ず帰るとは書かない。書けないからじゃなく、待つ時間を約束へしないため』

 そこまで書いて、止めた。

「重い?」とエリア。

「亀の話から急に」

「あなたが先に書いたのよ」

「明るいことも足す」

『船はまだ片帆。ロロは修理代を学院へ請求するつもり。ノクスは自分の座席を取った。エリアは地図を描く。俺は迷った場所を描くらしい。たぶん紙が足りない』

 エリアが覗く。

「人の手紙を読むな」

「見せる向きで書いていたわ」

「地図師の視野が広すぎる」

「最後の一文だけ訂正して。紙は三十枚持っています」

「迷う前提を補強した」

 ハルは紙を折り、配達鞄の内ポケットへ入れた。

 送れない手紙は、届かないから無意味なのではない。

 次に何を言うか、自分が忘れないための記録になる。

 その横で、ノクスは乗員欄の一番下へ肉球を押していた。

「動物欄は別です」と事務員。

「乗員」とロロ。

「夜獣です」

「職種だ」とハル。

「本人の同意は?」

 ノクスが事務員の羽根筆を奪い、ハルの名の横へ黒い線を引いた。

「俺の保証人?」

「取消線では」とエリア。

「関係を切られた」

 ノクスはもう一度、今度は自分の名の場所へ肉球を押す。

 二本の尾が同じ高さで立った。

「自己署名ですね」とセレナ。「本人が乗員を選んだ記録として十分です」

「ペット欄へ移さない?」とハル。

「ノゥ」

「脅迫で確認された」

 ピコは乗員欄の金属留め具を外し、ロロの襟へ隠した。

 自分の名がないことへの抗議だったのか、単に留め具が左右非対称だったからかは分からない。

「機械鳥は貨物?」と事務員。

「乗員!」とロロ。

「本人の同意は?」

「ピ!」

「いまのは?」

「賛成」

「毎回同じ音では」

「反対も同じだ。文脈で読め!」

 出発前から、ゼロスター号の乗員台帳は、人間社会の分類へ収まり切らなかった。

 だからこそ、誰かを欄外へ落とした時に気づける台帳でもあった。