第50話 第一章「本が翼を持つ朝」後編

 無星羅針盤の名を継ぐ船〈ゼロスター号〉は、まだ片帆だった。

 右舷の主帆は白く、左舷は補修板の上へ半分だけ張られた青布。船腹には王家の試験艇だった白、廃船工房の青、月冠祭の山車だった黒が継ぎ接ぎになっている。船名の最後のRは左右逆で、ロロは直すたび二ルクかかると言って直さない。

「飛べるの?」とマオ。

「飛べる」とロロ。

「安全に?」

「安全の定義による」

「落ちない」

「今日の荷重なら落ちねえ。向こうの曳航索を借りる。単独航行じゃない」

「最初から全部言え」

 翼亀図書館から迎えに来た曳航艇が、ゼロスター号の船首へ銀の索を結ぶ。完全な牽引ではない。片帆の船が横風へ流れないよう、進行方向だけを共有する補助索だった。

 エリアが透明地図卓へ現在航路を映す。

 北、南、東、西の文字はない。代わりに、学院の鐘塔、双月、青い裂け雲、目的地の翼亀を示す甲羅印が並ぶ。

「俺用?」とハル。

「全員用。方角だけで説明する方が、動く目的地には不正確よ」

「気を遣った?」

「正確さを上げただけ」

「いま礼を言うと怒る?」

「礼を拒むほど不正確ではないわ」

「ありがとう」

「受け取ります」

 ティアが一瞬だけ彼らを見て、すぐ点呼表へ戻った。

 マオは見たまま言う。

「礼にも手続きが増えた」

「受け取らないよりいい」とハル。

「受け取り印、押す?」

「いらない」

「今日、図書館なのに」

 出航鐘が鳴った。

 オルトが右手を上げる。

「離桟。今は一つにする。曳航艇の鐘へ合わせ、七拍。七拍後、各持ち場へ戻す。復唱」

「七拍後、各持ち場へ戻す!」

 命令に終わりが付いた。

 前の巻で黒板へ書かれた一行が、今日は風の中で使われる。制度が変わった証拠は、会議室の議事録より、現場で誰が息をしやすくなったかへ先に現れる。

 一拍。

 係留爪が外れる。

 二拍。

 片帆が朝の星脈風を受ける。

 三拍。

 船腹の継ぎ接ぎが別々の音で軋む。

 四拍。

 ノクスが船首へ伏せる。

 五拍。

 マオの装具が床留めへ噛む。

 六拍。

 ハルの赤いマフラーが後ろへ伸びる。

 七拍。

「各持ち場へ戻す」

 ゼロスター号は学院桟橋を離れた。

 翼亀は、最初、島に見えた。

 空の中に、緑の丘が浮かんでいる。

 丘には針葉樹の森があり、木々の間から煙突と風車が出ていた。甲羅の縁に沿って白い家々が並び、雨水を集める青い布が何百枚も張られている。遠目には、よく整備された浮島だった。

 島が瞬きをした。

「目、あそこ?」とハル。

「正確には頭部側面」とエリア。

「島に頭部側面があるのが正確じゃない」

 森の前方で、岩山ほどある瞼が開く。

 深緑の虹彩。その中央を、雲が一筋横切った。

 次に四肢が見えた。

 翼と呼ばれているが、鳥の羽ではない。甲羅の左右から伸びた巨大な鰭で、薄い骨板の間へ半透明の皮膜が張られている。一度ゆっくり打つたび、森全体の木々が同じ方向へ伏せ、空に新しい風路ができた。

「森と町を載せる長命亀〈キャラバン・シェル〉」とエリア。「個体名はトルカ。推定年齢六百八十歳。現在の巡回図書館が建てられたのは二百一年前」

「年上の学校」

「学院は百七十二年」

「学校より本が先輩」

「本によります」

 トルカの甲羅上には、背骨に沿って一本の大通りが走っていた。家々の屋根は低い。大翼が風を打つたび、町全体を突風が通るからである。煙突は曲がる金属管で、木の看板は横へ倒して固定できる。

 そして、すべての本屋と家の軒に、細い糸が張られていた。

 一冊の絵本が風に持ち上げられる。

 表紙の左右から薄い布羽が開き、鳥のように二度はばたく。逃げる前に、背表紙へ結ばれた糸が伸び、軒先へ戻した。

「本が飛んだ」

「飛ばしたんだ」とロロ。「落ちた時に表紙を閉じて角から沈むより、羽を開いて面で風を受ける。回収しやすい」

「読書中に飛ぶ?」

「手を離せば」

「寝落ち防止」

「本より先に読者が落ちる」とマオ。

 甲羅町の子供たちは、腰へ命綱を付けて通学していた。片手に鞄、もう片方に本。風が強くなると本の羽を開き、凧のように身体を支える。

「図書館はどこ」とハル。

 エリアが地図板を反転させた。

「下」

「下って」

「下」

 ゼロスター号がトルカの側面へ回り込む。

 甲羅の縁が空の上へ消え、巨大な腹が現れた。

 乳白色の腹甲。その下に、十二個の建物が環状へ吊られている。長い鎖と梁でつながれ、窓は雲海へ向いていた。棚区画一つが学院の講堂ほどあり、十二個を並べると、トルカの腹に巨大な本の首飾りが掛かっているように見える。

 窓から本が舞う。

 無数の小さな羽が、図書館の周囲を群れで回っている。

「落とした?」

「返却中です」と、曳航艇の乗員。

「空で?」

「甲羅上の返却口から腹側の分類窓へ、本自身の羽と糸で送ります。風路が正しければ」

「正しくなかったら」

「町じゅうで拾います」

 歴史ある制度の説明には、しばしば最後に労働が隠れている。

 ゼロスター号は、十二の棚区画の中央へ張り出した接岸台へ着いた。

 曳航索が外れ、片帆が畳まれる。

 出迎えたのは、長い黒髪を一本の太い編み込みへした女性だった。年は四十代半ば。耳の後ろに銅の翼形留め具を三つ付け、紺灰色の司書外套には大小の栞が差さっている。

「トルカ巡回図書館、司書長アデル・フォリオです。ようこそ。皆さんの共同照合申請は受理しました。ただし、調査より先に三つ守ってください」

 ティアの目が少し明るくなる。

「規則ですか」

「生活です。走る時は本を閉じる。窓を開ける時は隣の窓を閉じる。風が変わったら、読んでいる行より命綱を優先する」

「第一条から第三条」とティア。

「番号は付けません。順番を誤解されるので」

 ティアは反論しかけ、頷いた。

「合理的です」

 ハルが聞く。

「図書館で走っていいんですか」

「走らないと間に合わない風もあります。静粛は安全より下です」

「好きな図書館かも」

「まだ一冊も読んでいませんよ」

「規則から入った」

「入口は複数あります」

 アデルは全員へ薄い革紐を渡した。片端は腰、片端は床梁へ留める。マオには長さの違う三本を見せ、どれがよいか先に尋ねた。ティアには着席場所を。ハルには左肩へ紐が触れない結び方を。

「学院から条件票を受けています」とアデル。

「勝手に配慮された感じがしない」とマオ。

「本人へ確認しているから」とティア。

「分かってる。褒める制度はないけど褒める」

 アデルが笑う。

「書庫は、褒め言葉も返却不要です」

「貸しにしない?」とハル。

「貸しにすると利子が付きます」

「司書、怖い」

 共同照合は、中央目録室から始まった。

 円形の部屋に十二枚の透明板が並ぶ。各板には棚区画の番号、蔵書数、現在重量、温度、湿度、貸出件数が映っていた。

 一番から十二番。

 その先は壁である。

「十三番書架という登録は、現行目録にありません」とアデル。「旧目録にも、私が確認できた範囲ではありませんでした」

 ティアが学院から持参した紙を置く。

『標準飛行経路算定根拠 参照・学院中央書庫十三番書架』

「学院側では、この参照先が外壁試験の旧計算へ使われていました」

「当館にも同じ番号を示す貸出照会が残っています。ただし閲覧権限が破損し、内容を開けません」

 セレナが黒い羽を机へ置く。

「破損と封印を区別してください」

「鍵がないのが封印。鍵穴がないのが破損、と当館では呼びます」

「十三番の記録には」

「鍵穴がありません」

 ロロは目録板より先に床へしゃがんだ。

「棚の総重量表、見せて」

「本より床?」とハル。

「本は床が落ちたら全部読む方向が同じになる」

「下向き?」

「落下中」

 アデルが搬入記録を出す。

 甲羅上から腹側へ本を送る前に、冊数と重量を測る表だった。十二の棚区画へ配分する数字が並ぶ。

 ロロの補助腕が四本、別々の行を指した。

「一から十二の合計と、全体重量が合わねえ」

「湿度分では?」とエリア。

「毎日同じだけ湿る本があるか。差は四千八百二十キロ。棚区画一つ分に近い」

 マオが片眼レンズを下げる。

「目録には十二。秤には十三」

「正確には」とエリア。「表示されている区画は十二。全体重量は、十三個目に相当する未配分荷重を含む」

「長くしただけ」とハル。

「長くしたから、何が分からないか分かるの」

 アデルは眉を寄せた。

「差重量は、古い姿勢調整材として処理されています」

「どこにある」とロロ。

「腹甲内部。立入不可です」

「誰がいつ入れた」

「記録は――」

 ピコが目録卓の上へ降りた。

「ピ」

 磁石嘴で、端に置かれた小さな金属印を引く。

「それは貸出印です」とアデル。「触れないで」

「ピコ、返せ」

「ピココ」

 ロロが捕まえようとすると、ピコはハルの襟へ飛び込んだ。大事な物ほど持ち主の工具箱以外へ隠す習性である。

「俺に共犯を選ぶな」

「ピ」

 ハルが襟から印を出した時、机の横に積まれた仮貸出票が風で一枚飛んだ。

 彼の胸へ貼りつく。

『利用者 凪野ハル』

『仮入学生』

『貸出冊数 〇』

「まだ借りてない」とハル。

「最初の利用登録票です」とアデル。「何か一冊借りれば有効になります」

 目録室の隅で、一冊の薄い本が羽を開いた。

 風に押されて机へ滑り、ハルの手へ収まる。

 題名は『迷った時に道を増やす百の方法』。

「図書館が選んだ」とハル。

「風です」とエリア。

「風が選んだ」

「なお悪いわ」

 アデルは苦笑し、本の番号を読み取った。

「では初回貸出として登録します。返却期限は七日後。延長は一度」

 印を取る。

 通常なら、貸出票へ棚番号と期限が押される。

 金属印の輪が、指の中で一度だけ空回りした。

 がちり。

 赤い印材が紙へ落ちる。

 アデルの手が止まった。

 貸出票の中央に、見たことのない数字があった。

『十三』

 その下へ、小さな文字。

『返却済』

 ハルは手にした本を見る。

「借りる前に返した」

 誰も笑わなかった。

 十二までしかない目録室で、存在しない棚だけが、彼を知っていた。