第52話 第二章「十二までしかない棚」後編
外壁点検路は、人一人分の幅しかなかった。
腰紐を主梁へ一本、胸紐を副梁へ一本。二本は別の支点へ。アデルの規則は、同じ事故が二本同時に起きないよう、結び先まで分ける。
ハル、マオ、エリアの三人は、十二番棚の外壁から環状の点検路へ出た。オルトが内側の扉で索を管理する。ノクスは許可を取っていないが、窓の隙間から先に出ていた。
「おまえは許可の概念を噛んで食べた?」とハル。
「ノゥ」
「否定だけ上手い」
風が腹甲を舐めた。
音ではなく、圧力が来る。身体を空へ押し出す横風。マオは左脚の装具爪を格子へ噛ませ、右足の靴底で摩擦を確かめる。
「触るなら先に言って」と彼女。
「触らない」
「落ちる時も?」
「落ちる前に言う」
「言う暇がないなら腰紐。肩はやめて」
「分かった」
「分かっただけで褒める制度はない」
「褒めてほしいの?」
「違う」
「言葉が尖った」
「風に負けない形」
エリアは点検路へ小さな青札を置き、地図線を延ばす。
「十二番外壁、現行固定梁三本。荷重鎖二本。補助索一本」
「一番も同じ」とハル。
「二番から十一番も同じ。十二区画なら、主鎖二十四本」
「余りは?」
「記録上はない」
点検路を半周したところで、ノクスが止まった。
二本の尾が壁へ向く。
「何?」
黒い鼻が、乳白色の外壁を嗅ぐ。
約束の傷ではないらしい。尾は震えていない。ただ、壁の一か所だけ、風の音が低かった。
ハルは手袋を外し、壁へ触れた。
滑らかな補修材の中に、一本だけ縦へ伸びるざらつきがある。
「傷?」
「擦過痕」とエリア。「上から下へ、幅十一指。現行鎖より広い」
乾いた白壁を、古い黒線が横切っていた。
鎖が何年も引かれ、揺れ、同じ場所を削った跡。痕の上端には、丸い固定穴が二つ。下端は補修材の中へ消えている。
「棚の間に鎖が一本余ってた」とハル。
「余っているんじゃない」とマオ。「なくなったものの跡」
場所は、十二番と一番の間ではなかった。
七番と八番の境目。環状の並びを崩す位置である。
十三を最後へ足したのではない。途中へ何かがぶら下がっていた。
エリアが計測糸を当てる。
「現行主鎖の痕と深さが違う。こちらの方が古い。荷重方向も垂直ではないわ」
「斜めに引かれてた?」
「何かを吊るすだけでなく、姿勢を戻すために使った可能性がある」
マオが壁の下を覗いた。
雲海まで、何千メートルあるか分からない。距離が大きすぎると、恐怖は数字を失う。
「ここに棚があったなら、今はどこ」
「落ちた」
「切った」
「移した」
「最初から鎖だけ」
ハルは一つずつ言った。
エリアが一つずつ線にする。
「仮説は四つ。現時点で選ばない」
「一番面白いのは?」
「面白さで証拠を選ばない」
「じゃあ一番怖いの」
「証拠がないのに怖さを増やさない」
「地図って心まで平らにするな」
「あなたが坂を作りすぎるのよ」
ピコが内側の窓へ頭をぶつけた。
「ピ! ピピ!」
ロロが向こうで何か叫んでいる。
風に消えて聞こえない。
ハルが唇を読む。
「戻れ、馬鹿……たぶん俺?」
「全員へ言ってる」とマオ。
「汎用性の高い呼びかけ」
三人は擦過痕へ番号札を付け、戻った。
記録室では、ティアとセレナが、十三印の過去使用簿を開いていた。
「貸出印の軸へ残る押圧記録は、十四年前に集中しています」とセレナ。「その後は十三輪が固定され、通常位置へ戻されている」
「十四年前」とハル。
「日付は九月十七日。時刻は連続していません。印影の残る利用者番号は三十一」
アデルが名簿を机へ置く。
名前、当時年齢、所属、現住所。
司書、甲羅町の住民、巡回中の商人、学院から来ていた生徒。職も年齢もばらばらだった。
「借りた本は?」とマオ。
「記載なし」とティア。
「返却済なのに?」
「貸出欄が空白です」
「借りてないなら、ハルと同じ」
「俺だけじゃなかった」
「喜ぶところじゃない」
現住所がトルカにある七人へ、アデルが連絡を取った。
最初に来たのは、甲羅上でパン屋を営む老人だった。十四年前は三十九歳。十三の印影が残る札を見せると、粉まみれの眉を寄せた。
「そんな棚は知らん。図書館は十二だ。子供の頃から十二」
「この番号はあなたの利用者札です」とセレナ。
「そうだろうな。番号は覚えている」
「九月十七日に何を借りました」
「覚えていない。毎週何か借りていた」
「事故は?」
「風の強い年はいくつもある」
次は当時十二歳だった染物師。
「十三番? 怖い話の棚なら五番の奥よ。そこから借りた覚えはない」
当時七歳だった郵便翼手。
「返却済って、何を? 私は本をなくして三か月貸出禁止になったことなら覚えてる。十三の棚は知らない」
元保守員の女性は、鎖の擦過痕を見せられて黙った。
だが答えは同じだった。
「古い補修は多い。どれのことか分からない。十三番という呼び方は聞いたことがない」
ノクスは一人ずつの足元を嗅いだ。
尾は一度も震えなかった。
「嘘じゃない?」とハル。
「そう断定しないでください」とセレナ。「ノクスが嗅ぐのは破約痕です。質問へ誤答しただけでは反応しない」
「でも、全員同じ顔だった」
「顔は証拠になりません」
「人を見る時は?」
「判断材料にはします。証拠とは分けます」
遠方へ移った十四人には、羽根に記録して飛ばす通信〈メッセージ・フェザー〉を送った。
日暮れまでに十枚が戻った。
『十三番書架を知らない』
『借りた記憶はない』
『その日はトルカにいたが、図書館へ行ったか覚えていない』
『番号の誤記ではないか』
『母にも聞いた。知らない』
返答は違う言葉で、同じ空白を囲んでいた。
ティアが名簿を並べ直す。
「三十一名全員が知らないと主張している」
「全員の記憶を消した?」とハル。
「その仮説を採用する証拠はありません」とエリア。
「でも可能?」
「可能と事実を混ぜないで」
アデルは、十三の印影を見下ろした。
「この人たちは、当館の利用者です。何年も、何十年も来ている人もいる。十三番があったなら、誰か一人くらい場所を知っていていい」
「場所を借りたんじゃないか」とハル。
全員が彼を見る。
「本を借りた印だと思ってるから、おかしい。『十三』が棚番号じゃなくて、別の場所。『返却済』が本じゃなくて、人に押した印なら」
「人をどこへ返すの」とマオ。
ハルは答えられなかった。
外でトルカの翼が動く。
十二の書架が、同じ風に揺れた。
七番と八番の間だけ、何もない空間が、他よりわずかに長く鳴った。
夜になって戻った最後の通信羽にも、同じ一文があった。
『覚えていない。十三番書架など、見たことがない』
十三番を借りたと記録された人々は、全員、十三番を知らなかった。