第53話 第三章「目録の重さ」前編
数字は嘘をつかない、と言う者がいる。
数字は、よく嘘をつく。
一人を零人と数えれば、その人間はいないことになる。百人分の食料を九十九人へ配れば、一人分の余りは在庫になる。事故死者を“航路外損耗”へ移せば、死者は減らないが、事故件数は減る。
数字が嘘をつかないのではない。
数字は、命令された嘘を、文句も言わず正確に続けるのである。
ロロ・ピクスが重さを好むのは、数字を信じているからではなかった。
重さは、嘘をつくにも床が必要だからだ。
「四千八百二十、一日で七十六増減。湿気じゃねえ。本の入れ替えでもねえ。なら何だ」
ロロは目録室の床へ腹ばいになっていた。
左手に計算板。右手で吊り鎖の振動を拾い、四本の補助腕は、温度計、湿度計、張力糸、揚げ生地をそれぞれ持っている。
「最後の要る?」とハル。
「要る」
「計算に?」
「俺に」
「じゃあ計算外」
「人間を計算外へ出すな。前の巻で何を習った」
ロロは揚げ生地を噛み、鎖へ耳を当てた。
腹側書架は、トルカの歩みと翼動へ合わせ、つねにわずかに揺れている。その揺れは雑音ではない。十二の棚区画、中央目録室、連絡廊下、給水槽、避難籠。それぞれが別の音程で、巨大な亀の腹へ自分の重さを申告していた。
「六番棚、昨日より三十二キロ軽い」とロロ。
「貸出四十一冊、返却二十七冊です」とアデル。
「本の平均重量で合う。三番は二百十キロ増」
「種子標本の搬入がありました」
「それも合う。なのに全体差は十四年前から四千八百二十のまま」
アデルが腕を組む。
「姿勢調整材です」
「それ、名前だ。物じゃねえ」
「腹甲内部の固定重量」
「固定なら、どこへ固定してる」
「記録上は――」
「記録を聞いてねえ。物の居場所を聞いてる」
ロロは機械へ怒鳴る時、人より丁寧だった。
人へ怒鳴る時、機械より乱暴だった。
どちらが信頼されているかは、説明するまでもない。
「姿勢制御盤を開けて」とロロ。
「閲覧権限はありますが、分解権限はありません」とアデル。
「開けるだけ」
「あなたの“開けるだけ”には、元へ戻らない部品が何個含まれます?」
「元が間違ってたら戻さない」
「分解権限なし」
「じゃあ外から測る」
「どうやって」
「壊さず」
「質問へ答えていません」
「結果で答える」
ティアが横から言った。
「会話がハルへ似ています」
「最悪の侮辱だ!」
「俺も傷つくべき?」とハル。
「おまえは慣れろ!」
ロロは青いゴーグルを下ろした。
右レンズだけ度が入り、左は拡大へ切り替わる。二つの眼へ別の情報を入れると、頭痛が来る前に世界の継ぎ目が見える。
「分解しねえ。制御盤の脚へ振動針を当てる。翼を一回動かしてもらう。中の重りがどこへ力を逃がすか読む」
「トルカへ翼動を依頼するの?」とエリア。
「亀に命令できる?」
「町の風路師が、甲羅の圧点へ合図を送る。人間の都合どおりではないけれど、昼の方向調整は予定されているわ」
「じゃあ、その時刻を借りる」
「対価は?」とアデル。
ロロの補助腕が一斉に止まった。
「調査協力だろ」
「時間を動かすのは、風路師と町の人です。無料ではありません」
「……いくら」
「風路師一名、補助二名、圧点準備。十二ルク」
「高え!」
「六百八十歳の翼亀を、あなたの計測のため半刻早く曲げる料金です」
「亀に入る?」
「入りません。町の共同維持費へ」
「明細は」
「出します」
「値切らねえ」
ロロは工具箱の底から、結んだ硬貨紐を出した。
十二ルクを一枚ずつ数える。自分の昼食なら一ルクを惜しむ。工具なら十ルクを一息で払う。人の仕事へ払う時は、値切ること自体を嫌った。
「学院経費へ請求できます」とティア。
「俺が頼む計測だ。失敗したら俺の失敗代になる」
「成功した場合は?」
「学院へ倍で請求する」
「それは認めません」
「じゃあ十三ルク」
「一ルクを何に付けたのです」
「報告書の綴り代」
「自分で書いてください」
四本の補助腕がしおれた。
顔より先に、絶望が分かる。
姿勢制御盤の外箱には、古い文字が刻まれていた。
現在の共通空語と似ている。だが、字の一部が鏡返しで、母音点の位置が違う。二百年前の職人が、さらに古い設計を写したものらしい。
ロロは左眼の拡大鏡を上げた。
「『荷重配分は十二吊床と……緊急荷車へ』」
「荷車?」とマオ。
「そう書いてある」
「図書館の腹を荷車が走る?」
「昔は走ったんだろ」
「車輪の跡は?」
「空を走る車だったんだよ」
「文字が読めないって言え」
「読める! 古い綴りが間違ってる!」
後ろで、くす、と笑う声がした。
ロロが振り返る。
棚と床の隙間から、子供の頭が出ていた。
緑がかった茶髪を、左右で違う高さへ結んでいる。背中には六枚の小さな葉形翼。羽根というより、若い樹皮へ筋を通したような薄翼で、緊張すると一枚ずつ畳まれる。
「荷車じゃないよ」
「誰だ」
「本を読む人」
「ここにいる全員そうだ」
「黄色い人は、字を読むのが弱い人」
ハルが口を押さえた。
押さえたのは笑いではなく、笑いが外へ出た後だった。
「おまえ、何歳」
「十」
「俺は十四」
「四つ多く間違える?」
「年齢を誤字へ換算すんな!」
少女は棚の下から這い出した。
靴下の左右へ栞が三本ずつ刺さっている。片方は鳥の羽、片方は乾燥葉。腰の利用札には『ミミ・フォルド』。
「ミミ」とアデル。「九番棚の学習時間では?」
「異界資料の先生が、異界の字を読めないって言ったから休みになった」
「それは休みではなく、資料整理へ変更です」
「整理する資料が、ここに逃げた」
ミミは一冊の本を胸へ抱えていた。
背表紙に『旧機関字入門』。
「その字、“荷車”じゃなくて“荷架”」
「同じだろ」
「違う。下の点が二つ。棚を吊るす架。次の字は“緊急荷架”」
「点なんか錆で消えてる」
「錆の下にある。光を横から当てて」
ロロは言われた通り、小型灯を斜めへした。
文字の凹みへ影が入る。
確かに、二つの点があった。
「……緊急荷架」
「読めた」
「最初から読めてた。確認した」
「間違いを?」
「おまえ、性格が書架みてえだな」
「本が多い?」
「角が痛い」
「褒め言葉?」
「貸しにしとけ」
「返却期限は?」
ロロは答えず、文字を写した。
補助腕の一本だけが、恥ずかしそうに背中へ隠れていた。
マオが横で白墨を噛む。
「字の弱い機関士」
「呼ぶな」
「ミミが先」
「定着させるな!」
「正式名称、長い?」
「ロロ・ピクス!」
「字の弱い機関士ロロ・ピクス」
「増やすな!」
ミミは、悪意なく頷いた。
「覚えた」
翼動まで半刻あった。
ロロは待つことを、機械へ対する侮辱だと思っている。
機械が動く時刻を変えられないなら、動かない時間に別の機械を見る。別の機械がなければ、机を分解する。机まで禁止された時だけ、人間へ話しかける。
「町の重量台帳を見せろ」
話しかけられたアデルは、迷惑そうにはしなかった。
「甲羅会計所にあります。閲覧理由は?」
「四千八百二十キロを十四年隠すなら、姿勢盤だけじゃ足りねえ。食料、水、家、荷物。トルカの上では全部、飛行荷重になる。誰かが毎年どこかへ数字を置いてる」
「会計所まで甲羅上です。昇降籠を使います」
「歩く」
「あなたの呼吸では、縦梯子百二十段は許可しません」
「俺の呼吸に許可を出すな」
「では、医務師の許可を取ってください」
「昇降籠!」
選択の余地がない時、人は決定したふりをする。
ロロは自分で昇降籠を選んだ顔で乗った。
ミミも乗った。
「なんでいる」
「字」
「台帳は今の字だ」
「古いページもある」
「授業じゃねえ」
「私は本を読む人」
「ここは会計所だ」
「数字も読む」
「帰れ」
「昇降籠、もう動いた」
籠が腹側から甲羅側へ上がる。
トルカの身体を貫くのではない。甲羅の縁へ沿う縦穴を、長い鎖で回り込む。途中、透明窓から翼の付け根が見えた。樹木ほど太い羽軸が呼吸のたびに上下し、その上を保守員が小さな点のように歩いている。
「六百八十歳って、長い?」とミミ。
「俺より長い」
「答えが小さい」
「機械なら、六百八十年動いた部品は設計じゃなく歴史だ」
「生き物」
「生き物も保守する」
「誰が?」
「町」
「町を誰が?」
「町」
「同じ答えで回った」
ロロは少し考えた。
「だから台帳がある。誰か一人が全部直すって書いた機械は、そいつが寝た日に壊れる」
自分へ言ったような声だった。
補助腕の一本が、薬筒の位置を確かめる。
甲羅上へ出ると、風の匂いが変わった。
腹側は紙、油、金属、乾燥剤。甲羅町は土、焼いた豆、樹脂、翼毛の手入れ油。道は直線ではない。トルカの甲羅の成長線へ沿い、家々がゆるく曲がっている。
家の前には、住所札と一緒に重量札が付いていた。
『家屋一万二千四百キロ』
『貯水上限八百』
『移動家具二百十』
「家に体重を書くの?」とミミ。
「家のだ」とロロ。
「人は?」
「住民数で平均」
「私、平均より軽い」
「子供は年齢区分」
「本をたくさん持ったら?」
「蔵書申告」
甲羅会計所は、市場の中央にある丸い建物だった。
入口には秤が一つ。税を取るためではなく、大きな荷物を持ち込む時、その日の翼動へ影響するかを確かめるためである。
司計官は、灰色の翼を背へ折った老人だった。
「四千八百二十キロ? 家一軒より軽く、書架一つより重い。忘れるには半端な重さだな」
「忘れてねえ。別の名で残ってる」
ロロは十四年前から現在までの総重量帳を開く。
事故前、図書館腹側荷重は十三項目に分かれていた。
事故翌月、項目は十二へ減る。
だが総重量は四千八百二十キロだけ減っていない。
余った分は、『姿勢予備』へ移されていた。
「予備って何だ」とロロ。
「使い道を特定しない、姿勢調整上の固定分」と司計官。
「物は?」
「図書館管理」
「図書館は腹甲内部って言った」
「なら、そうだろう」
「見た?」
「帳簿で」
「物を聞いてる」
「会計は物の置き場所を見ない。申告された重さが全体と合うかを見る」
「役割を分けてる」とミミ。
「分けた間へ落ちてんだよ」
図書館は、会計が重量を確認したと思う。
会計は、図書館が物を確認したと思う。
姿勢盤は、重さが存在する前提で動く。
誰も、四千八百二十キロが具体的に何であるかを、毎年見なくてよい仕組みになっていた。
ロロはさらに帳簿をめくる。
事故から三年後、『姿勢予備現物確認』の欄が追加されている。
印は、空白だった。
「確認されてねえ」
「記入漏れでは?」と司計官。
「十四年連続?」
「図書館の内部設備なら、図書館側の確認印を――」
「そっちも空白だ」
責任者欄には、毎年違う名がある。
異動。退職。死亡。臨時代行。
誰か一人が十四年隠した形ではない。
最初の空白を、次の人が前年度どおり写し、その次も写した。
制度は悪意がなくても隠蔽を続けられる。
悪意より安価で、長持ちする方法だった。
「最初の年、誰が『姿勢予備』へ移した?」
司計官が事故翌月の承認紙を外した。
図書館側の仮承認。
町側の緊急処理。
王国危機広報局の分類指示。
署名部分は黒い封蝋で覆われている。
『未確定危機情報。遺族通知および安全審査終了まで、名称を一般目録へ記載しない』
「期限」とロロ。
「書いてない」とミミ。
「終了まで、は期限じゃねえ。終了を誰が確認するかがない」
ロロは紙へ触れず、セレナを呼ぶため通信板を出した。
その前に、ミミが古い欄外字を指す。
「ここ」
「何だ」
「『仮荷重、次回大翼換羽後に再計測』」
「換羽はいつ」
司計官が壁の年表を見る。
「事故の二年後だ」
「再計測記録は」
ない。
仮は、期限を失うと永久より長い。
永久なら理由を説明しなければならない。仮なら、まだ途中だと言い続けられる。
「写しを取る」とロロ。
「証拠官立会いが必要だ」と司計官。
「呼ぶ」
「翼動まで二十分」
「先に位置を封じる。ミミ、誰も触らねえよう見てろ」
「私?」
「読める奴が見張れ」
「字の弱い機関士は?」
「測りに戻る!」
ロロは昇降籠へ走りかけ、三歩で息を乱した。
止まり、薬筒を一吸入する。
ミミは何も言わない。
褒めもしない。
ただ、会計台帳の前へ椅子を持ってきて座った。
「ここは読書席にします」
「会計所だぞ」と司計官。
「数字も読む」
ロロが籠へ乗る直前、振り返った。
「古い字、あとで一個だけ聞く」
「授業?」
「確認だ!」
「返却期限は?」
「決めてねえ!」
「危ない暫定」
籠の扉が閉じる。
自分の言葉が他人の口から返ってくると、たいてい利息が付いている。