第54話 第三章「目録の重さ」後編

 昼の翼動が始まった。

 甲羅上の風路師が、トルカの右前脚近くへ三つの圧鐘を当てる。低い音が骨を伝い、腹側図書館まで届いた。

 ごおん。

 トルカの眼がゆっくり閉じる。

 右の大翼が持ち上がった。

「全員、固定確認」とオルト。「復唱」

「固定確認!」

 ロロは姿勢制御盤の四本の脚へ振動針を当てた。四本の補助腕が針を保持し、左右の手で記録円盤を回す。

 一枚目の翼骨が風を押す。

 十二の棚区画へ、順に張力が走った。

 一番、低音。

 二番、少し高い。

 三番、湿った本が多く重い。

 四番、紙束の密度が揃っている。

 ロロの耳は、高音域の一部を聞けない。

 幼い頃の煤と溶接音が、その帯域を奪った。だから聞こえない音を、指先と歯で読む。

 振動針の柄を前歯へ軽く当てる。

 金属を通った揺れが、顎の骨へ来た。

「七……八……」

 七番と八番の間で、振動が二つに割れた。

 一つは現行の連絡梁。

 もう一つは、どこにもない重さへ向かっていた。

「止めるな!」

 ロロが叫ぶ。

 ティアが圧鐘係へ羽根通信を出しかけ、手を止める。

「予定翼動です。止めていません」

「違う、誰も何もすんなって意味!」

「それは命令として不正確です」

「あとで直す!」

 トルカの大翼が最大まで開く。

 図書館全体が左へ傾いた。

 姿勢制御盤の内部で、重りが動いた。

 目で見えない。だが、力の逃げ方は見えた。

 十二の棚から集めた揺れが、七番と八番の間へ一度集まり、そこから腹甲内部の奥へ返される。四千八百二十キロの“固定重量”は、単に詰め込まれた石ではなかった。

 制御盤は、それを一つの区画として扱っている。

「十三番は消えてねえ」とロロ。

「目録にはありません」とティア。

「目録の方から消えただけだ。亀の姿勢台帳には残ってる。消したら、翼を動かすたび十二棚の配分が狂う」

 エリアが記録円盤を覗く。

「差重量が毎日七十六キロ以内で増減する理由は?」

「固定物だけじゃねえ。水か空気が出入りしてる。あるいは、外から風を受ける構造がまだ残ってる」

「空の区画?」

「空でも重さはある。入れ物ごとならな」

 トルカが翼を下ろす。

 揺れが戻った。

 ロロは計算板へ線を引いた。

 十二の円。その途中、七と八の間へ、空白の円。

「目録の重さじゃねえ。姿勢の重さだ」

「違いは?」とハル。

「目録は、本がどこにあるか決める。姿勢台帳は、落ちないために何がどこにあるか決める。後者から消すと、亀ごと傾く」

「じゃあ、誰かは十三番を消したけど、完全には消せなかった」

「完全に消したら全員落ちるからな」

 ミミが計算板を覗いた。

「十三の丸、書いた」

「仮だ」

「字は合ってる?」

「数字だ!」

 ロロは揚げ生地の最後を口へ入れ、咳き込んだ。

 笑ったハルを蹴ろうとして、喘息の息が詰まる。胸の奥で細い笛が鳴った。

 オルトがすぐ近くへ薬筒を置く。

 手渡さない。口元へ押しつけない。ロロが自分で取れる距離へ置くだけだ。

「二吸入。作業停止五分」

「一でいい」

「二」

「高い薬なんだぞ」

「命の修理代より安い」

「その比喩、俺のだ」

「借りた。返却済にしておけ」

 ロロは薬筒を二度吸った。

 胸の笛が少しずつ消える。

 ミミは彼の四本の補助腕を見ていた。

 いつもなら、子供は触りたがる。すごい、便利、何本同時に動く、と聞く。

「重い?」とミミ。

 ロロは一瞬、答えを失った。

「機械は重さがあるから動く」

「腕の話」

「同じだ」

「外すと軽い?」

「外したら仕事が遅い」

「軽いか聞いた」

「……軽い。肩も痛くねえ」

「じゃあ休む時は外せば」

「外してる間に壊れたら」

「他の人を呼ぶ」

「呼んで間に合う保証は」

「自分だけで間に合う保証もないよ」

 十歳は、年齢の少ない大人ではない。

 大人が複雑に隠した問いを、まだ隠す必要を学んでいない人間である。

 ロロは返事をせず、補助腕の一本だけを外した。

 机へ置く。

「五分だけだ」

「四本あるのに一本?」

「段階的な軽量化!」

「字だけじゃなく休むのも弱い」

「おまえ、どこでそんな言い方覚えた!」

「本」

「五番棚を閉鎖しろ!」

 午後、ロロは七番と八番の外壁下へ降りた。

 今度は許可が出た。

 正確には、アデルが保守員二名、オルト、セレナの立会い、三重命綱、作業時間二十分、工具一覧提出という条件を付け、ロロが十九項目のうち十八へ悪態をつきながら署名した。

「残り一つは?」とハル。

「落とした部品は拾わない」

「なんで反対?」

「部品は拾う!」

「雲海へ?」

「落とさねえ!」

「条件の意味、そこだろ」

 腹側の保守足場は、壁に対して垂直だった。

 頭上がトルカの腹、足元が空。ロロは四本の補助腕を別々の梁へ掛け、身体を蜘蛛のように横へ進める。

 擦過痕の下、補修材の境目を叩く。

 こつ。

 こつ。

 きん。

「材が違う」

「見れば分かる?」とセレナ。

「見えねえから叩いてる」

「記録します。三打目のみ高音」

「高音は俺に聞こえにくい」

「では、振動数を羽へ刻みます」

「助かる」

 セレナが一瞬だけ彼を見る。

 ロロは、助かると言ったことに自分で気づいていない。

 補修材の隙間へ細い探り針を入れる。

 何かに当たった。

「金属」

 ロロが針を引く。取れない。

 無理にこじれば証拠を傷つける。以前の彼なら、傷つける前に見ればいいと理屈を作っていただろう。

「セレナ」

「はい」

「先に記録。位置、深さ、角度」

 黒い証羽が飛ぶ。

 補修面の凹凸と探り針の位置を写し取る。

「記録完了」

 ロロは小さな吸着鉗子を入れた。

 補修材の内側で、錆びた欠片が動く。

 その瞬間、上から真鍮色の影が落ちてきた。

「ピ!」

「来んなって言っただろ!」

 ピコが逆さに飛び、磁石嘴を隙間へ差し込む。

 がちん。

 金属片が飛び出した。

 ピコは得意げに咥え、そのままハルの襟へ向かおうとする。

「証拠を巣へ運ぶな!」

 ロロの補助腕三本がピコを囲み、一本が金属片の下へ布を広げた。ピコは逃げ、オルトの担架へ当たり、セレナの羽を避け、最後にノクスと正面衝突した。

「ノゥ!」

「ピピ!」

 二匹が空中で揉み合い、金属片だけが落ちる。

 布へ収まった。

 ロロは息を止めて見た。

 掌の半分ほどの金具。

 赤黒い合金。片側に、太い鎖を通した円弧。反対側は、何かから切り離されたように斜めへ裂けている。

 歯へ軽く当てた。

「噛まないでください」とセレナ。

「噛んでねえ。振動」

「唾液が付きます」

「布越し」

「その布は私の証拠布です」

「洗う」

「証拠布を?」

「俺の歯を!」

 ロロは目を細めた。

「星鉄じゃねえ。赤砂銅を混ぜた古い救難合金。普通の棚金具には高すぎる」

「何に使う材です」とアデル。

「火を受けても脆くならない。曲がるが折れにくい。緊急時に人を載せる籠、切離し梁、落下減速具」

 金具の円弧幅は、外壁の擦過痕と一致した。

 裂けた側には、古い赤色の繊維が一筋残っている。

「十三番の部品?」とハル。

「まだ言えねえ」

「同じ位置、同じ荷重、同じ古さ」

「だからって名前まで同じとは限らねえ」

「慎重になった」

「おまえらが雑だから、俺が慎重側へ押し出されてんだ!」

 ロロは金具を布へ戻した。

 補助腕は四本とも上を向いていた。

 興奮を隠す気がなくても、機械の方が先に告白してしまう。

「ただし一つは言える」

 彼は、七番と八番の間に残る黒い鎖痕を見上げた。

「ここには、重さだけじゃなく、重さを支えた物があった。しかも普通の本棚じゃねえ。燃えても曲がっても、人を載せたまま切れるように作られた何かだ」

 十二までしかない図書館の腹で、十三番にしか使われなかった金具が見つかった。