第55話 第四章「逆さの閲覧室」前編
建物には、上と下がある。
上へ行けば偉くなり、下へ行けば貧しくなる、と人間は長く信じてきた。王城は高く、牢獄は低い。貴族席は舞台を見下ろし、工房は煤を町へ出さないよう下面へ追われる。
ただし、空を生きる者にとって上下は、権力より先に事故の方向だった。
翼亀トルカの腹へ吊られた図書館では、下へ行くほど空へ近づく。
そして最も低い部屋では、天井の向こうに雲海があった。
「行く必要がありません」
ティアが言った。
「ある」とハル。
「金具は回収しました。切断面らしき箇所は外側から証羽へ記録済みです。内部へ入る追加利益が、危険を上回りません」
「子供が出入りしてる」
「推測です」
「ミミの靴下に、棚下の白い粉が付いてた」
全員がミミの足元を見る。
少女は反射で靴下を後ろへ隠した。
左右から栞が三本ずつ飛び出ている。
「これは本を読んだ粉」
「本は粉を出さない」とハル。
「古い本は出す」
「壁の補修粉と同じ色だった」
「色だけ?」
「匂いも」
「嗅いだの?」
「ノクスが」
ノクスは突然証人へ任命され、迷惑そうに耳を伏せた。
「ノゥ」
「肯定?」とアデル。
「たぶん」とハル。
「本人の発言を、都合のよい副詞で補わないでください」とセレナ。
「じゃあ、ノクス」
ハルは二種類の布を床へ置いた。
一つは外壁補修材を拭った布。もう一つは、ミミの靴下から落ちた粉を付けた紙。
「同じなら右、違うなら左」
ノクスは右へ行き、布を踏み、そのまま紙の上で丸くなった。
「同じ?」
「寝床として同じ評価をしただけかもしれません」とセレナ。
「じゃあ、調べるしかない」
「論理の誘導が雑です」
「結論は合ってる?」
「調査手段としては、条件つきで」
ティアがミミへ向き直った。
「フォルドさん。補修面の内側へ入ったことがありますか」
「入ったって言ったら?」
「危険箇所を確認します。罰を決める前に、入った理由と、他に誰がいるかを聞きます」
「罰はあるんだ」
「ないとは言いません」
「言う前に逃げた方が得?」
「逃げた場合、捜索が必要になります。あなたの選択肢を狭めたくありません」
ティアの言葉は硬い。
硬いが、前の巻より角度が違った。
規則を突きつける前に、相手が答えられる足場を置いている。
ミミは葉形の小翼を一枚ずつ畳んだ。
「私だけじゃない。バルとネネも」
「現在、どこに」
「昼鐘のあと、秘密の閲覧室」
アデルの顔色が変わった。
「秘密の何?」
「閲覧室」
「秘密の部分より、閲覧室の方を正式名称のように言わないで」
「本があるから」
「本を置けば部屋が閲覧室になるの?」
「司書長が言った。入口は複数あるって」
アデルは自分の言葉へ敗れた。
司書は本の引用に強いが、自分の発言を引用されると逃げ場がない。
「場所を案内してください」とオルト。
「狭いよ」
「何人入れる」
「子供なら六。大人は二。ロロは腕を外したら三」
「俺を容積で数えるな!」
「行くの?」
「行く!」
「じゃあ二・五人」
秘密の入口は、十二番棚の返却滑走路にあった。
甲羅上から送られた本が、羽を開いて分類窓へ入る。その風路を整えるため、壁の中には細い整流空洞が走っている。通常は保守員だけが入る場所だが、一枚の格子だけ留め具が逆向きだった。
「誰が外した」とアデル。
「最初から外れてた」とミミ。
「最初から、とはいつ」
「私が見つけた時」
「それを最初とは呼びません」
「私の最初」
子供は時間を自分から数える。
行政は記録から数える。
両者の“最初”が違う時、たいてい先に叱られるのは記録を持たない方である。
マオが格子前の床を測った。
「幅、四十七指。私は通れる。装具の外側が二指擦る」
「外す?」と保守員。
「先に聞いたのはいい。答えは外さない。通路側へ布を貼って」
「布なら摩擦が増えます」
「滑り布。腰を押さない。工具帯だけ、私が渡す」
保守員は頷き、言われた通りにした。
マオは誰かの助けを拒んでいるのではない。助けの主語を自分へ戻そうとしている。
オルトが人数を数える。
「先行、ミミ、ノクス、ピコ。次、マオ、ハル。後方、エリア、俺。ロロは別の保守口から構造を追う。ティア、セレナ、アデルは中央で荷重監視」
「私も現場へ」とティア。
「右膝。狭所で旋回した場合、退路を塞ぐ」
「十五分以内なら」
「今日はすでに外壁点検で十二分立っている」
ティアの唇が一語分だけ固くなる。
「……監視へ回ります」
前なら、痛みを否定しただろう。
今日は条件を聞き、役割を変えた。
その変化を褒めれば、彼女は“当然です”と言う。だから誰も褒めず、マオだけが小さく親指を上げた。
「ハル」とエリア。「方角表示を替えるわ」
彼女は通路壁へ、北南の文字ではなく、甲羅、雲、本、鐘の四つの印を貼った。
甲羅側。雲側。目録室側。本の流入口側。
「回転したら?」
「印そのものは動かない。あなたが見る順番を決めて。甲羅、鐘、本、雲」
「なんでその順」
「あなたが唱えやすい音数」
「気を遣った?」
「誤進入を減らした」
「ありがとう」
「受け取ります」
マオが先へ入る。
「礼の手続き、まだ続いてる」
「期限を決めてないから」とハル。
「危ない暫定」