第56話 第四章「逆さの閲覧室」後編

 整流空洞の中では、本の羽音が壁を通って聞こえた。

 ぱた、ぱた、ぱた。

 紙の鳥が何百羽も、薄板一枚の向こうを飛んでいる。

 通路は途中で下へ折れた。

 正確には、トルカの腹から遠ざかる方向へ折れる。重力に従えば下だが、建物の設計図では“外側”と呼ばれていた。

 ハルは梯子を降りた。

 左肩へ荷重をかけないよう右手中心。足を一段ずつ確かめる。昔なら、早く降りることが怖くない証明だと思っただろう。

 今は、遅くても進めると知っている。

「一、二、三」と小さく数え、最後の段から床へ移る。

「数えた」とマオ。

「跳ぶ時だけじゃない」

「落ちる時も?」

「落ちる前に数えられたら」

「三までに止める」

 その先で、床が終わった。

 雲が見えた。

 透明な天井板の向こうに、白い海が広がっている。天井が雲海へ向いていた。彼らは、その天井の上――建物の内部から見れば天井裏――に立っている。

「逆さ」とハル。

「私たちは床に立っている」とエリア。

「天井の上の床」

「保守床」

「正確な名前は、驚きが減る」

「驚きで足場は増えない」

 透明板の下を、本が一冊飛んだ。

 読者から見れば天井の向こう。雲海から見れば、図書館の最下層。

 狭い空間の中央に、毛布、空箱、吊り灯、乾燥果実の袋があった。子供たちが作った秘密の読書場所である。古い貸出禁止本が八冊、修理待ちの絵本が十一冊。壁には、読んだ本の題名を線でつなぐ“物語地図”が描かれていた。

「ここ、いいな」とハル。

「褒めるな」とアデルの声が通信管から飛ぶ。

「聞こえてた」

「中央から全部聞いています」

「秘密の意味が弱い」

「秘密の場所ほど通信設備は必要です」

 毛布の奥から、二人の子供が顔を出した。

 バルは十一歳。茶色い広翼を背中へ畳み、胸に三冊の冒険譚を抱えている。ネネは七歳。まだ自力で長く飛べず、紙で折った小さな滑空機を両手に持っていた。

「大人来た」とバル。

「大人じゃない」とハル。

「背が大人」

「年は十五」

「中途半端」

「おまえら、言葉が全部司書だな」

 ネネがハルの赤いマフラーを見た。

「本のしおり?」

「首に挟むには大きいだろ」

「人が本?」

「まだ書き途中」

「結末は?」

「知らない」

「いい本」

 ハルは、少しだけ言葉を失った。

 ネネは、紙飛行機をハルの膝へ置いた。

「この本、途中まで読んで」

 渡されたのは、表紙の半分がなくなった絵本だった。

 題名も欠けている。最初のページには、翼の小さな鳥が群れから遅れ、最後の見開きだけ、知らない町の窓辺で眠っている。

「途中がない」とハル。

「修理待ち」

「結末はある」

「そこが好き」

「途中がなくても?」

「途中は考えられる。最後がないと、ずっと落ちてる」

 バルが横から言った。

「最後を先に読むのは反則だ」

「本に規則書いてない」

「物語の規則!」

「誰が決めた?」

 子供三人が同時にハルを見た。

「俺じゃない」

「いつもそれ言う人」とミミ。

「著作権を主張される前に否定する」

 秘密の読書巣には、正式な図書館にない読み方があった。

 終わりから読む者。

 挿絵だけをつなぐ者。

 一冊を三人で分け、同時に別の章を読み、あとで内容を交換する者。

 声に出すと恥ずかしい恋愛譚を、風音の大きい日だけ読む者。

「ここへ来る理由は?」とマオ。

「静かだから」とバル。

「十二番も静か」とマオ。

「大人の静かと違う。咳すると見られる」

 バルの広い翼は、狭い閲覧席で椅子へ当たりやすい。動くたび棚が鳴り、司書が悪い顔をしなくても、近くの読者が振り返る。

「ここなら翼を広げても、本が怒らない」

「本は怒らない」とアデルの声。

「人が本の代わりに怒る」

 通信の向こうで、アデルが黙った。

 ネネは、甲羅町の幼年棚では紙飛行機を取り上げられると言った。人へ当たるからである。禁止の理由は分かる。だが、飛ばさずに折るだけでも、係員は“また飛ばすかもしれない”と袋へ入れさせた。

「ここだと、雲へ向けて置ける」

 ミミは、古い綴りの本が十二番棚の高い段へまとめられ、昇降脚立の利用年齢に達していないからだと言った。

「頼めば取ってくれます」とアデル。

「何冊?」

「必要な数」

「毎日?」

「係員がいれば」

「いない時は?」

「待ってください」

「読みたい時が、係員のいる時だけになる」

 入口はある。

 頼む方法もある。

 だが毎回頼む側だけが、必要性を説明し、相手の忙しさを測り、断られた時に笑わなければならない。

 制度上は利用可能でも、利用するたび小さな許可を求める場所は、自分の場所になりにくい。

「だから格子を外した?」とティアの声。

「最初から外れてた」

「通った?」

「通った」

「危険だと知っていた?」

「少し」

「少し、とは」

「落ちたら死ぬくらい」

「それは最大です!」

 ティアの声が通信管で裏返った。

 彼女の規則欲は、怒りより先に恐怖から生まれる時がある。

「閉鎖するだけじゃ、別の場所を探す」とマオ。

「まず閉鎖は必要です」とティア。「構造確認まで」

「期限」

「本日の日没までに仮閲覧場所を設置。三日以内に、子供を含む利用者会議。恒久設備の設計期限は――」

「待って」とアデル。「私の図書館です」

「だからあなたが期限を決めてください」

 押しつける代わりに、空欄を渡す。

 ティアはその方法を、まだぎこちなく使った。

 アデルは少し考えた。

「仮場所は今日。会議は明日。設計案は七日。工事期限は費用を見て決める。閉鎖理由、代替場所、再開条件を同じ札へ書きます」

「私たちも書く?」とミミ。

「書いてください」

「難しい言葉はマオが直す」

「本人の許可を」とマオ。

「直して」

「受けた」

 危険な秘密基地は、秘密だったから愛されたのではない。

 正式な場所が、自分たちの読み方を受け入れなかったから必要になった。

 危険を美談にすれば、次の子供が同じ穴へ入る。

 禁止だけにすれば、次の穴はもっと見えなくなる。

 ハルは欠けた絵本をネネへ返した。

「途中、どうなったと思う?」

「鳥が地図をなくした」

「俺と同じ」

「でも窓へ着いた」

「俺より先」

 エリアが横から言った。

「地図をなくしたのではなく、別の目印を使った可能性もあるわ」

「絵本へ正確さを持ち込む?」

「途中がないなら、仮説は複数です」

「じゃあエリアも読む?」

 ネネが聞く。

 エリアは一瞬、答えを整えようとした。

「読むわ」

 短く答え、子供たちの毛布へ膝を付いた。

 白い学院服の裾が、補修粉で汚れる。

 彼女は気づいたが、払わなかった。

 エリアが物語地図へ近づく。

「誰が描いたの」

「みんな」とミミ。「読む順番で道が変わる。主人公が帰る話は甲羅側。帰らない話は雲側」

「正確ではないけれど、いい地図ね」

「正確じゃないのに?」

「目的が違う。これは場所ではなく、選んだ順番を残す地図だから」

 エリアの歩幅が半歩大きくなっていた。

 未知の地図を見つけた時の癖である。

「持ち帰ってもいい?」

「だめ」

「写しても?」

「何をくれる?」

「地図紙」

「何枚」

「十枚」

「十二」

「十一」

「十三」

「増えた」

「存在しない分」

 エリアは笑いそうになり、右手で口元を隠した。

「十三枚。取引成立」

「公爵令嬢が十歳に値切り負けた」とハル。

「資料価値を再評価したの」

「負けを長く言った」

 ノクスが、毛布の下へ鼻を入れた。

 二本尾が別方向を指す。

「何かある?」

 毛布をどけると、透明天井板の端に、赤い布が挟まっていた。

 新しい毛布の赤ではない。色が抜け、ところどころ黒く焦げている。布は補修材の中へ練り込まれ、壁と天井の継ぎ目を塞いでいた。

「触らない」とセレナの声。

「まだ触ってない」

「あなたは触る直前ほど素直に返事をします」

「信用が具体的」

 エリアが光を当てる。

 赤布には、白い線が二本。

 救難隊の古い識別布だった。オルトが通信越しに低く言う。

「十四年前まで使われた落下班の肩布。現在は赤地に三線だ」

「なんで壁の中に」とハル。

「補修材が足りない時、布へ樹脂を染み込ませて塞ぐことはある」とロロの声。「だが救難布は、人を包む。壁へ入れるなら、他に材料がなかった時だけだ」

 マオが床の傾斜を足裏で測った。

「ここ、水平じゃない」

「トルカが動いているから」とミミ。

「違う。動きの平均より、雲側へ三度落ちてる」

 ハルは壁を見た。

 補修線は扉の形をしていない。

 縦に一つ、横に一つ。巨大な面を切り取り、あとから塞いだような直線だった。

「隠し通路じゃない」とエリア。

「通れる幅がない」

「ここに壁があったんじゃなくて、ここから先があった」

 ミミが首を傾げる。

「先は雲だよ」

「今は」

 ハルは、赤い布の端を見た。

 十四年前の救難布。

 十三番に使われた救難合金。

 七番と八番の間の鎖跡。

 四千八百二十キロの消えない重さ。

 物がなくなった場所には、空白が残る。

 空白が残らないよう塞ぐと、今度は塞いだ材料が残る。

「セレナ。ここ、切断面かもしれない」

「“かもしれない”まで記録します。断定しないでください」

「断定しない。調べる」

 ピコが、壁の上へ飛び乗った。

「ピ」

「待て」

 磁石嘴で小さな留め具を引く。

「ピコ、引くな!」

 留め具は抜けなかった。

 代わりに、壁の奥から低い音がした。

 ごうん。

 トルカの心音ではない。

 何千キロもの重さが、遠い梁から別の梁へ移った音だった。

 マオの顔が上がる。

「傾き、増えた」

 通信管で、複数の声が重なった。

『右前翼、予定外上昇!』

『風路師、圧鐘を打っていません!』

『甲羅町西側、樹冠が倒れています!』

 アデルの声が鋭くなる。

「トルカが旋回しています。全区画、窓を閉じて。返却風路停止!」

 部屋が傾く間、透明天井の向こうでは、返却中の本が風路を外れた。

 一冊は雲側へ。

 一冊は甲羅側へ。

 三冊は互いの羽を噛み、空中で回る。

 図書館にとって本は蔵書である。

 非常時には、飛来物である。

 同じ物が役割を変える時、人間は名前を変えるのが遅い。

「本風路を完全停止!」とアデル。

『停止弁が戻りません!』

「十二番手動弁へ!」

『通路が傾いて届かない!』

 ハルたちのいる秘密巣は、その手動弁の裏側にあった。

「位置は?」とハル。

「鐘印から雲側へ六歩」とエリア。「ただし現在の床では壁面」

「六歩じゃ歩けない」

「手の届く梁を三つ。甲羅、鐘、赤布」

 赤布。

 補修線の中へ埋まった古い救難布が、傾きで露出していた。

 そこを掴めば、証拠を傷つける。

 掴まなければ、本が子供へ飛び込む。

「セレナ!」

「人命優先。掴んでください。接触前の状態は記録済み」

 証拠保全は、人間を証拠のために危険へ置く規則ではない。

 何を変えたかを残し、必要な変更を許す手順だった。

 ハルは右手で赤布を掴んだ。

 布は樹脂ごと剥がれ、壁の奥から黒い空洞が一指分開く。

 風が吹いた。

 現在の整流風ではない。

 古い油、焦げた紙、金属の錆。十四年間閉じていた空気が、細い傷口から吐き出される。

 ノクスの尾が初めて震えた。

 一度。

 短く。

「約束の匂い?」

 ノクスは空洞へ鼻を寄せ、低く唸った。

 誰の約束かは分からない。何を約束したかも分からない。ただ、この切断面の内側で、何かが破られた痕だけが残っている。

「答えにするな」とセレナ。「位置だけ記録します」

「分かってる」

 ハルは梁を一つ進む。

 左肩は使わない。右手、腰紐、右膝。次の梁へ。

「一、二――」

 三を言う前に、足元が滑った。

 エリアの地図線が手首へ巻く。

 引き上げる力はない。だが、次の掴み場所を光で示す。

「鐘印から一腕、雲側!」

 ハルは光の先へ右手を伸ばし、弁輪を掴んだ。

「回す方向!」

「現在の表示では閉鎖が甲羅回り!」

「今の甲羅回りって?」

「あなたから見て右!」

「最初からそれで!」

 弁輪は固い。

 左手を添えれば回る。

 添えれば、肩が外れるかもしれない。

「マオ、足場を一拍!」

「先に言った。使う!」

 足裏の三角光が、今度はハルの右靴の下へ生まれた。

 一拍だけ、身体が壁へ固定される。

 右手だけで弁輪を回す。

 半回転。

 一回転。

 風路弁が閉じた。

 本の群れが、透明板へ当たる直前で流れを失う。

 ばらばらと安全網へ落ちた。

「閉鎖確認!」とアデル。

 マオの術が切れる。

 ハルの身体が滑る。

「腰紐!」

 今度は先に叫んだ。

 マオが自分の腰紐を梁へ巻き、ハルの紐を足で押さえる。エリアが二人の退路を光でつなぐ。

「言えた」とマオ。

「褒める制度は」

「ない。生きてから言う」

 彼らは一人ずつ、梁へ戻った。

 壁の一指分の裂け目から、赤い繊維がさらに見えた。

 布の奥には、折り畳まれた金属の筒がある。

 現行の壁材ではない。ロロが見つけた救難合金と同じ赤黒い色。

「機構が残ってる」とハル。

『触るな!』とロロ。

「見ただけ」

『おまえの“見ただけ”は、毎回部品が一個増える!』

「今回は壁が勝手に」

『事故の言い訳へ勝手を使うな!』

 揺れの向こうで、ロロの声が速くなる。

 姿勢盤を読んでいる。

 十二区画の荷重が、一つの旧受けへ集まっていく数を、怒鳴りながら追っている。

 ぱたぱたと聞こえていた本の羽音が、一斉に乱れた。

 透明天井の向こうで、本の群れが渦を巻く。

 トルカの巨大な身体が左へ傾き、腹側図書館は振り子になった。

「固定!」とオルト。

 ハルは右手で梁を掴む。

 マオが宣告した。

「足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉。一拍、止める!」

 星色の三角が彼女の右足下へ灯る。

 床へ靴底が噛み、身体が止まる。だが、装具の左側は半拍遅れた。ハルは腰紐を引き、肩へ触れず彼女を壁側へ寄せる。

「いま触った?」

「腰紐」

「先に言って」

「言う暇なかった」

「次は言え!」

 エリアの地図線が壁へ走る。

「甲羅、鐘、本、雲! ハル、順番を見て!」

「甲羅、鐘、本、雲!」

 部屋が九十度近く傾いた。

 秘密の閲覧室の毛布と本が、透明天井へ滑る。バルがネネを抱え、ミミの六枚翼が開く。子供の翼は狭所で風を受けすぎ、身体を壁へ持っていかれた。

 ハルが右腕を伸ばす。

 一、二、三。

 ミミの手首ではなく、腰の命綱を掴む。

 左肩へ衝撃が走った。古い砂が、今度は石を噛んだように鳴る。

「ハル!」

「大丈夫!」

「正確に!」とエリア。

「痛いけど持てる!」

 正確な言葉は、強がりを許さない。

 だが、動ける限界を仲間へ渡す。

 オルトが七拍の一時号令を出す。

「聞け。七拍だけ、鐘側の梁へ寄せる。七拍後、各自の固定へ戻す。復唱!」

「七拍、鐘側!」

 一拍。

 マオがネネの足場を止める。

 二拍。

 エリアが最短線を描く。

 三拍。

 ハルがミミを引く。

 四拍。

 バルが本を捨て、両手を空ける。

 五拍。

 ノクスがネネの服を噛む。

 六拍。

 ピコが天井灯へ磁石嘴を掛ける。

 七拍。

「各自の固定へ!」

 全員が梁へ収まった。

 だが、揺れは止まらない。

 中央監視盤で警報鐘が鳴る。

 透明天井の縁に、細いひびが走った。

 ロロの声が通信管を裂いた。

『七番と八番の間へ荷重が集まってる! 現行十二棚の配分じゃねえ! そこ、十三番相当の受けへ全部来る!』

 アデルが叫ぶ。

「そんな受けはありません!」

『だから壁が受けてんだよ!』

 赤い救難布を混ぜた補修線が、音を立てて沈んだ。

 トルカは予定外の旋回を続けていた。

 十二の棚を支える力が、存在しない十三番の場所へ集中していた。