第57話 第五章「借りた者のいない貸出印」前編
印章は、手を省くために作られた。
人間は一日に同じ文を何度も書けない。受理した、許可した、返却された、ここにいた。そこで木や金属へ文字を刻み、一度押すだけで判断を複製する仕組みを作った。
判断は速くなった。
責任も速くなったかといえば、そうではない。
印を押した者は、しばしば言う。
自分は文章を作っていない、決められた場所へ押しただけだ、と。
印を押された者は、しばしば言えない。
紙の上で決められた自分が、実際には何をしていたかを。
トルカの旋回は、六分十七秒で収まった。
甲羅上の風路師が左後脚の圧点へ逆鐘を当て、町の貯水槽から三百リトルの水を反対側へ移す。図書館では、利用者を甲羅側の避難廊下へ集め、重い本を床留めへ固定した。
巨大な生き物へ建物を載せるということは、都市計画へ心臓と痛覚を加えることである。
橋なら、なぜ傾いたかを聞く必要はない。
亀なら、今日はどこが痛いかまで考えねばならない。
「右前翼の筋硬直」とアデルが報告した。「午前の予定翼動を早めた影響かもしれません」
ロロの補助腕が四本とも止まった。
「俺の計測のせい?」
「断定はしていません。風路師は許容範囲と判断しました。トルカは昨日から右眼の瞬きが多く、気圧変化もあります」
「許容範囲ってのは、壊れなかったあとに広がる言葉だ」
「あなたの計測だけを原因にするのも不正確です」
「原因の一個ではある」
「一個なら、他も調べます」
アデルは責めなかった。
責めないことが慰めになるとは限らない。ロロは責められれば修理代を出し、怒鳴り返し、手を動かせる。複数原因の一つとして扱われると、自分だけで直す出口が塞がる。
「トルカの翼、俺も見る」
「まず呼吸を戻してから」とオルト。
「戻ってる」
「文の途中で二回吸った」
「数えるな」
「人数と呼吸は数える」
ロロは薬筒を一吸いし、二吸い目をしなかった。
オルトは何も言わず、筒の残量を記録した。
秘密の閲覧室から救出された三人の子供は、中央休憩室へ集められていた。バルは本を三冊捨てたことを悔やみ、ネネは紙飛行機の折れた翼を直している。ミミは、叱られる順番を予測するように椅子へ正座していた。
「規則違反はあります」とティア。「ただし、危険区画へ入れた物理条件、利用可能な静かな学習場所の不足、保守格子の点検不備を先に調べます」
「罰なし?」とバル。
「まだ決めません」
「大人は“まだ”って言って、忘れた頃に罰を持ってくる」とミミ。
「では期限を置きます。明日の昼鐘までに、処分ではなく再発防止案を三者で決めます。あなたたち、図書館、学院委員」
「子供も決める?」
「あなたたちが使った場所です」
「使っちゃだめな場所」
「使ってはいけない理由を、使った人を外して決めることはしません」
ミミはティアを長く見た。
それから、椅子の上で足を組み替えた。
「じゃあ、入口を塞ぐだけはだめ」
「理由は?」
「別の秘密入口を探すから」
「正直ですね」
「見つけるの得意」
「威張らないでください」
ティアの声は厳しかったが、右親指は剣の目盛りをなぞらなかった。
ロロは貸出印を分解した。
許可は取った。
正確には、許可申請書へ「非破壊分解」と書き、アデルに「分解は破壊の前段です」と訂正され、「復元可能な範囲で構成部品を分離」へ直し、セレナが部品数と向きを証羽へ記録した後である。
「名前を長くすると、やってることが安全になるのか」とハル。
「ならねえ」とロロ。「失敗した時に、どこから失敗か分かる」
「長い名前、役に立つんだ」
「おまえは短くしすぎ」
「走る」
「何をどこへ何のために!」
「ほら、聞けば長くなる」
「聞かせる前提で省くな!」
作業台へ白布を敷く。
外輪、内輪、文字輪、数字輪、ばね、軸、印材槽。
ピコは天井梁へ隔離され、磁石嘴へ革の覆いを付けられていた。
「ピ……」
「被害者みてえな声出すな。前科が現在進行形だ」
ノクスも机から二歩離された。
証拠布を寝床へした前科がある。
「ノゥ」
「おまえら、態度だけは共同弁護だな」
ロロは数字輪を拡大した。
一から十二は、現在の共通空語数字。十三だけ字体が古い。しかも数字の周囲へ、肉眼では傷にしか見えない小文字が一周している。
「ミミ」
口から名前が出た後で、ロロは後悔した。
十歳の少女は即座に机へ来た。
「呼んだ?」
「字を読めとは言ってねえ。横に来い」
「横で読む」
「俺が先に読む」
「間違いを先に?」
「正解を確認する!」
ミミは椅子へ座らず、机の脚へ背を預けた。翼が椅子の背へ当たるかららしい。アデルが低い背なし椅子を持ってくると、ミミは一度見て、自分で位置を決めた。
ロロは小文字を追う。
「『第十……三落……下……班』」
「合ってる」
「合ってる?」
「第十三落下班」
ハルが数字輪を覗く。
「本棚じゃない」
「班番号」とティア。
「救難班です」とオルト。「古い王都式。落下事故では、集結点と班へ同じ番号を使った」
ロロは内輪を回した。
『貸出』『返却済』『延長』『館内』。
現在の図書館用語に見える。だが『返却済』の文字だけ、彫りが深く、材質も違った。
「継ぎ足しじゃねえ。元からある字を削って、上へ打ち直してる」
「元の文字は読めますか」とセレナ。
「斜光」
光を横から当てる。
削り跡の底へ、古い線が残っていた。
ミミが目を細める。
「“帰隊済”」
「返却じゃなくて、隊へ帰った」とハル。
「人間の点呼印」とマオ。
ロロは、机へ三十一枚の利用者札を並べた。
借りた物の記録はない。
十三の数字。
返却済の文字。
十四年前の日付。
「こいつらは本を借りたんじゃねえ」とロロ。「事故の時、十三班の集結点へ来た。誰が戻ったか、利用者札を使って数えた」
「なぜ図書館の札を?」とアデル。
「ここにいた人間が全員持ってる識別札だったから。新しい名簿を作る時間がなかった」
「それなら、本人たちが覚えていないのは」
「十三番書架へ入った記憶を聞いたからだ。入ってねえ。十三番は班か集結点だ」
ハルが、昨日の通信羽を思い出す。
「“その日は図書館へ行ったか覚えてない”」
「事故の最中なら、図書館へ本を借りに行ったとは思わねえ。避難した、運ばれた、甲羅へ上がった。聞き方が間違ってた」
セレナが羽を伏せて置く。
「再聴取は、事故の存在を断定せず行います。誘導を避けるため、当日の行動を自由回答で」
「全員へ一度に聞く?」とティア。
「先に個別。回答共有は後です」
「記憶を疑うんじゃなくて、質問を直す」とハル。
「最初からそうしてください」
「俺、最初に場所を借りたんじゃないかって言った」
「発想と手順を同じ功績へまとめないでください」
「半分」
「三分の一」
「値切るんだ」
ロロは印の軸を布へ戻した。
「まだ終わってねえ」
外輪の底に、赤黒い粉が残っている。
彼は薬皿へ一粒落とし、青い試液を垂らした。粉が紫へ変わる。
「赤砂銅、星鉄、耐熱樹脂。昨日の金具と同じ系統」
「印も救難装備だった」とエリア。
「同じ工房か、同じ規格。図書館があとで貸出印へ流用した」
アデルは、信じられないというより、信じたくないものの位置を正確に測る顔をした。
「当館の初回印は、百年以上使われた由緒ある備品と教えられてきました」
「由緒はある」とロロ。「使い道が違っただけ」
「なぜ、救難印だと伝えなかったの」
「伝えられなかったか、伝えた奴がいなくなったか、伝える記録を誰かが止めた」
“誰か”のところで、ティアの視線が微かに動いた。
まだ父の名は出ていない。
だが、学院から来た十三番参照には、王国の古い事故管理番号が付いていた。
印の構造を確かめるため、ロロは同じ径の木輪を削った。
「本物で試さないの?」とミミ。
「証拠で遊ぶな」
「さっき分解した」
「記録して戻した。動作試験は複製でやる」
「慎重」
「周りが雑だから!」
六番棚の修復卓へ、古い設計図、現行貸出印、複製木輪が並ぶ。
ロロは数字輪の裏へ、薄い板ばねを一本入れた。十二の次まで回すと、通常なら止め爪が軸へ当たる。だが押圧を強くし、外輪を半回転戻してから再び押すと、隠れた十三が前へ出た。
「偶然?」とハル。
「偶然で出るには手順が多い」とロロ。「急いで連続点呼する時の操作だ。押して、戻して、次へ。人を一人ずつ数える動きなら自然に十三へ入る」
木版へ、試し印を押す。
一回目。
『十三/帰隊済』
二回目。
ばねを逆へ組む。
『十三/未帰隊』
現在の貸出印には『未帰隊』の文字輪がない。
削り取られた跡だけが、内軸の反対側へ残っていた。
「何で消す」とマオ。
「貸出用へ転用するなら、要らねえから」
「“未返却”へ変えなかった?」
「人へ押した言葉を、本の延滞へ使うのが嫌だった奴がいたか、単に摩耗がひどかったか。理由までは分からねえ」
セレナは、分からない部分を別の羽へ記録した。
「推測欄と事実欄を分けます。元文字が存在した痕跡は事実。転用者の感情は不明」
「でも、帰隊済だけ返却済にした」とハル。
「字形が近いから加工費が安い」とロロ。「帰を返へ。隊を却へ。済はそのまま」
「人が帰った印を、本が返った印にした」
「道具は悪くねえ。使い道を変えただけだ」
ティアが複製印を見た。
「道具の来歴を記録しなかったことが問題です」
「由緒ある備品、とだけ伝わった」とアデル。
「嘘ではない」とハル。
「嘘ではない説明が、最も長く誤解を残すことがあります」とセレナ。
アデルは初回利用者台帳を開いた。
印を使った司書名が、世代ごとに並ぶ。誰も十三輪の存在へ注記していない。貸出印へ転用された時点の担当者は、十四年前の事故後に臨時採用された者で、その年の冬にトルカを降りている。
「その人へ聞く?」とハル。
「死亡しています」とアデル。「六年前、地上病で」
「じゃあ、死人が全部知ってたことにすれば簡単」とマオ。
「しません」とセレナ。
死者は反論しない。
だから記録の穴へ置く犯人として便利である。
便利な犯人ほど、証拠が少なくても物語へ収まりやすい。
「転用指示書は?」とティア。
「備品台帳には、『救難局払下げ品を初回貸出印へ改修』だけです」
「救難局の払下げ一覧」
「事故年から三年分が、王国封印の対象」
また、封印だった。
鍵が一つ見つかるたび、鍵穴の数が増える。
ハルは複製木輪を回した。
十三で止まる。
「三十一人へ帰隊済を押したなら、押されなかった人もいる?」
室内の空気が変わった。
ロロは木輪を取り上げる。
「まだ人数は分からねえ。点呼対象の総数がない」
「全員帰ったから、帰隊済だけ残した可能性も」
「ある」とセレナ。「未帰隊印の痕跡だけで、未帰隊者の存在は確定できません」
「じゃあ、何を探す?」
ティアが答えた。
「点呼を始める前の名簿。救難班の編成表。利用者の入館記録。どれか二つ以上が一致すれば、総数を比較できます」
「全部、封印の中?」
「一部は図書館の日常記録にあるはずです」
アデルが入館用の風鈴帳を持ってきた。
当時は利用者が入るたび、札番号に応じた小鐘が鳴り、機械筆が紙へ刻んだ。事故日の巻紙だけ、途中で焦げ、後半が欠けている。
「事故で焼けた?」
「そう記録されています」
「焼けた範囲を測る」とロロ。
焦げは、外側からではなく巻き芯側から始まっていた。
火事で棚ごと焼けたなら外層が強く焦げる。これは、巻き取った記録へ熱い金属が中心から触れた形だった。
「故意?」とハル。
「故意か、熱を持った軸を巻いたまま放置したか」とセレナ。「二択にも限定しません」
焦げた紙の端に、最後の番号が残っている。
三十一ではない。
もっと後の番号の一部。
百の位はない。
十の位は、四か五。
一の位は焼けている。
「少なくとも四十人以上、入館してた」とハル。
「入館者全員が点呼対象とは限りません」とティア。
「でも帰隊印は三十一」
「差がある可能性、までです」
可能性は、人を救わない。
だが人を勝手に死者へしないためにも、必要だった。
ロロは焦げ巻紙を見つめた。
四本の補助腕が、一本ずつ机へ下りる。
「点呼箱を探す。印だけ残して、札を入れる箱がねえのは変だ」
「どこに?」とミミ。
「十三班が集まった場所」
「十三番書架?」
「まだ棚とは限らねえ」
「字の弱い慎重な機関士」
「形容詞を増やすな!」