第58話 第五章「借りた者のいない貸出印」後編

 再聴取は、午後から夕方にかけて行われた。

 三人目の再聴取で、質問の危険が出た。

 当時十六歳だった女性は、現在、甲羅町で翼布を織っている。最初の照会には『十三番を知らない』と返した。自由回答で音を聞くと、彼女はすぐ言った。

「爆発音です」

「何が爆発しましたか」と若い書記が聞く。

「七番棚の炉」

 書記の筆が動く。

 セレナが止めた。

「炉が爆発したと、当時見ましたか」

「見てはいない。みんなそう言ってた」

「いつ、誰から」

「翌日の掲示板。風路事故で、炉圧が上がったと」

「あなたが覚えている音を、いま“爆発音”と呼んだ理由は?」

「爆発だったと教わったから」

 記憶が嘘なのではない。

 後から与えられた説明が、音へ名前を付けていた。

 ロロが六番棚の炉記録を示す。

「当日、炉は停止中。圧力零。爆発できねえ」

「じゃあ、私は何を聞いたの」

「分かりません」とセレナ。「鎖の破断、梁の衝突、圧鐘、複数の可能性があります」

「私、間違ってた?」

「音を聞いた事実は否定しません。原因の説明が、後から混ざった可能性を分けます」

 女性は、ほっとしたようにも、余計に不安になったようにも見えた。

 自分の記憶が全部正しいと思えないのは怖い。

 全部嘘だと扱われるのは、もっと怖い。

 次の証人は、聴取そのものを断った。

「十四年も忘れて暮らした。今さら開けるな」

 扉越しの声だった。

 セレナは質問を重ねなかった。

「拒否を記録しますか」とティア。

「本人の希望を確認します」

 扉の向こうへ聞く。

「聴取を断った事実を、調査記録へ残してよいですか。氏名は非公開にできます。断ったこと自体を残さない選択もあります」

 長い間があった。

「名前なしで、“断った者がいた”だけ」

「承りました」

 ハルが小声で言った。

「話さないと、真相へ協力してないことになる?」

「なりません」とセレナ。「被害を受けた可能性がある者に、社会の理解のため再体験を義務づけない」

「でも証言が足りなくなる」

「足りないなら、足りない証拠で書きます」

 真相は、当事者の傷を公共燃料として燃やせば速く出る。

 速く出た答えの費用を、誰が払ったかは記録されにくい。

 別の証人は、話したいが家族へ知られたくないと言った。

 事故当時、図書館へ来ていたことを隠していた。親に禁じられた恋人と会うためだったという。

「事故と関係ある?」とハル。

「場所と時刻の証言には関係します」とセレナ。「恋人の氏名は関係しません」

「でも、どうしてそこにいたか聞かないと信用できない」とティア。

「私が確認し、公開記録では理由を秘匿します。必要なら独立証人を一名追加」

 ティアは少し考えた。

「私が全部知る必要はない、と」

「調査委員であることは、他人の私生活へ無制限に入る鍵ではありません」

 証人は、七番と八番の間にあった“赤い底の広い部屋”で待ち合わせたと語った。

 本棚は少なく、壁には折り畳み布、床には番号線。普段は閉じているが、祭日だけ臨時閲覧室として開いたことがある。

「棚というより、広間?」とエリア。

「本はあった。救急法、天候、翼の畳み方。読む人はいなかった」

「避難設備を平時に閲覧室へ使った」とロロ。

「赤い底」とハル。「救難布」

 証人は、警報後に恋人と離れた。

 自分は赤服の係へ札を渡し、上へ送られた。恋人は“手伝える翼がある”と言って残った。

「その人は帰りましたか」とセレナ。

 扉の向こうで、息が止まる。

「分からない。翌年、別の空域へ移ったと聞いた。私には連絡がなかった」

 調査に必要なのは、その者が点呼対象だったかである。

 証人が十四年抱えてきたのは、捨てられたのか、死んだのか、逃げたのか分からない一人分の沈黙だった。

「名前を、封印して預けますか」とセレナ。「点呼名簿との照合だけに使い、一致しなければ破棄。一致した場合も、あなたの許可なく関係を公表しません」

「死んでいたら?」

「事故記録の扱いを決める場へ、あなたが参加できます。参加しないこともできます」

 証人は名を書いた。

 紙を三つ折りにし、自分で封をした。

 ティアはその封筒を見た。

 情報は、開くか閉じるかだけではない。

 照合だけに使う、名前を伏せる、期限後に破棄する、当事者へ先に知らせる。鍵の使い方は、扉の数より多い。

 再聴取が進むほど、十三番は明瞭になった。

 同時に、そこへいた人々の生活は、単純な名簿から遠ざかった。

 真相へ近づくとは、人を一行へ縮めることではない。

 一行だけでは足りないと知ることである。

 パン屋の老人は、最初の質問では十三番を知らないと答えた。

 今度はセレナが聞く。

「十四年前九月十七日、あなたが覚えている最初の音は?」

「音?」

「場所の名ではなく、音です」

 老人は小麦粉の付いた手を膝へ置いた。

「……鐘。短い鐘が、何度も。いつもの風鐘じゃない。パン窯を消した。母を探した。いや、母はもう死んでいた。妻だ。妻を探した」

「どこへ向かいました」

「下へ……違う、上だ。腹側から甲羅へ。人が多かった。札を出せと言われた」

「誰に」

「赤い布の人。顔は覚えていない」

「札へ何か押されましたか」

 老人は、自分の古い利用者札を見た。

 十三、返却済。

「これが、その時の?」

「可能性があります。あなたは、十三番書架へ入ったのではなく、第十三落下班の点呼を受けたのかもしれません」

 老人は長く黙った。

「なら、私は帰ったんだな」

 返却済という言葉を見て、彼は笑わなかった。

「妻も?」

 その問いに、誰もすぐ答えられなかった。

 名簿に妻の番号はなかった。

 ないことは、死んだ証明ではない。

 ただ、帰隊印のある者だけを並べた記録なら、ない者は別の場所へいたか、数えられなかったか、帰れなかった。

「事故記録を探します」とセレナ。「現時点で結論は言えません」

「事実だけを、か」

「はい」

「事実は遅いな」

「遅くても、他人の死を早く作らないためです」

 老人は頷き、パンを一つ机へ置いた。

「調査代」

「受け取れません」とセレナ。

「なら貸しだ」

「利子が付きます」とアデル。

「司書長、こっち側?」とハル。

 老人は初めて少し笑った。

 染物師は、赤い布の避難員を覚えていた。

 郵便翼手は、幼い自分が図書館の窓から落ちかけ、本を入れる大きな籠へ押し込まれた記憶を語った。

 元保守員の女性は、七番と八番の間で鎖が鳴っていたと証言した。

「何があったのです」とティア。

「知らされなかった」と女性。「修理班は翌朝、甲羅側だけへ集められた。腹側は王国救難隊が封鎖した。私たちは“風路事故、死者なし”と聞いた」

「死者なし」とハル。

「そう聞いた。だから、忘れた。忘れたというより、別の事故だったと思うことにした」

 記憶は消されていなかった。

 記憶へ名前が与えられなかったのだ。

 名前のない出来事は、人の中で孤立する。

 鐘、赤い布、母を探した手、籠の暗さ。それぞれは残っていても、一つの事故として結び直せない。

 エリアが淡い地図線を机へ描く。

「証言を場所へ置きます。パン屋の避難開始は甲羅南通り。染物師は腹側四番棚。郵便翼手は七番連絡廊下。元保守員は八番外壁。すべて同じ時刻帯」

「十三班の動線は、七と八の間へ集まる」とオルト。

「でも事故記録がない」とハル。

「ないのではありません」

 セレナが、記録室の奥を見た。

「閲覧索引に、記録へ残らない不在〈ネガティブ・ログ〉があります」

 索引番号は連続していた。

 九月十六日、通常航行。

 九月十八日、臨時修理。

 九月十七日の欄だけ、番号自体は振られているのに、題名、作成者、保管棚が空白だった。

「空欄なら、なぜ記録があると分かる」とマオ。

「前後の綴じ糸」とセレナ。「十六日から十八日へ直接綴じたなら糸穴は二つ。ここには、一枚を抜いた四つの穴がある。索引頁の重量も一・八グラム不足」

「紙の重さまで測った?」とハル。

「見えない一枚を、見えないままにしないためです」

 ロロは索引箱の裏を叩いた。

 音が一か所だけ鈍い。

「二重底」

「分解権限は」とアデル。

「今度はある?」

「セレナ官」

「封印の有無を先に確認します」

 単眼鏡の光が箱の縁をなぞる。

 薄い透明膜。王国公文書の停止封印だった。

「鍵穴があります」とセレナ。「破損ではなく封印です」

 膜の中央へ、署名が浮かぶ。

『事故年九月十七日付点呼表ならびに付属記録について、遺族通知・治安評価・関係機関照合を完了するまで公開を停止する』

 終了時刻はない。

 解除条件を誰が確認するかもない。

 署名欄に、細い右上がりの字があった。

 ガラン・グランツ。

 当時、王国事故情報補佐官。

 ティアの父の名だった。

 ロロは文字を読むのが弱い。

 だが、その名だけは、誰に教えられなくても読めた。