第60話 第六章「規則の父」後編
停止命令が出ると、調査は止まった。
考えることまでは止まらない。
ロロは「金具の掃除」と称して材質表を眺め、セレナは「既存証拠の保全確認」と称して羽の順番を組み替え、エリアは「避難地図更新」と称して十四年前の証言地点を現在図へ重ねた。
「全員、命令の端を歩いてる」とマオ。
「越えてはいない」とティア。
「端を歩ける人が作った命令」
「父は、抜け道を作ったつもりではありません」
「娘は使うつもり」
「人命保全と構造安定は、現に必要です」
「否定してない。似てると言った」
ティアは返事をしなかった。
ハルは、秘密の閲覧室から持ち出された本を乾燥棚へ戻していた。左肩は医療布で固定され、頭上へ上げないよう言われている。
「借りる前に返した本、どうする」とミミ。
「持って帰る。七日以内」
「道を増やす百の方法」
「十三番目だけ読んだ」
「何て書いてた?」
「“知ってる人へ聞く”」
「普通」
「百個もあると、普通も混ぜないと足りない」
「十四番は?」
「“知らない人にも聞く”」
「逆?」
「違う答えが来る」
ミミは修理待ちの絵本へ布を当てた。
「じゃあ、ガランにも聞けば」
「聞いてる」
「知らない人として」
ハルは手を止めた。
役職へ質問すると、役職の答えが返る。
父へ質問すると、父の答えが返る。
十四年前の若い広報官へ質問できる者は、今はいない。
「夕食に出るらしい」とアデルが言った。「監督官用の客室を用意しましたが、本人が共同食堂を希望しました」
「見張るため?」
「料理の匂いを当てたいのかもしれません」
アデルは真顔だった。
ハルは冗談か判断できず、ガランの台帳を知らないため、半分だけ信じた。
共同食堂へ向かう前、ハルは乾燥棚でガランと二人になった。
正確には、ノクスとピコもいた。
ノクスは本棚の下。ピコは乾燥風車の上。人間の会話へ参加しない二匹ほど、人間の失言をよく聞いている。
ガランは、湿気を抜いた本の背を一冊ずつ確かめていた。
「監督官の仕事?」とハル。
「手が空いている者の仕事だ」
「停止命令したから手が空いた」
「その通りだ」
反論しない相手は、ハルにとって話しにくい。
壁なら蹴れる。扉なら開けられる。自分の失敗を先に認める大人は、どこを押せば動くか分からない。
「ティアへ謝らないの」
「何について」
「膝。十四年前。今日。全部」
「全部を一語で謝れば、何を変えるかが消える」
「じゃあ一個ずつ」
「本人へ聞く」
「父親って、手順がないと謝れない?」
ガランは本を棚へ戻した。
「父親という役割は、誤りを小さくしない」
「でも家族だから許されると思ってる?」
「思っていない」
「家族だから許されない?」
「それも違う」
ハルは配達鞄の留め具を弾いた。
父の話を他人へ聞く時、羅針盤の蓋を触る癖を止めようとして、代わりに別の金具へ逃げる。
「俺の父さんも、帰るって言って消えた」
ガランは驚かなかった。
学院の身元資料で読んでいるからだろう。
「知ってる?」
「記録上は」
「どこまで」
「八年前に失踪。捜索継続。死亡認定なし」
「それだけ?」
「それ以上を、本人の許可なく読む権限はない」
正しい答えだった。
正しいため、腹が立つ。
「父さんが戻ったら、説明を最後まで聞けって皆言う」
「私は言っていない」
「言いそう」
「見た目で証言を作るな」
「ティアの父親だから」
「親子で意見は同一ではない」
「でも、説明を聞いたら許さなきゃいけない感じになる」
言葉が、思っていたより低く出た。
ハルが本気で怒っている時の声だった。
「理由が立派だったら。世界を守ったとか、帰れなかったとか。母さんと俺が待った八年より大きい理由を持ってきたら、怒る方が小さく見える」
ガランは、すぐ答えなかった。
沈黙を規則で埋めない。
「説明は、判決ではない」と言った。
「聞いた者へ許可を強制しない。理由が大きくても、受けた損害は小さくならない。愛していても、共同生活へ戻す義務はない」
「自分にも言ってる?」
「そうだ」
「じゃあ、ティアが父親としては愛してるって言って、監督官を罰するのも両立する?」
「両立する」
「怖い?」
ガランの右手が、空中で署名をなぞった。
「非常に」
初めて、短い答えだった。
ハルは少しだけ驚いた。
「怖いって言えるんだ」
「言葉は知っている」
「使うのが弱い」
「君に評価される筋合いはない」
「俺も古い字が弱いから、ロロへ言えない」
乾燥棚の下から、ノクスが顔を出した。
二本尾は静かだった。
ここに破られた新しい約束はない。
約束そのものが交わされていないからである。
「父親として、ティアへ何を約束する?」とハル。
「今は約束しない」
「逃げ?」
「実行手順のない約束を増やさない。停止命令を期限内に見直す。膝の記録を本人の条件で訂正する。事故資料を提出する。まず行動する」
ハルは母の言葉を思い出した。
実行手順のない約束は寝言だ。
「母さんと同じこと言う」
「会ったことはない」
「会ったら、たぶん説教される」
「私が?」
「父親全般」
ピコが乾燥風車から一枚の歪んだ留め具を外した。
「ピコ!」
ガランが左手を伸ばす。
ピコは避け、ハルの襟へ入る。
「また俺!」
ガランは眼鏡を掛けたまま、正確にハルの襟を指した。
「留め具を返せ」
「俺じゃない」
「乗員の管理責任」
「本人に言え」
ピコが襟から顔を出す。
「ピ」
ガランは一瞬考えた。
「機械鳥ピコ。乾燥風車の留め具を返却せよ。返却後、歪みの理由をロロ・ピクスと確認する」
ピコは首を傾げ、留め具を床へ落とした。
「通じた」とハル。
「命令へ理由を付けた」
「機械にも?」
「乗員なら」
ハルは少し笑った。
ガランも、笑いはしなかったが、留め具を証拠ではなく修理品の箱へ入れた。
トルカの夕食は、風へ強い。
汁物は浅い皿ではなく蓋付きの壺。パンは穴を開け、紐で卓へ結ぶ。香辛料は粉のまま置かず、小さな手回し筒へ入れる。翼が動いても料理が飛ばない工夫である。
客用食堂の長卓へ、豆と甲羅茸の煮込み、硬い丸パン、塩漬け柑橘が並んだ。
ガランは席へ着く前に、卓の角と皿を直角へ揃えた。
ティアは向かいへ座り、同じように匙の柄を皿へ平行にした。
「親子だ」とハル。
「二度目」とマオ。
「証拠が増えた」
「本人へ聞こえてる」
「凪野生」とガラン。
「聞こえてます」
「なら静かに食べろ」
「食べ方を静かにする規則は?」
「家庭教育だ」
「家庭が違う」
「学院の共同食事礼へ読み替える」
「規則の増築が速い」
ガランは眼鏡を掛けた。
細い長方形。濃紫の縁。
世界が急に正確になったらしい。彼の視線は、ハルの赤いマフラー、ロロの油染み、マオの左脚装具を順に見て、最後にティアの右膝へ止まった。
制服の下から、薄い支持帯が見えていた。
「膝を固定しているのか」
「公表済みです」
「家へ報告は」
「学院の条件票が公開文書です」
「家族への報告を公開文書で代えるな」
「家族が完治と公表したため、先に公文書を訂正しました」
ガランの匙が止まる。
「それは、当時の医師判断で」
「十二歳の時です。現在も寒冷時と長時間立位で痛みます」
「なぜ私へ」
「言えば訓練から外されたからです」
「再負傷を防ぐためだ」
「私のために、私を決定から外す」
食堂の風鐘が鳴った。
誰も匙を動かさない。
ハルがパンを千切った。
静かに食べろと言われたため、音を立てないよう努めた結果、紐まで引きちぎった。
「パンが逃げた」とミミ。
「俺が逃がした」
「意味が違う?」
「責任が増える」
少しだけ空気が動いた。
ガランは香辛料筒を取り、匂いを嗅いだ。
「黒胡椒、乾燥月桂、赤根。挽きは四回」
「なぜ四回」とマオ。
「グランツ家の煮込みは四回だ」
「誰が決めた」
「祖母の代から」
「味見は?」
「不要だ。配合が決まっている」
彼は四回、筒を回した。
ティアも四回。
二人は一口食べ、同時にわずかに咳をした。
マオが言った。
「辛いなら二回にすれば」
「この料理は四回です」と父娘が同時に答えた。
ハルは匙を置いた。
「事故記録より根が深い」
「食事を事件へ混ぜないでください」とティア。
「同じだろ。最初に決めた人がいなくなっても、四回だけ残ってる」
ガランはハルを見た。
眼鏡があるため、今度は間違えない。
「料理で行政を語るな」
「行政を料理に持ち込んだのはそっち」
ロロが自分の壺へ胡椒を一回だけ挽いた。
「五回目から追加料金」
「誰に請求するの」とマオ。
「家の伝統へ」
ガランは眼鏡を外しかけ、食堂が私的な場だと思い直したのか、戻した。
ティアが言う。
「父上」
公の呼称ではなかった。
「十四年前、何があったのですか」
ガランは匙を置いた。皿の角へ正確に揃える。
「事故報告を出した」
「十三番の?」
「別件だ。煤鐘街の救難崩落。原因、作業班、資材供給元、遅延した家名を一括で公開した。事実だった」
「何が起きた」
「報告を読んだ群衆が、原因と責任を同じ欄だと思った。供給工房が襲われた。担当者の弟が、兄と間違えられて死んだ。遺族へ連絡が届く前だった」
声は硬い。
硬い声は、感情がないのではない。中身がこぼれないよう容器を厚くしている。
「だから、公開順序を決めた」とガラン。「先に遺族。次に事実の分類。次に責任範囲。最後に名」
「十三番では、その最後が来なかった」
「当時、鉄翼生と上層救難部の対立が激化していた。死者名と設備不足を同時に出せば、報復が起きると判断した」
「十四年です」
「分かっている」
「解除しなかった」
「分かっている」
「誰を守ったのです」
ガランは答えなかった。
妻を探したパン屋。
赤い布を覚えていた染物師。
事故を別の出来事として抱えた保守員。
名前を失った死者。
そして、署名した若い官僚自身。
「最初は遺族を守った」とハル。
「凪野生」
「途中から、署名した自分も守ることになった?」
ティアが止めなかった。
ガランの右手が、机の角で署名の空振りをした。
「正しさは混乱を免責しない」
「混乱への恐怖も、責任を免責しません」
ティアが言った。
父と同じ高さの声だった。
「私は、あなたを父として愛しています。それと、監督官の署名を調べることは両立します」
ガランの顔から、初めて句読点が消えた。
彼が最も恐れていたのは、娘に憎まれることではなかった。
正しく追及され、それでも娘であり続けられることだった。家族を守るために隠したという説明が、家族自身から不要だと言われるからである。
「ティア」
名前を呼んだ。
その先は続かなかった。
最初の破断音は、食器の音に似ていた。
かちり。
アデルが顔を上げる。
「翼動ではない」
二度目は、建物の音だった。
ばきん。
長卓が雲側へ一指滑る。
壁の掲示板で、ガランの停止命令が揺れた。
中央監視盤から赤い光が走る。
『七番・八番間、外壁変位』
『補修面、許容幅超過』
『吊り梁第三支点、応答なし』
ロロが椅子を蹴った。
「十三番相当の受けだ!」
ガランが立つ。左膝が一瞬遅れた。ティアの右膝と逆側。似ているのは姿勢だけではない。
「調査停止命令は」とアデル。
「人命保全と構造安定を除外した」
「では」
ガランは掲示板へ左手を向ける。
「全区画へ。避難開始。停止命令のうち、構造接触禁止を解除する」
紫の文字が一斉に書き換わった。
その途中で、三度目の音が来た。
ごしゃん。
七番と八番の間。
赤い救難布で塞がれていた古い切断面が、外壁ごと裂けた。