第61話 第七章「落ちる書架」前編

落下は、物が下へ動いた時に始まるのではない。

 支えていたものが、支えることをやめた時に始まる。

 橋は崩れる一瞬前まで橋に見える。船は沈む一瞬前まで船であり、規則は人を守らなくなった後も、しばらく規則の顔をしている。

 だから救難で最も遅い言葉は、「まだ落ちていない」だった。

 トルカ巡回図書館の七番と八番の間で外壁が裂けた時、書架区画はまだ空に浮いていた。

 すでに落下は始まっていた。

「全員、席を離れろ!」

 オルトの声が食堂の蓋を吹き飛ばした。

 人々が立つ。

 壺が滑る。

 丸パンの紐が張る。

 床は雲側へ五度、十度、十五度。

 建物が傾くほど、人間はまっすぐ立とうとする。その本能が集団では危険になる。全員が同じ高い側へ殺到すれば、支点へさらに荷重が集まるからだ。

「中央廊下へ寄るな! 卓ごとに出口を分ける!」

 オルトが右手を三方向へ切った。

「一番卓、甲羅側階段。二番卓、鐘側連絡路。三番卓、その場で待機。復唱!」

 返事が重なる。

 ガランの左手から濃紫の文字が走った。

『七・八番間の中央通路を使用しない。最寄りの色標へ従え。子供、負傷者、飛行不能者を先にする。ただし本人へ移動方法を確認せよ』

 最後の一文を見て、マオがガランを一度見た。

「読んだなら動く」と彼女。「私は自力。長い階段だけ右手すり」

「確認した」と保守員。

 ティアは双規刃をつなぎ、床へ円を描こうとした。

「待て」とオルト。

「食堂内の歩幅を統一します。転倒を防げる」

「床の傾きが場所ごとに違う。同じ歩幅は、低い側の者を滑らせる」

 ティアの刃が止まる。

 前の彼女なら、“全員へ同じ”を安全と呼んだ。

 今は、円を描く前に条件を聞いた。

「では、何を揃える」

「出口までの優先。動き方は各卓へ任せる」

「了解」

 父が娘を見る。

 その視線に誇りがあったかどうか、眼鏡を掛けたガラン自身にも、言葉へする余裕はなかった。

 ハルはミミ、バル、ネネの三人へ腰紐を配る。

「一列。俺の後ろ」

「子供を先にじゃないの」とミミ。

「前は床の割れ目が見えない」

「私は見える」

「俺より?」

「本棚の下なら」

「今日は本棚の下へ行くな」

 ネネが紙飛行機を握っている。

「置いて」とハル。

「飛べなくなる」

「紙が?」

「私が」

 ハルは一秒迷い、飛行機を取り上げなかった。

「片手は空けて。もう片方で持つ」

「うん」

 避難は、命以外をすべて捨てさせれば速い。

 だが、捨てた物がその人の命を支えていることもある。救難者がそこを判断すると、命を選ぶふりをして人格を選別する。

「動く!」

 一行が食堂を出た。

 食堂を出た先で、避難路は三つに分かれた。

 甲羅側階段。

 鐘側連絡路。

 床留めの多い待機室。

 平時なら、案内板の色を見るだけでよい。

 事故時には、色を見るため立ち止まる者、読めない者、色覚の違う者、いつもの道へ戻ろうとする者が同じ廊下へ集まる。

「赤は階段、青は連絡路、黄は待機!」と若い司書。

「赤と青が同じに見える!」と老人。

「形でも言って!」とマオ。

 案内札には色だけでなく、三角、波、丸が付いていた。

「三角は階段! 波は連絡路! 丸は待機!」

 老人が三角へ進む。

 次の角で、三角札が梁の粉に隠れている。

 ハルは赤いマフラーを外し、三角に結んだ。

「ここ、階段!」

「自分の目印は?」とエリア。

「俺は顔がある」

「迷った時に、自分の色まで捨てないで」

「戻ったら回収する」

「戻らなかった場合は」

「回収する人を決める」

 エリアは地図針から細い濃紺の糸を外し、マフラーの端へ結んだ。

「私が回収する」

「二人で?」

「紛失防止よ」

「今の、約束?」

「作業分担」

「言葉を弱くした」

「実行可能にしたの」

 天井から本が落ちた。

 布羽を開く余地がなく、厚い法律書が角から滑ってくる。

「頭!」

 ハルは右腕で受け、床へ流す。

 左肩を庇ったため、身体が半回転した。方向が一瞬ほどける。

 甲羅、鐘、本、雲。

 壁の印を順に見る。

 世界が戻る。

「歩ける?」とエリア。

「青い波側へなら」

「今いるのは三角側」

「じゃあ三角側へ歩ける」

「訂正が速いのは良いことよ」

 後ろから、六番棚の機関書を抱えたロロが走ってきた。

「避難で本を持ち出すな」とオルト。

「避難図が載ってる!」

「読んでる時間は」

「走りながら!」

「紙粉!」

「今日それ何回目だ!」

 ロロはページを四本の補助腕で固定しながら走る。

 古いトルカ断面図。現行図にはない、七番と八番の間の幅広い箱が、薄い補助線で描かれている。

「見つけた!」

「止まって見せろ」とオルト。

「止まると追いつかれる!」

「何に」

 後方で、返却滑走路から外れた本の群れが廊下へ流れ込んだ。

 羽を開いた本は、人の頭を避ける程度の簡単な風路術しか持たない。だが廊下が傾き、標識風が乱れると、避ける先が全員同じ天井隅になる。

「本に!」とハル。

「何を命令する」とティア。

「閉じろ?」

「本は聞かない」

「じゃあ風を止める!」

 エリアが地図槍を床へ刺した。

「返却風の入口は鐘側二十歩。途中に人がいる。逆流させれば転倒する」

 ガランの左手が上がる。

 ワン・ワードなら、全板へ一斉に指示を出せる。

「一つにするな」とオルト。

 監督官へ、教官が命じた。

 ガランの眉が動く。

「理由」

「棚ごと風向が違う。全区画停止なら、本が空中で落ちる。各棚司書へ、現地判断を返せ」

 ガランは一秒だけ考えた。

 紫の文字を走らせる。

『返却風路は各棚責任者が安全を確認し、停止・減速・退避を選択せよ。中央命令は出さない』

 全掲示板へ、一斉に“各自で決めよ”と表示された。

 権限を集める術で、権限を返す。

「矛盾してる」とハル。

「術式としては可能だ」とガラン。

「性格としては?」

「走れ」

 各棚の風が順に変わる。

 一番は停止。二番は窓側へ退避。五番は物語本を天井網へ誘導。廊下へ来た本の群れが、ばらばらの出口へ散った。

 オルトが七拍だけ共通号令を出す。

「三角路、七拍停止。波路、五人通す。丸路、椅子二台を受け入れ。七拍後、各路へ返す。復唱!」

 復唱が波のように返る。

 一拍。

 波路を、翼の折れた女性が通る。

 二拍。

 杖の老人。

 三拍。

 幼児を抱いた父。

 四拍。

 自力歩行を選んだマオ。

 五拍。

 ネネが紙飛行機を持って通る。

 六拍。

 空ける。

 七拍。

「各路へ返す!」

 混雑がほどけた。

 だが、七番と八番の間から来る音だけは、ほどけなかった。

 金属が引かれ、戻らず、さらに引かれる音。

 ロロが断面図を開く。

 薄い箱の横に、古い字がある。

「ミミ!」

「『緊急荷架・平時閲覧転用可』!」

「やっぱり箱じゃねえ。棚だ!」

 その棚の上に、後世の中継閲覧室が載っていた。

 七番と八番の間には、後世に増築された中継閲覧室があった。

 高所作業が苦手な子供や、長い連絡廊下を歩けない利用者が休めるよう、十四年前の補修後に設けられた部屋である。低い手すり、広い回転場所、柔らかな床。善意で作られた設備だった。

 その床下が、古い切断面だった。

 避難路を進む人々の前で、中継室の入口が二つに割れた。

 白い補修樹脂が雪のように落ちる。

 赤い救難布が裂け、十四年ぶりに空気へ出る。

「止まれ!」

 オルトが叫ぶ。

 先頭の保守員が止まる。

 後ろの人々が押す。

 ティアが双刃を床へ刺した。

「円内、前進を一拍停止!」

 白い線が廊下へ走る。

 聞こえた者の足が一拍だけ止まり、圧力の波が切れた。

「解除!」

 停止は一拍で終わる。

 終わりがあるから、後ろの者は動き直せる。

 だが中継室の向こう側には、子供がいた。

 昼の読み聞かせ会に参加していた九人。司書二人。車椅子の老人一人。避難指示を受け、色標に従って中継室へ入ったところで床が裂けた。

「戻れない!」

 若い司書が叫ぶ。

 入口側の床は一腕分、下へずれている。

 向こうの部屋は、外側の吊り梁だけでぶら下がっていた。

 ミミが人数を数える。

「九人。あそこにネネの弟」

「弟?」

「双子じゃない。近所」

「説明はあと!」

 ハルが割れ目へ走る。

「待ちなさい」とティア。

「待つと落ちる!」

「命綱を」

「付けてる!」

「支点が同じ!」

 見ると、腰紐と胸紐の二本が、避難時の混乱で同じ梁へ掛けられていた。

 一本が切れれば、二本とも切れる。

 ハルは舌打ちし、胸紐を外す。

「別の支点!」

 マオが低い手すりへ補助環を通した。

「こっち。肩は使わない。腰だけ」

「分かった」

「言う前に飛ぶな」

「言ってから飛ぶ!」

 エリアが光の線を割れ目へ伸ばす。

「向こうの床、下へ七度。相対速度、一拍ごとに二指。橋板を渡せる時間は――」

 ばきん。

 外壁がもう一度裂けた。

 相対速度が増える。

「三十拍から十二拍へ減少!」

 ロロが工具箱を開く。

「橋板は無理! 両側が別に動く。蝶番を作る!」

「何拍」とオルト。

「二十!」

「十二しかない」

「じゃあ十二で作る!」

 四本の補助腕が金具、鋲打ち器、短梁、張力糸を同時に掴む。

 ティアが床へ大きな円を描いた。

「同律陣。円内の者は、鐘の一拍につき一歩まで!」

 人の波を抑えるためだった。

 中継室が揺れる中、全員の急な移動を止めれば荷重変化が減る。

 白い線がハルの足元まで伸びた。

「ティア、俺は走る!」

「円外から!」

「割れ目まで入ってる!」

 ハルの足が、一歩目の後で止まる。

 筋肉が二歩目を拒む。

「解除して!」とエリア。

「後方の群衆が動く!」

「範囲を切って!」

「一つの円です。いま切れば全解除になる!」

 規則は同じ条件を与えた。

 同じ条件が、群衆には安全で、走者には障害になった。

「マオ!」

 ハルが叫ぶ。

「足元だけ止められる?」

「一瞬!」

「向こうの床が跳ねる時、止めて!」

「誰の足」

「床!」

「術は足裏!」

「じゃあ俺の足で床を止める!」

「意味が雑!」

 マオはそれでも位置を取った。

 割れ目の縁へ右足を置く。左脚装具を手すりへ固定。ハルがその隣へ立つ。

「宣告する。アンカー・ステップ、一拍」

 星色の三角が二人の足元へ灯る。

「いま!」

 マオが摩擦を固定する。

 ハルは止まった足を支点に身体を投げ、円の外へ上半身を伸ばした。右手が向こうの手すりへ届く。

 左肩を使わなければ、身体は橋にならない。

 一、二、三。

 左腕も伸ばす。

 関節の奥で、鈍い音がした。

「っ!」

 手が開く。

「ハル!」

 エリアが腰紐を引く。

 ハルの身体は割れ目へ落ちず、こちら側へ戻った。

 だが、向こうへ渡そうとしていた短梁が手を離れ、雲海へ消える。

「失敗!」とハル。

「言わなくても見えています」とティア。

「左肩、何度」とセレナ。

「今は――」

「正確に!」とエリア。

「腕を上げると八。下なら四!」

 オルトが即断する。

「ハル、頭上保持から外す」

「まだ走れる!」

「走力は使う。保持は別だ」

 役割を外されたのではない。

 役割を分けられた。

 それでもハルの胸には、役に立たないと判定された時の古い焦りが一瞬戻る。

 マオが先に言った。

「痛い場所を言って外されるのが怖いなら、私は毎日怖い。だから言え」

 ハルは息を吐いた。

「左肩、保持不能。走行可能」

「復唱」とオルト。

「左肩、保持不能。走行可能!」

「走行へ回せ」

 同時に、マオの左脚が震えた。

 アンカー・ステップの反動。強く固定した摩擦は、止めた力を身体へ返す。装具の内側で古い股関節が痛み、彼女の重心が右へ逃げる。

「マオ、交代」とティア。

「まだ一回」

「装具留め具が一段ずれています」

「見た?」

「見ました。介助方法を聞きます」

 マオは歯を食いしばる。

「低い椅子。装具はロロ以外触らない。私は索の指示をする」

「了解」

 助けを受けることは敗北ではない。

 受け方を決められないことが、彼女には敗北だった。