第62話 第七章「落ちる書架」後編

 ロロの蝶番橋が完成するまで、あと五拍。

 中継室は、あと四拍で外れる。

「一拍足りねえ!」

 ロロが叫ぶ。

「一拍を増やせる者は」とティア。

「時間は増えない」とエリア。「落下速度を減らすか、作業を分ける」

「分ける!」

 ティアが円を解除した。

 群衆が動き出す前に、オルトが声を飛ばす。

「後方班、三歩後退。前方班、壁へ。ロロ班、手を貸せる者だけ工具番号を聞け。勝手に持つな!」

「四番!」とロロ。

 ハルが工具箱の四番を投げる。

 ロロの左手へ正確に届く。

「九番!」

 エリアが地図線で箱と手をつなぎ、保守員が渡す。

「十二番!」

 ミミが工具を取る。

「それ、字を読める方!」とロロ。

「十二って数字!」

「分かってる!」

 ミミが投げ、ピコが空中で受け、ロロへ運ぶ。

「あと二拍!」

 蝶番金具が割れ目へ差し込まれる。

 一拍。

 ロロが鋲を打つ。

 二拍。

 補助腕が橋板を引く。

 中継室が落ちた。

 蝶番は間に合った。

 だが、支点側が壊れた。

 新しい金具は、古い補修壁ごと剥がれた。

「なんで!」

 ロロが露出した断面を見る。

 白い樹脂の下に、黒く焼けた旧材。現行梁は、トルカの腹甲へ直接つながっていない。十四年前に切られた面へ、上から貼り付けられていただけだった。

「新しい棚が壊れたんじゃねえ!」

 ロロの声が裏返る。

「古い切断面が開いた! こいつ、最初から本体へつながってねえ!」

 中継室が一腕、二腕、三腕と沈む。

 外側の主鎖が二本、最後の支えになった。

 子供たちが悲鳴を上げる。

 車椅子の老人が、自分の腰紐を隣の子供へ結び直そうとする。

「自分のを外すな!」とオルト。

「子供を先に!」

「あなたも人数だ!」

「飛べる者だけで、向こうから子供を運べないのか」とガラン。

 甲羅町には翼を持つ者が多い。

 空へ落ちたなら、飛べばよい。

 地上の人間が最初に抱く疑問であり、空の救難者が最初に捨てる誤解だった。

 オルトが割れ目へ粉を一つ投げる。

 白い粉は下へ落ちず、横へ吸われ、次に上へ巻き返された。

「トルカ腹側の剥離流。棚が外れかけて渦が二重だ。翼を開けば、身体が梁へ叩かれる」

「小翼なら」

「揚力不足。大翼なら接触。子供を抱えれば重心が変わる」

 広翼の保守員が一本の試験布を投げた。

 布は中継室へ届く前に裂け、七番外壁へ貼りついた。

「飛べることと、飛んで救えることは同じじゃない」とミミ。

「誰に教わった」とガラン。

「落ちた本」

 向こうの若い司書が、子供へ一人ずつ命綱を付けている。

 手は震えているが、結び目は正確だった。

「こちらへ投げられますか」とティア。

『届かない。風が戻す!』

「床留めへ全員を固定。飛べる者も翼を畳んでください」

『翼を畳んだら、落ちた時に――』

「いま開けば、先に壁へ当たります。落下後の展翼は別の合図で」

 司書が復唱する。

 自分より年下の委員へ従う声に、恥はなかった。

 危機の役割は、年齢や家名ではなく、いま何を見ているかで決まる。

 車椅子の老人は、腰紐を自分で二重にした。

「椅子を捨てて、床へ移った方が軽いか」

 ロロが答える。

「椅子ごと固定。車輪を外すなら、本人が姿勢を保てるか先に聞け」

「保てない。背が曲がってる」

「じゃあ椅子は身体の一部だ。重量から外すな」

 老人は頷き、前輪の留め具を自分で締めた。

 こちら側では、エリアが三本の光路を空中へ描いた。

 一つは現在の中継室位置。

 一つは、主鎖一本が切れた場合の落下軌道。

 一つは、二本切れた場合。

「どれが正しい」とハル。

「まだ、どれも起きていない」

「起きたら?」

「一本目の線が消え、起きた線を残す」

「外した線は?」

「次の判断へ使う。予測が外れたことも情報よ」

 彼女の呼吸が速い。

 高高度の冷気、長い地図展開、連続する計算。左肺の容量が先に限界へ近づいている。

「エリア、何分」

「地図は維持できる」

「呼吸」

「質問を正確に」

「あと何分、話しながら描ける」

 エリアは一瞬怒り、次に自分の息を数えた。

「三分。無言なら五分」

「じゃあ線の説明を俺がする。間違えたら止めて」

「あなたが?」

「地図は読めない。でも色と動きなら」

 ハルは周囲へ叫ぶ。

「青線は今! 黄線は鎖一本! 赤線は二本! 黄へ動いたら、青の索を外す! 赤へ行ったら――」

「右側保守艇を出す」とエリアが短く補う。

「赤なら右の船!」

「あなたから見た右ではなく、鐘側!」

「赤なら鐘側の船!」

 地図師の説明を、地図が苦手な者が現場の言葉へ変える。

 正確さは一人で完成する能力ではない。

 伝わらなければ、正確な線も美しい誤解になる。

 ティアは小さな円を三つ描いた。

 一つ目、割れ目周辺は走行禁止。

 二つ目、工具班は落下物を拾わない。

 三つ目、救助索班は一人で二本以上を保持しない。

「複数術式は干渉する」とマオ。

「重ならない位置へ置く。重なる者には、どの条件を優先するか先に宣告します」

「私、工具班と索班」

「索班を優先。工具は指示だけ」

「受けた」

 前のティアなら、一つの大円で全員を同じ速度へした。

 今は、違う仕事がぶつかる場所を先に決める。

 術は強くなっていない。

 使う前の問いが増えた。

 ガランは娘の三つの円を見た。

「中央命令を出すか」

「不要です。掲示板には、退出路だけを」

「了解」

 父は娘へ指揮を返した。

 娘は父を現場から外さず、役割を狭めた。

 中継室の窓へ、ユイという七歳の少女が顔を押しつけた。

 青い翼が片方だけ開いている。

「怖い!」

 ハルは割れ目越しに叫ぶ。

「怖いままでいい! 翼を畳んで、腰紐を持て!」

「飛べない!」

「今は飛ばなくていい!」

「落ちる!」

「落ちた後のことは、こっちが考える!」

「約束するな」とガラン。

「約束じゃない!」

 ハルの声が低くなる。

「役割だ。考えるのをやめないって役割!」

 ユイは泣きながら翼を畳んだ。

 若い司書が腰紐を締める。

 その時、一本目の主鎖が、限界を超えて伸びた。

 一本目の主鎖が伸びた。

 金属が低く鳴る。

 ハルは割れ目の縁へ走った。

「索を投げる!」

「届かない」とエリア。

「近づけば」

「あなたの左肩では引き上げられない」

「引くのは全員!」

「支点がない!」

 ティアが双刃で複数の小円を描こうとする。

 だが今の術式は、一つの円へ一つの条件しか置けない。群衆、救助者、落下区画。必要な動きが違いすぎる。

「同じ規則では、揃わない」と彼女。

 声が震えた。

 父の前だからではない。自分の能力が、人を同じにするほど安全になるという根へ、現場が反証を突きつけている。

「違う規則を重ねればいい」とマオ。

「術式が干渉する」

「じゃあ、干渉する場所を先に決める」

「今ここで?」

「今じゃなきゃ、いつ」

 二本目の鎖から、鋲が一つ飛んだ。

 中継室がさらに落ちる。

 本の窓が開き、何十冊もの本が空へ放り出された。表紙の布羽が開き、白、青、赤、黄の群れになって部屋の周囲を回る。

 まだ部屋は落ち切っていない。

 一本の副鎖が、七番外壁へ斜めに掛かっている。

 ロロがその鎖を見た。

「待て」

 補助腕が全部上を向く。

「この角度……昨日の擦過痕と同じだ」

「何が」とハル。

「十三番の鎖は、棚を吊るすだけじゃねえ。落ちた時、斜めに張って姿勢を返す」

「直せる?」

 ハルが問う。

 ロロは、落ちる中継室と、露出した古い切断面を見た。

 昨日までなら、直せると即答した。

 直せると言うことが、捨てられない証明だった。

「今の場所からは無理」

 初めて、先に無理と言った。

「構造を見なきゃ、直したふりになる」

 二本目の主鎖が切れた。

 中継室が雲海へ落ちる。

「ロロ!」

 ハルが止めるより早く、ロロは走った。

 四本の補助腕で工具箱を背へ固定し、最後の副鎖へ飛び乗る。

「一、二、三!」とハル。

「俺の数だ!」

 ロロは副鎖を滑った。

 火花が黄色い上着の両脇へ散る。

 落下する部屋が近づく。

 左手で窓枠を掴む。

 右手が滑る。

 補助腕二本が別の梁へ食いつく。

 身体が激しく振られ、喘息の息が潰れる。

「ロロ!」

 今度、ハルは本名を叫んだ。

 ロロは落下中継室の外壁へ身体を打ちつけ、それでも離さなかった。

「修理代!」

 息の足りない声で怒鳴る。

「全員分、誰に請求すりゃいいんだよ!」

 それは冗談であり、恐怖であり、まだ生きているという点呼だった。

 ロロは窓を蹴破り、中へ入った。

『戻れ!』とオルトの通信。

「戻る!」

 ロロは咳き込みながら、露出した床下機構を見た。

 古い巻軸。折り畳まれた布翼。切断された斜張鎖の受け。現行の中継室の下に、十四年前の機能が死に切らず残っている。

「戻るために直すんじゃねえ!」

 彼の声が通信管を通り、上の全員へ届く。

「こいつを落ちない形へ戻すんでもねえ! 十三番が落ちるために持ってた構造を、もう一回作る!」

 ハルが息を呑む。

「落ちるため?」

『本を帆にする仕組みがある! 棚を軽くするんじゃねえ、空気へ重さを預ける! これを開かなきゃ、全員で雲海まで行く!』

 中継室は、本の群れを引き連れ、トルカの腹から離れていく。

 ロロ・ピクスは、その落下書架の上にいた。