第63話 第八章「本の群れを追え」前編
機械の本来の姿、という言葉を、ロロは嫌っていた。
本来の姿へ戻せ、と言う者は、たいてい現在の傷を邪魔な汚れとして扱う。曲がった梁をまっすぐにし、継ぎ足した板を新品へ替え、事故後に増えた手すりを外す。設計図どおりになれば、それで正しいと思う。
だが機械は、壊れた後にも使われる。
傷を避ける新しい手順を覚え、別の部品を受け入れ、設計者が知らなかった人間を載せる。
だから修理とは、過去へ戻すことではない。
過去の動きが、いま誰を運ぶために必要かを選び直すことである。
雲海へ落ちる中継閲覧室の内部で、ロロ・ピクスは十四年前の機構へ手を当てた。
「昔どおりに動けとは言わねえ」
床が回転する。
本が天井へ落ちる。
子供が泣く。
「いま使えるところだけ、思い出せ!」
壊れた機械の動きを戻す術〈リメイク〉は、壊れているものを新品にする魔法ではない。
ロロが構造を理解し、部品に動いた痕跡が残り、失われた機能を現在の材料で再現できる時だけ、星色の仮部品が短時間そこへ重なる。
分からないものは直せない。
存在しなかった機能は作れない。
壊れた理由を無視すれば、同じ場所からもう一度壊れる。
だから最初に使うのは魔法ではなく、目と指と耳だった。
「全員、壁の赤線より上へ!」
ロロが叫ぶ。
落下する部屋は、上下を失っていた。
雲海側の窓が下になり、次の瞬間には壁になる。家具は床留めへ固定されているが、本、紙、靴、割れた食器が室内を回る。
若い司書が子供二人を抱えたまま動こうとする。
「上ってどちら!」
「赤線のある方! 重力じゃなく線を見ろ!」
十四年前の救難設計は、回転しても同じ側を示すよう壁へ赤線を巡らせていた。補修で塗り潰され、いま裂けた床下から半分だけ現れている。
車椅子の老人が、椅子ごと梁へ固定されていた。
「子供を先に」
「その台詞を言う奴から自分の紐を外すな!」
「私は重い」
「重さは機械が決める。価値を勝手に軽くすんな!」
ロロの補助腕一本が、老人の腰紐を二重へする。
別の一本が、泣く子供へ棚布を巻く。
左右の手は床下機構を開ける。
呼吸が浅い。
薬筒は上着の内側。取るには一度、工具から手を離さねばならない。
離せない。
「ロロ!」
通信管からハルの声。
「生きてる!」
「息!」
「してる!」
「音が細い!」
「聞き分けんな!」
上方――トルカの腹側では、ゼロスター号が緊急離船準備へ入っていた。
片帆の船を、落下する建物へ近づける。
それは航海ではない。
失敗へ追いつく技術だった。
ゼロスター号はトルカの接岸台から射出された。右主帆だけが開き、船体は左へ回ろうとする。ロロ不在の機関台を、エリアが地図線で補正し、アデルの保守機関士が舵輪を支えた。
「左へ七度流れる!」とエリア。
「帆を絞る?」と保守員。
「絞れば降下が増える。船首補助翼を三枚だけ開いて」
「三枚では振動が」
「振動周期を、トルカの翼動とずらす。いまは落下書架へ追いつく方が先」
エリアの言葉が速くなる。
未知の軌道を前にした時だけ、冷静な声の奥へ年相応の熱が出る。
「ハル、甲羅印を見ないで。目標は赤い書架印。あなたの右へ二歩が船首。雲印が足元」
「右って言った」
「あなたの身体基準なら回転しても変わらない」
「正確」
「礼は後」
「予約」
「受理します」
船尾では、ティアとマオが白墨円を描いていた。
「一つの大円では失敗した」とティア。
「全員を同じにしたから」とマオ。
「術の原理は、円内へ同じ制限を課すことです」
「なら円を分ける。人を役割ごとに入れる」
「円同士が重なると、両方の制限を受けます」
「重ならないように床を切る」
「船が揺れれば境界が動く」
「境界を床板じゃなく、腰紐へ結ぶ」
マオは三本の白紐を船上へ走らせた。
船首、中央、船尾。人が移動しても、役割札を結んだ紐の内側へいる限り、同じ円に属する。
「第一円、走者」とティア。「制限は?」
「一度に一人分以上の体重を持たない」
「ハルの肩を守る」
「守るじゃない。持てる方法を残す」
「訂正します。保持荷重を一人分未満に制限」
「第二円、索手」
「鐘の一拍ごとに一回だけ引く。勝手に連続で引かない」
「第三円、固定手」
「動く前に声を出す。誰かが触ってる支点を無言で変えない」
ティアは三つの小円を描いた。
同律陣〈イコール・リング〉の白線が、床ではなく役割紐に沿って立ち上がる。
「私はどこへ」と彼女。
「全部へ術を維持するなら、全部の制限を受ける」とマオ。
「走らず、一拍一引き、動く前に宣告」
「できる?」
「課す者が最初に負う」
ティアは三本の紐を自分の腰へ結んだ。
白い光が重なる。
彼女の右膝が痛みで微かに震えたが、隠さない。
「右膝、立位残り六分」と自分から言う。
オルトが頷く。
「六分で交代。延長なし」
「了解」
ガランは船へ乗らなかった。
甲羅側に残り、ワン・ワードで町と図書館の避難を統括している。
娘の背を見送りながら、命令へ口を挟まなかった。
父親ができる最も難しい保護は、手を出さないことかもしれない。
「ピコ、目を貸せ!」
ロロが叫ぶ。
真鍮の機械鳥は、落下書架の割れた窓から入り、青い観測眼を床下へ向けた。映像がゼロスター号の小型板へ送られる。
「古字」とエリア。
機構の横へ、擦れた説明板がある。
ロロは読もうとして、咳で文字が揺れた。
「『第一……帳束、解……放。第二、読……翼、索……』」
通信の向こうで、ミミの声がした。
『第一、帳束解放。第二、読翼索展張。第三、荷架姿勢を雲面へ合わせる』
「なんでおまえが通信にいる!」
『アデル司書長が、字を読む役って言った』
「危険現場だぞ!」
『安全な目録室から読んでる』
「ならいい!」
『字の弱い機関士、次の行は?』
「呼び名はよくねえ!」
『読めない?』
「読める! 『展張後、閲覧物を……』」
『“帆”として扱う。背表紙索を切るな』
ロロは床下を見た。
巻軸が十三本。
十二本は腐食し、一つだけ現行補修材の下で生きている。そこから細い索が、書架の全本留めへつながっていた。
通常、本の羽は落下時の衝撃を減らし、回収しやすくするために開く。
十三番の緊急荷架では、それを一冊ずつ飛ばさない。
何百冊もの背表紙を索でつなぎ、巨大な帆として同時に開く。
本を荷物から、落下減速具へ変える設計。
「本を捨てるんじゃねえ」とロロ。「本に棚を持たせる!」
問題は、本の数ではなかった。
背表紙索へつながっていない本が百二十冊あった。
事故後に増えた新刊。
修理待ちで棚留めを外された絵本。
持ち込み資料。
読む途中で机へ置かれていた本。
帆へならない本は、部屋が跳ねた瞬間に飛来物になる。
「つながってねえ本を中央箱へ!」とロロ。
若い司書が棚を見た。
「中央箱は容量六十冊です」
「厚いのを床留めへ、薄いのを服の内側!」
「貴重本を先に?」
「重い本を先だ! 値段で物理は変わらねえ!」
司書は一瞬ためらった。
王家寄贈の古写本と、子供が毎日借りる布絵本。資産台帳では前者が千倍高い。落下中の室内では、角の硬い古写本が千倍危険というわけではない。
「人へ当たる順で固定する!」
ロロの言葉で、司書は動いた。
子供たちも本を集める。
バルは広い翼を盾にして、飛んできた本を一冊ずつ床へ落とす。ネネの近所の少年は、表紙の柔らかい本だけを服の内側へ入れる。
「題名を読むな! 重さと角だけ見ろ!」
「好きな本は?」と子供。
「好きでも角はある!」
「嫌いな本は?」
「嫌いでも帆になる!」
非常時に平等なのは、人の価値ではない。
物理法則の無関心である。
高価な本も安い本も同じ風を受ける。その無関心を、人を同じに扱う理由へ使うか、違う支援を無視する言い訳へ使うかは、設計者が決める。
ロロは床下から、折り畳み収納袋を引き出した。
十四年前の救難袋。布は硬く、口紐は半分切れている。
「リメイクで直す?」と司書。
「まだ使わねえ。縫える」
補助腕一本が針を持ち、一本が糸を引く。
残る二本は巻軸。
左右の手は構造板。
「六本ある」と子供。
「腕は六本。仕事は九個」
「足も使う」
「おまえ、俺を工具棚だと思ってる?」
「黄色い工具棚」
ロロは笑いかけ、咳へ変わった。
胸が狭い。
薬を取れば二秒遅れる。
「薬」と車椅子の老人。
「あとで」
「私が持つ」
「勝手に」
「持っていいか」
老人は言い直した。
ロロは一瞬だけ目を閉じる。
「右内ポケット。筒を渡すだけ。押すな」
「受けた」
老人が薬筒を取り、ロロの届く高さへ差し出す。
ロロは自分で掴み、二吸入する。
「返す」
「預かる。落ちたら困る」
「俺の薬だ」
「預かっていいか」
「……いい。なくすな」
助けを求める言葉は、一度目ほど長い。
二度目からは、必要な条件だけで済む。
ロロは縫い終えた袋へ、つながらない本を入れた。
バルが袋の口を持つ。
「重い」
「何冊」
「四十二」
「一人で持つな。床留め二つへ分けろ」
「本が二つに?」
「袋を二つに!」
ネネの近所の少年が、救難袋の底へ自分の読んでいた本を入れた。
表紙には、空を飛べない魚の絵。
「あとで返ってくる?」
「本は知らねえ」
「私たちは?」
ロロは巻軸へ手を置いたまま答える。
「返す。俺が返すんじゃねえ。全員で戻る仕組みを動かす」
約束へ自分一人の名を入れなかった。
それは弱い言葉ではなく、実行者を増やす言葉だった。
若い司書が息を呑む。
「蔵書が裂けます」
「人が裂けるより修理代が安い!」
「比較が乱暴です」
「命と本を同じ勘定へ入れる方が乱暴だ!」
アデルの声が通信へ入る。
『全蔵書の使用を許可します。破損記録は私が署名する』
「司書長、修理費は」
『図書館へ請求してください』
「値切るなよ!」
『明細を出してください』
「好きな司書だ!」
ロロは薬筒を取り、今度は二吸いした。
手を離す時間を、周囲の人へ渡した。
「全員、床留めを確認! 本が開いたら、部屋が上向きへ跳ねる!」
車椅子の老人が自分の紐を引く。
「これは二点固定だ」
「三点にする。椅子を人の代わりに数えるな。身体と椅子、両方」
子供の一人が泣きながら言う。
「本、死ぬ?」
「破れる」
「死ぬ?」
「本は読めなくなっても直せる。人が覚えてりゃ、書き直せる」
「全部?」
「全部は無理」
ロロは、嘘をつかなかった。
「だから読んだ奴が残れ。残って、何が書いてあったか言え」
子供は泣きながら頷いた。
ゼロスター号が、落下書架の上方二百腕へ追いついた。
「相対速度、まだ下へ速い!」とエリア。「このまま索を投げても、張った瞬間に切れる」
「本帆が開けば減る」とハル。
「開く瞬間、逆に姿勢が跳ねる。接近はその後」
「待つ?」
「待つために追っているの」
ハルは船首へ立った。
赤いマフラーを腰へ巻き直す。左肩は布で固定。右手に滑走鉤。腰紐は走者円へつながっている。
ノクスが隣で伏せる。
「おまえは残れ」
「ノゥ」
「落ちる棚へ二匹で行く必要ない」
「ノゥ」
「一匹は人間」
「ノゥ」
「そこ否定した?」
ノクスはハルの耳を噛んだ。
「痛い! 分かった、一緒!」
ピコは先に行っている。
機械鳥と夜獣。狭所探索の二体は、証拠道具ではなく、自分で選ぶ乗員だった。
「ハル」とエリア。
彼女が呼び捨てにする。
危険時ほど短い。
「落下書架へ着いた後、あなたの路図標識は三つ。赤線、ロロ、子供区画。見えない場所へ線は描けない。標識を置いて」
「分かった」
「左肩でぶら下がらない」
「分かった」
「一人を抱えて走らない」
「円が止める」
「円に止められる前に、自分で止まって」
ハルは笑う。
「信用が具体的だな」
「あなたへ抽象的な信用は危険よ」
「それ、信用してる?」
「帰ってから定義する」
「予約」
「受理しません。期限を切れない」
ゼロスター号の船腹が軋む。