第64話 第八章「本の群れを追え」後編

 ロロは十三本目の巻軸へ左手を置いた。

 金属は冷たい。

 十四年間、一度も正しく動いていない。

 表面には、油の乾いた跡、火傷、切断時の歪み。機械は記録を言葉で残さない。摩耗の方向、指の脂、締め直した傷で、使われ方を残す。

「物の本来動作の記憶〈メカ・メモリ〉

 青白い線が巻軸へ走った。

 過去の動きが、半透明の像として重なる。

 十四年前。赤い布の救難員が二人、巻軸を回す。一本が固着。誰かが三枚歯の工具を差し込み、一歯を折る。別の者が床を蹴り、最後の索を切る。

 顔は見えない。

 音もない。

 機械が覚えているのは、力だけだ。

「第一、帳束解放!」

 ロロが現行の本留めを外す。

 補助腕二本が左右の安全爪を同時に引く。

 固い。

「動け!」

 動かない。

 錆で止まった爪に、星色の仮部品を重ねる。

「再機!」

 欠けたばねの形が光で戻る。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 爪が開く。

 中継室の全書架で、本の背表紙索が一斉に解放された。

 何百冊もの本が室内へ飛ぶ。

「伏せろ!」

 紙と布羽の嵐。

 本は窓の裂け目から外へ吸い出され、だが背表紙の細索で巻軸へつながったまま、書架の周囲へ広がる。

「第二、読翼索展張!」

 ロロが巻軸を回す。

 回らない。

 旧機構は十三人で引く設計だった。

 いま床下にいるのはロロ一人。

「全員、引け!」

 司書、老人、子供たちが索へ手を掛ける。

「一人一索! 身体へ巻くな! 手が滑ったら離せ!」

「本を離したら落ちる!」

「指を持ってかれたら、次を引けねえ! 離すのも作業だ!」

 十三本の索。

 人数は十三より多い。

 だが腕の長さも力も違う。

「同時に引けない」と司書。

「同時じゃなくていい。順番に張る! 赤、青、黄、白!」

 色ごとに四班へ分ける。

 力を揃えるのではなく、力が重ならないよう時間を分ける。

『赤、引け!』

 オルトの声が通信へ来た。

 七拍の期限つき号令。

『一拍。赤。二拍。青。三拍。黄。四拍。白。五拍、全員固定。六拍、確認。七拍、命令終了。復唱!』

「復唱!」

 一拍、赤。

 二拍、青。

 三拍、黄。

 四拍、白。

 本の群れが四方向へ広がる。

 五拍、全員固定。

 六拍、ロロが張力を確認。

 七拍。

『命令終了。次はロロが決めろ』

 指揮権が戻る。

 ロロは息を吸った。

「第三、姿勢を雲面へ合わせる!」

 床下の斜張鎖を引く。

 中継室が回転した。

 雲海へ窓面を向け、本の群れが上方――トルカ側へ開く。

 何百枚もの布羽が風を受けた。

 ばん!

 空が一冊の巨大な本を閉じたような音がした。

 落下速度が変わる。

 人々の身体が床へ叩きつけられる。

 紐が張る。

 老人の車椅子が二点、三点で止まる。

 ロロの補助腕一本が外れた。

 肩甲骨へ鋭い痛み。

「ぐっ!」

 巻軸の逆回転が始まる。

 本帆が風を受けすぎている。旧制動爪は壊れていた。

 ロロの両手では止められない。

 補助腕は三本。

 一人分足りない。

「ハル!」

 工具名ではなく、本名を呼んだ。

「行く!」

 ハルはゼロスター号から飛んだ。

 一、二、三。

 右手の滑走鉤が、本帆の主索へ掛かる。

 身体が落下書架へ引かれる。

 左肩へ荷重を入れないよう、腰帯と右腿で索を挟む。

 ノクスが彼の背から跳び、布羽の本を一冊、二冊、三冊と踏んだ。

 翼の群れを黒い影が走る。

「本を足場にするなって怒られそう!」

『破損は私が署名します!』とアデル。

「許可出た!」

 ハルが窓へ届くまでの索は、まっすぐではなかった。

 本帆の布羽が一枚ずつ別の角度で風を受け、足場が呼吸のように上下する。踏んだ本は沈み、次の本は浮く。雲海は下にあるはずなのに、書架が回るたび横へ来る。

「赤線!」とエリアの声。

 ハルは腰から小さな赤札を外し、主索へ結ぶ。

 第一標識。

「ロロ!」

 窓の奥、黄色い上着を確認する。

 青札を投げ、窓枠の釘へ引っ掛ける。

 第二標識。

「子供区画!」

 室内の奥、赤線の上へ集まる小さな影。

 白札を投げる。

 風に戻される。

「届かない!」

『見えていない場所へ線は描けない!』

「見えてる。でも札が行かない!」

『ノクス!』

 エリアが夜獣の名を呼んだ。

 ノクスはハルの肩から跳び、白札を口で取る。揺れる本を三冊走り、窓枠から室内へ入り、子供区画の梁へ前足で押しつけた。

 地図線が三つをつなぐ。

 赤、主索。

 青、ロロ。

 白、子供。

 ハルの頭の中で、北も南も消える。

 三つの色だけが残る。

「経路、描く!」

 エリアの光が、揺れる本帆の上へ走った。

 最短ではない。

 左肩を使わず、右手で取れる索だけを通り、風が強い布羽を避ける線。

「遠回り」とハル。

『安全路』

「落ちてる建物へ安全路って、言葉が強い」

『比較上安全な路!』

「長くした!」

 本帆の一角が破れた。

 紙片が白い鳥の群れになって飛ぶ。

 ハルの足場が消える。

 一、二――。

 三を言う前に、身体が落ちた。

 走者円の白線が腰で光る。

 一人分以上を持たない制限は、落ちる自分を軽くしてはくれない。魔法は問題を代わりに解かない。

 右手の滑走鉤を投げる。

 主索を外す。

 ピコが横から飛び、磁石嘴で鉤の先を一指だけ引いた。

 がちん。

 鉤が補助索へ掛かる。

「ピコ!」

「ピ!」

 機械鳥は十二秒の映像しか残せない。

 だが十二秒の中で、一指を動かすことはできる。

 ハルの身体が振られ、左肩が索へ近づく。

 使えば楽になる。

 使えば、窓へ早く着く。

「右脚!」とエリア。

 光路が、次の本の背表紙へ点を置く。

 ハルは右足で蹴り、腰を回し、左肩を索から外した。

 痛みが遅れて来る。

 使わなかった痛み。使わなくても、身体は危険を予測して筋肉を固める。

「左肩、五!」

『使っていないのに?』

「怖さ込み!」

『正確では――』

「俺には正確!」

 エリアが一拍黙る。

『受理する!』

 彼女は数値を訂正しなかった。

 痛みの尺度は、測る者の外から決められない。

 ハルは窓枠へ到達した。

 ロロが中から右手を伸ばす。

「掴め!」

「一人分以上!」

「おまえ一人だ!」

 右手同士が合う。

 ロロが引き、ハルが蹴る。

 誰か一人が誰か一人を持ち上げたのではない。二人が同時に、窓を境界ではなくした。

 ノクスが先に室内へ入り、白札の下で尾を立てる。

 ピコはハルの襟へ戻ろうとして、風に押され、ロロのゴーグルへ張りついた。

「前が見えねえ!」

「ピ!」

「乗員なら場所を選べ!」

 落下する部屋の中で、ハルは笑った。

 恐怖が増えるほど冗談が増える。

 冗談が出るうちは、まだ次の手を考えられる。

 ハルは本帆の索を滑り、窓へ近づく。

 その途中で、中継室がもう一度回った。

 上下が反転。

 窓が頭上へ行く。

「甲羅、鐘、本、雲!」

 エリアの印を見る。

 目標を方角ではなく順番で保つ。

 ハルは梁へ足を掛けた。

 走者円の白紐が腰で光る。

 一人分以上の荷重を持とうとすると、筋肉が止まる。

 窓から中へ飛び込む。

「遅え!」とロロ。

「呼んでから三秒!」

「二秒で来い!」

「次は早めに呼べ!」

 ハルは巻軸の横へ滑り込んだ。

「何をする!」

「これを押せ!」

「左肩なし!」

「右脚!」

 巻軸の制動棒を、右足で踏む。

 一人分の体重未満。走者円は許す。

 逆回転が遅くなる。

「マオ!」とハル。

『聞こえてる!』

「床を止めたい!」

『私の足はそこにない!』

「索でつないだら?」

 マオはゼロスター号の船首へ右足を置き、一本の救難索を自分の腰から落下書架の制動棒へ結ばせた。

「直接触れてない」とティア。

「足裏の摩擦を、索の先へ送る。装具工房で荷物を止める時に使う」

「可能なのですか」

「一拍だけ。失敗したら索が切れる」

「撤退条件」

「右脚に痺れ。索温度が赤。どっちかで解除」

 ティアが頷く。

「宣告を」

「足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術。索先、制動棒、一拍!」

 星色の三角が、空中の索を走った。

 落下書架の制動棒が止まる。

 ハルの右足が踏み込む。

 ロロの三本の補助腕が歯車へ安全爪を打つ。

「いま!」

 鋲が入る。

 巻軸が固定された。

 本帆が完全に開く。

 落下速度は、走る人間が追いつけるほどまで下がった。

「救助索、接続!」

 ゼロスター号から三本の索が飛ぶ。

 第一は中継室の主梁。

 第二は車椅子側の床梁。

 第三は本帆巻軸。

 索手円の者たちは、鐘の一拍ごとに一度だけ引く。焦って連続で引けば、片帆の船が傾き、書架を回転させる。遅くても揃った一引きが、建物を少しずつ近づける。

 ティアは三つの制限を受けたまま、立っていた。

「右膝、残り一分」と言う。

「交代」とオルト。

「術の維持が」

「誰へ渡せる」

 同律陣は、ティア固有の誓星術だ。

 術そのものは渡せない。

 だが円の目的は渡せる。

「規則紐を残します。円が消えても、同じ手順を続けてください」

「復唱」とオルト。

 索手たちが答える。

「一拍一引き!」

 固定手が答える。

「動く前に宣告!」

 ハルが答える。

「一人分以上を持たない!」

 ティアは術を解除した。

 白い光が消える。

 手順は残った。

 魔法がなくなった後にも守られる規則こそ、規則の強さだった。

 彼女は椅子へ座る。マオが右膝の支持帯を確認する。

「触る」と先に言う。

「お願いします」

 父の監視板へ、その会話が届いていた。

 落下書架の内部で、最後の子供が見つからなかった。

「八人しかいない」と若い司書。

「九人いた!」とミミの声。

「名は」とオルト。

「ユイ・ラッカ。青い翼、七歳!」

 全員が室内を見回す。

 本帆展張で棚は空になった。机の下、固定箱、窓際。いない。

 ノクスが鼻を上げた。

 普通の匂いを追う。約束ではない。涙、紙粉、甘い乾燥果実。

 二本尾が床下を指す。

「ノゥ!」

 ハルが割れた板を覗く。

 狭い。

 左肩をかばったまま入れない。

「ピコ!」

 機械鳥が先に潜る。

 十二秒の映像。

 青い翼の端。子供は、床下の古い箱へ挟まっていた。

「ロロ、開けられる?」

「箱じゃねえ。旧点呼具の収納庫。外から爪二つ」

「場所」

「おまえの右膝の下、三指。もう一つは雲側へ二十指」

 ハルが右手を入れる。

 一つ目を押す。

 二つ目へ届かない。

「一人分以上持たない規則、もう消えた」とハル。

「消えても守れ!」とティアの声。

 ハルは左腕を使おうとし、止めた。

「ノクス、二つ目」

 夜獣が床下へ入り、鼻先で爪を押す。

 箱が開いた。

 ユイが泣きながら這い出す。

 ハルは抱き上げない。腰紐を付け、本人の足で出られる幅を作る。

「歩ける?」

「足、痛い」

「どっち」

「左」

「じゃあ右側に俺。肩じゃなく腰紐を持つ。いい?」

「うん」

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 ユイが安全区画へ出た。

「九人!」とオルト。「子供九、司書二、利用者一、ロロ、ハル、ノクス、ピコ。全員確認!」

「ピ!」

「機材も返事した」とハル。

「乗員だ」とロロ。

 中継室は、ゼロスター号と二隻の保守艇へ曳かれ、落下を止めた。

 本の群れは空いっぱいに開いたまま、巨大な虹色の帆になっていた。

 救助が成功してから、証拠が出た。

 旧点呼具の収納庫を閉じようとした時、奥の二重板が外れた。

 金属札が落ちる。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 全部で十八枚。

 赤黒い救難合金。表には利用者番号ではなく、人名。裏には、所属章と点呼状態。

『鉄翼生』

『未帰隊』

 同じ文字が十四枚。

 残る四枚には、図書館員と甲羅住民の所属が刻まれていた。

 セレナの声が、通信の向こうで低くなる。

「誰も触れないでください」

 ハルは、札へ伸びかけた手を止めた。

 ロロも止めた。

 機械は動いた。

 人は帰った。

 だが十四年前、返却済の印を押されなかった者たちの名が、落下書架の中から出てきた。