第65話 第九章「事故記録の空白」前編
死者の名を読むことと、死者を知ることは違う。
名簿には、生年月日、所属、死亡時刻が並ぶ。
だが、その者が硬いパンの端だけ残したこと、右の靴紐だけ二度結んだこと、嫌いな授業の前に腹が痛くなったことは書かれない。行政が人間を記録する時、その人間を運ぶために必要な部分だけを平らにする。
だから記録から名を消すことは、薄い紙の一行を消すだけに見える。
実際には、その一行へつながっていた無数の生活を、公共の記憶から切る行為だった。
落下書架から出た十八枚の札は、十四年間、名を失っていた。
セレナは、最初にそれを読まなかった。
「番号だけ記録します」
救助された中継室は、トルカの甲羅側へ仮固定されていた。
本帆は畳まず、風を逃がす角度で開いたまま。破れた本が空中索へ何百冊もぶら下がり、町の上に巨大な紙の樹冠を作っている。
その中央、白布を敷いた臨時証拠室に、十八枚の札が並んでいた。
セレナは単眼鏡を外した。
机へ伏せて置く。
「見えないの?」とミミ。
「近距離の文字は読みにくくなります」
「なら、かければ」
「今は、名を読む許可を取っていません」
彼女は札の形、材質、位置だけを記録する。
一番から十八番。表裏の文字は黒紙で覆い、証羽には写さない。
「証拠なのに?」とハル。
「証拠だからです。名を記録すれば、羽を閲覧できる全員へ複製されます。必要性が決まる前に増やさない」
「見た事実を全部残す術じゃないの」
「見たものを残せます。残すべきものを自動で決めてはくれません」
セレナは、羽を一枚伏せたままにした。
事実を記録する者が、記録しない選択をする。
それは隠蔽と似て見える。
違いは、誰が後で開けるか、開けない決定へ当事者が参加できるか、そして決定に期限があるかだった。
「札の名は、当館の封緘箱へ」とアデル。「王国証拠官、図書館、遺族代表の三鍵にします」
「遺族代表はまだ決まっていません」とティア。
「だから一つ空けます」
「空の鍵穴?」
「持ち主を後から決めるための空席です」
ハルは、その言葉を覚えた。
空白は、消した跡だけではない。
まだ参加していない者の場所として、意図して残すこともできる。
ガランは臨時証拠室の入口に立っていた。
眼鏡を掛けている。公務中だが、誤認を続ける方が規律違反だとティアに指摘され、外さなかった。
「停止命令は解除する」と彼は言った。「十八枚の未帰隊札は、人命保全後に新たに発見された。既存封印の範囲を越える」
「解除範囲を文書で」とセレナ。
「作成中だ」
「解除時刻も」
「記す」
「再停止の条件」
「新たな生命危険。具体的根拠を添える」
ティアが父を見る。
「公開順序は」
「必要だ」
「永久停止は」
「必要ない」
短い答えだった。
謝罪ではない。免罪でもない。
昨日まで閉じていた扉の鍵を、本人が少し回しただけである。
救助者と負傷者の確認には、三時間かかった。
子供九名。司書二名。利用者一名。ロロ、ハル。重傷なし。
ユイは左足首の捻挫。若い司書は右手指二本の裂傷。老人は胸部を固定紐で圧迫され、医務師の観察下へ。
ハルの左肩は、再脱臼していなかった。
筋を強く伸ばし、炎症が増えた。医務師から三日間の頭上保持禁止を言い渡される。
「走るのは」とハル。
「平地なら許可。跳躍は一日休止」
「一日?」
「一日を短いと思う顔をするな」
「長い」
「十六年生きる予定なら短い」
「もっと生きる予定」
「ならなお短い」
マオは左股関節へ冷却布を当て、装具の留め具を一段調整した。
痛み止めを一錠、オルトの前で飲む。隠して二錠飲まないためである。
ティアは右膝を十五分休めた後、自分で立位時間を板へ書いた。
隠さない身体は、弱くなるのではない。
周囲が正確な作戦を作れるようになる。
ロロは補助腕を一本外したまま、薬筒を膝へ置いていた。
「俺の診断は?」
「軽い喘息発作、肩甲部圧迫、左補助腕基部の損傷」と医務師。
「腕を直せば仕事に戻れる」
「人間側も休ませろ」
「人間側の交換部品は」
「睡眠と食事」
「性能が曖昧」
「八時間」
「高い」
「無料だ」
「無料は借りになる」
「では、明日の診療所で棚の軋みを直して。対価」
ロロは考えた。
「二時間寝る」
「八」
「四」
「七」
「五」
「六」
「成立」
医療に値切りが成立してよいかは別として、ロロは六時間眠ることになった。
事件の調査は、その間も進む。
調査の中心にいた者が休んでも、世界も事件も止まらない。手掛かりは別の手へ渡される。
六時間の休止を命じられた者は、ロロだけではなかった。
中継室から救助された子供たちは、甲羅町の医務所で一夜観察となった。重傷がないと分かると、最初に始まったのは泣くことではなく、持ち物の点呼だった。
「私の靴、片方」
「紙飛行機」
「青い本」
「栞が四本ない」
命が助かった後、人は小さな物を探す。
小さな物を探せること自体が、非常時の終わりを身体へ教える。
アデルは、回収品を白布へ並べた。
靴七足と片方だけ二つ。紙飛行機三機。髪留め、木匙、欠けた眼鏡枠、布絵本、乾燥果実の袋。
「持ち主不明は?」とハル。
「札を付けます。勝手に“不要品”へしません」
ハルは、なくし物を最後に正しかった向きへ一度戻す癖がある。
紙飛行機を拾うと、落ちていた場所へ向けて一度置き直し、それから回収布へ載せた。
ネネが見ていた。
「どうして戻すの」
「どこでなくなったか、忘れないため」
「戻したら、またなくなる」
「だから次に持つ」
「変」
「よく言われる」
ネネは自分の紙飛行機を受け取り、同じように一度、落ちた方向へ向けた。
「ここが最後に正しかった?」
「たぶん」
「たぶんでも?」
「正確な場所は、もう空にない」
落下書架は曳航され、位置が変わっている。
事故の場所を地図へ戻せても、同じ風は二度と来ない。
「じゃあ、飛行機が覚える」
ネネは紙の翼へ小さな黒線を引いた。
落ちた向きの印だった。
医務所の外では、空中へ広がった本帆の回収が始まっていた。
一冊ずつ索から外し、損傷を四種類へ分ける。
『そのまま読める』
『乾燥後に読める』
『修復が必要』
『内容の再記録が必要』
「廃棄は?」とハル。
「最後の分類後」とアデル。「読めないことと、捨てることは同じではありません」
ミミとバルは、破れた本の内容を口頭で記録していた。
ミミは古い機関字の説明書。バルは三冊の冒険譚。ネネは欠けた絵本の、もともと欠けていた途中ではなく、救助で新しく破れた最終ページを覚えていた。
「最後、鳥が窓で寝る」
「窓の形は?」と司書。
「丸。外に青い雲。鉢が一つ」
「花は」
「ない」
「本当に?」
「花を足したら別の本」
七歳の記憶は、証拠として万能ではない。
だが再制作の原稿として、本人が見た範囲を本人の言葉で残すことはできる。
エリアは回収された地図本を一冊ずつ広げ、濡れた線の上へ透過紙を重ねた。
失われた線を勝手に延ばさない。見える端まで写し、間を空白にする。
「地図も同じ」とハル。
「何が?」
「死者の名。全部埋めたくなる」
「空白のままでは、いなかったことになる場合もある」
「埋めると、勝手な話になる場合も」
「だから空白へ理由を書くの」
エリアは透過紙の切れた航路へ、小さく記す。
『原本破損により未確定』
「分からないだけじゃなく、なぜ分からないか」とハル。
「そう。誰かが消したのか、事故で失われたのか、まだ調べていないのか。空白にも種類がある」
ハルは配達鞄から、母へ書いた送れない手紙を出した。
出発前の文に、一行を足す。
『図書館が落ちた。全員助かった。左肩は三日、頭上へ上げない。大丈夫とは書かない。医務師の条件を書いておく』
「送れないのに?」とエリア。
「送れる時に、後から全部大丈夫だったことへしたくない」
「お母様は、負傷を知れば心配するでしょう」
「知らなくても心配する。情報がない心配は、勝手に大きくなる」
エリアは自分の地図帳を閉じた。
「私も父へ、肺の条件を詳しく書いていない」
「心配させたくない?」
「心配を、同行禁止へ変えられたくない」
「同じだ」
「同じではないわ。あなたの母は、生活を続ける人。私の父は、資金と警護を増やす人」
「でも隠す理由は似てる」
エリアの顎が少し上がる。
反論を組み立てる時の姿勢。
「……似ている部分はある」
「じゃあ書く?」
「今は、書き方を決める」
「期限」
「帰院後二日」
「見せる?」
「見せません」
「信用が」
「私信です」
ハルは笑った。
エリアも右手で口元を隠した。
空の下で、本の樹冠が風に鳴る。
破れたページは、元どおりにはならない。
その代わり、どこが破れ、誰が覚え、どこまで直したかを残せる。
人間の記憶も、同じ方法でしか未来へ渡せないのかもしれない。
エリアは、十四年前の空を地図へ戻した。
中央目録室の床いっぱいに、透明な立体図が広がる。
現在のトルカ。十四年前のトルカ。雲流、気圧、巡回航路、甲羅町の建物配置、十三番相当区画の推定位置。
路図は過去を直接見る術ではない。
古い航海日誌、雲観測、建物の風化、当日の売買記録、周辺船の鐘時刻。測れるものを一つずつ現在へ置き、線の空白を残しながら復元する。
「九月十七日、トルカは西裂け雲を避け、通常航路より甲羅二つ分南へ進んだ」とエリア。「正午前、急な下降気流。右前翼を上げ、左旋回。昨日と同じ側」
「右前翼の古傷?」とハル。
「現在の筋硬直と同じ原因とは限らない。十四年前の獣医記録がないから」
「ない?」
「事故翌日から三日分だけ抜けている」
エリアは、地図の一部を空白のままにした。
「推定で埋めないの」とミミ。
「推定は別の色で置く。空白を消すと、分からないことまで分かった顔になる」
「私の物語地図は全部、推定」
「目的が違うと言ったでしょう。これは、人の責任を決める地図だから」
ミミは頷き、空白の横へ小さく“分からない”と書いた。
古い綴りではなく、現在の簡単な字で。
アデルが保管庫から、事故前年の設備申請束を持ってきた。
「封印対象外でした。題名が“学生実習改善”だったため、事故記録として分類されなかった」
紙束は十二件。
申請者は、王立星航学院からトルカへ派遣されていた鉄翼章の実習生たち。
『腹側作業用の二点命綱を三点へ変更してほしい』
『個人翼を持たない者へ、共用滑空布を配備してほしい』
『緊急荷架の展張訓練を年一回行ってほしい』
『落下班の点呼札を図書札と分けてほしい』
マオが紙へ顔を近づける。
「難しい言葉で断られてる」
回答欄。
『現行設備は標準体格・標準飛行能力を有する星航生を想定し、必要十分である』
『追加滑空布は荷重増となり、全体安全性を損なう』
『実習生は正規救難員ではなく、訓練対象を限定する』
「標準飛行能力」とハル。
「翼で自力退避できる生徒を基準にしている」とティア。
「鉄翼章は身分の章で、鉄の翼があるわけじゃない」とミミ。
「分かってる」
「異界の本だと、みんな鉄の羽が生える」
「それ、九番棚の間違った本?」
「人気」
マオは申請書の難語へ白墨で平易語を書き足す。
『あなたたちの身体は標準ではないので、追加装備の重さの方を危険とします』
「要するにこれ」と彼女。
部屋が静かになった。
制度の文章は、しばしば主語を消す。
“標準”が誰かを、書かなくてよくなるからである。
オルトが申請者名を数える。
「十四名」
十八枚の未帰隊札のうち、鉄翼生は十四枚。
「全員一致?」とハル。
「名はまだ開けていません」とセレナ。
「申請者と死者が同じか、確認が必要」
「遺族代表の鍵が決まるまで、個人名照合はしません。ただし人数、所属、申請番号の一致は、匿名化して確認できます」
ガランが言う。
「私の権限で開ける」
セレナの灰色の瞳が向く。
「できません」
「封印署名者だ」
「だからです。利益相反」
「調査を早めるためだ」
「早める者が、結果で責任を負う者でもある。三鍵の空席を埋めるまで待ちます」
ガランは反論しようとし、やめた。
「正しい」
その一語を言うのに、十四年かかった。