第66話 第九章「事故記録の空白」後編

 遺族代表は、パン屋の老人が引き受けた。

「妻のことを知りたい」と彼は言った。「だが、私が全員の名を決める権利はない。鍵を持つのは、開けるためじゃなく、勝手に開けないよう見張るためだ」

 アデル、セレナ、老人。

 三人が同時に鍵を回す。

 封緘箱が開いた。

 まず、名を見ず番号と所属だけを照合する。札一から十四。鉄翼生。設備申請者番号と一致。札十五、十六。図書館員。札十七、十八。甲羅住民。

 老人の妻の番号は、十八番だった。

 セレナは、彼へだけ名を見せた。

 老人は文字へ指を置かない。

 粉の付いた手を膝へ置いたまま、見た。

「帰らなかったんだな」

「未帰隊札です」とセレナ。「死亡の確定記録は別に必要です」

「まだ事実だけを言うのか」

「はい」

「そうしてくれ」

 老人は目を閉じた。

「私は十四年、妻が別の町へ降りたかもしれないと思っていた。そう思う日もあった。死んだと思う日もあった。どちらも終われなかった」

 アデルが彼の横へ椅子を置く。

 肩へ触れない。

 水だけを手の届く位置へ置く。

 セレナは証羽を伏せた。

 この言葉を、公の証拠へしない。

 老人が箱の前を離れた後、残る十七枚について、連絡できる家族へ一件ずつ条件照会が送られた。

 質問は一つではない。

『氏名を自分だけで確認する』

『家族内で共有する』

『事故の公的記録へ氏名を載せる』

『所属だけ載せる』

『現時点では確認しない』

『後日、選び直す』

「選択肢が多い」とティア。

「少なければ選びやすいです」とセレナ。「選びやすいことと、選べることは同じではありません」

 最初の返信は、鉄翼生の姉からだった。

『名を公表してほしい。弟は学院にいなかったことへされた。いなかったことを終わらせたい』

 二通目は、図書館員の息子。

『私だけに見せてほしい。母の名を町へ出したくない。事故後、家族が責められた。今の子供へ同じことを起こしたくない』

 三通目は空白で戻った。

 羽は開封されたが、選択欄へ印がない。

「未回答?」とハル。

「回答しない、という回答かもしれません」とセレナ。「催促の可否を先に尋ねていないので、再送しません」

「忘れた可能性も」

「あります。だから期限後、窓口は残す。こちらの都合で沈黙を賛成にも拒否にも数えない」

 四通目は、強い怒りの声だった。

『今さら選ばせるな。十四年前に選ばせるべきだった』

 その家族は、名の確認も公表も保留した。

 保留は無関心ではない。選択を遅らせる権利だった。

 五通目は、死亡を知っていた家族から。

『墓がある。死亡通知も受けた。ただし事故名は“航路外転落”だった。十三番のことは知らなかった。名は出してよいが、最期を英雄として書くな』

 ティアが読み上げを止める。

「英雄として書くな」

 十四名の鉄翼生は、設備不足を訴えていた。

 事故で残り、救難を手伝った可能性がある。

 それを、差別へ耐えた勇敢な学生たちという一文へすれば、学院は彼らを称えることで、申請を退けた責任から逃げられる。

「称賛が隠蔽になる」とハル。

「なります」とガラン。「責任者が死者を褒める時は、特に」

「あなたも、褒める文を書いた?」

「書いた。事故名を伏せた学院表彰案へ、救難協力とだけ記した」

「採用された?」

「十四名全員ではない。所属上、表彰資格なしとして退けられた」

 鉄翼章の実習生は、正規救難員ではないから装備を与えられず、正規救難員ではないから事故後の表彰対象にもならなかった。

 役割を与えない制度は、責任も名誉も渡さない。

 必要な時だけ働かせ、記録では最初からいなかったことにできる。

 マオが平易語へ直した。

『助ける仕事をさせた。でも、助ける人の道具も名前も与えなかった』

 ティアはその一文を写した。

「公開審査で使えますか」

「制度説明としては」とセレナ。「特定の死者が何をしたかは、個別同意が必要です」

「全員を一つの集団へしない」

「はい。十四人が同じ所属でも、家族の選択は別です」

 六通目は、家族が見つからなかった。

 住所は失効。親族欄なし。生前の友人は高齢で、法的代理権はない。

「空席のまま?」とアデル。

「当面は」とセレナ。「図書館が代わりに公開を決めません。公的責任の説明は氏名なしで出せる」

「誰も決められない名は、永遠に閉じる?」とミミ。

「永遠とは決めません。再照会条件、見直し日、異議申立てを残します」

「その人自身は、どうしたかったか」

「分かりません」

「本に書いてない?」

「書いていないことを、読んだふりはできません」

 ミミは納得しない顔をした。

 納得しなくてよい。

 不明は、気持ちのよい結論ではない。だからこそ、勝手な善意で埋められやすい。

 夜までに、十二家族から返事が来た。

 氏名公表希望、四。

 家族内確認のみ、三。

 所属のみ、二。

 保留、三。

 未連絡、六。

 数字にすると、整って見える。

 だが同じ「保留」三件にも、怒り、迷い、家族内対立がそれぞれある。

 セレナは集計表の下へ書いた。

『同じ選択欄は、同じ理由を意味しない』

 ハルは十八枚の黒紙を見た。

 四枚だけ、家族同意の範囲で名を開けられる。

 残りは覆われたまま。

「全部分からなくても、事故は公表できる?」

「できます」とアデル。「構造、設備、点検、行政命令。個人名がなくても、制度の責任は消えません」

「名前を守るために、事故を隠す必要はない」

「十四年前、そこを分けなかった」とガラン。

 彼は自分の署名へ、他人の名を盾として使った。

 守るべき私生活と、公開すべき公的行為を同じ封筒へ入れ、封をした。

 今度は、封筒を分ける。

 その手間こそが、十四年分の修復だった。

 事故原因を一つの悪意へまとめれば、物語は簡単になる。

 設備を削った役人が悪い。

 訓練をしなかった学院が悪い。

 棚を切った機関士が悪い。

 記録を止めたガランが悪い。

 すべてに責任はある。

 すべてを一つにすると、どこを直せば次を防げるかが消える。

 エリアは地図へ四層を重ねた。

 四層地図の検証は、反対側からも行われた。

「原因を足しすぎていないか」とセレナ。

 複雑な事故を説明する時、人は何でも原因へ入れたくなる。

 気圧、疲労、差別、予算、古い金具、悪い判断。多く並べれば深く見えるが、関係のない要素まで入れれば、責任の線は逆に薄くなる。

 エリアは各層へ問いを付けた。

『この条件がなければ、事故の形は変わったか』

『この条件は、当時予見できたか』

『誰が変更できたか』

『現在、何を直せるか』

 自然条件の下降気流は、起きた。

 人間は止められない。

 ただし航路変更と翼筋硬直の観測は可能だった。

 構造条件の巻軸固着は、事故前年の点検で摩耗報告がある。

 交換申請は、費用と運休日数を理由に延期された。

 救難条件の滑空布不足は、十四名が書面で指摘している。

 予見可能だった。

 記録条件は、事故そのものを起こしてはいない。

 だが同じ構造を十四年後の中継室へ残し、今回の再事故を防ぐ機会を奪った。

「第四層は、最初の事故の原因じゃない」とハル。

「そう」とエリア。「最初の事故を、次の事故へ接続した原因」

 ガランが黒線を見る。

「私の命令は十八名を落としたのではない」

 部屋が静かになる。

「だが、昨日の十二名を落としかけた設備が、事故の教訓を受けず残ることへ寄与した」

 自分の責任を大きく言えば、反省しているように見える。

 小さく言えば、逃げているように見える。

 正確な責任は、そのどちらにも似ない。

「それを公開文へ」とセレナ。

「書く」

「“寄与”を平易に」とマオ。

 ガランは一度考えた。

『私の命令は最初の落下を起こしていない。しかし、最初の失敗を次の設計へ伝えない状態を作り、今回の危険を増やした』

「長い」とハル。

「短くすると、どこをやったか消える」とマオ。

「じゃあ長くていい」

 言葉遊びで短くすることと、責任を切り詰めることは違う。

 言葉を速くする少年も、速くしてはいけない一文を少しずつ覚えていた。

「第一、自然条件。下降気流とトルカの急旋回」

 青い線。

「第二、構造条件。緊急荷架の巻軸固着、点検不足」

 黄色い線。

「第三、救難条件。滑空布と三点命綱の不足。鉄翼実習生の申請が未処理」

 赤い線。

「第四、記録条件。事故後の資料封印、索引削除、教育記録からの除外」

 黒い線。

「切断は?」とハル。

「第一から第三が重なった後の緊急判断。誰が、なぜ、何を救うために切ったかは未確定」

「でも切らなかったら?」

「十三番荷架がトルカの腹へ引っ掛かり、十二棚と甲羅町の一部を巻き込んだ可能性が高い」

 ロロは六時間の睡眠を終え、片方だけ寝癖を立てて戻ってきた。

「可能性じゃねえ。切断面の引張痕が、全体荷重の九割を受けた形だ。あと四十秒遅けりゃ、七番と八番も当時落ちてる」

「切った者は、町を救った」とティア。

「十八人を載せたまま」とハル。

「両方」とエリア。「救ったことと、救えなかったことを一文へまとめない」

 ガランは地図の黒い層を見ていた。

「私は第四だ」と言った。

 誰も否定しない。

「事故直後、遺族通知前の名簿公開を止めた。その時点では必要だったと今も考える。だが、通知後も解除しなかった。索引を事故なしとして処理し、教育資料から参照を外した」

 ティアが父を見る。

「あなたが?」

「命令した」

「証拠は」とセレナ。

 ガランは濃紫の書類箱を出した。

 自分で持参したものだった。

「承継文書の私蔵写しだ。公開停止命令の後、危機広報局から学院へ送った照合指示がある」

 彼は箱を机へ置く。

「私は、これを提出するために来た」

「最初から?」とハル。

「封印の範囲を確定してからだ」

「また順序」

「そうだ」

「逃げるため?」

「逃げないために、手順を残す」

 セレナが箱を受け取る。

 証羽で開封前の状態を記録する。

 中には、事故番号を学院の外部索引から外す指示書があった。

『当該記録を未確定危機資料へ移管し、公開目録、教育参照、利用者照会から除外する。十三番荷架の呼称は混乱防止のため使用停止とする』

 右手で書かれた、不自然に整った署名。

 ガラン・グランツ。

 初回の一時停止ではない。

 事故を目録から消すための命令へ、彼の署名が直接つながっていた。