第70話 第十一章「公開する娘」後編

 次に、十八枚の札の扱いが議題になった。

「全員の名を出せ」と、甲羅町の若い住民。

「名を消したことが罪なら、今すぐ戻すべきだ」

 パン屋の老人が立つ。

「私の妻の名を、おまえが戻すな」

 若者が言葉を失う。

「妻の名を隠した奴らを、私は許さない。だが、怒ったおまえが妻の名を叫ぶのも違う。名は札じゃない。私の家で呼んだ音だ」

 老人は三鍵の一つを机へ置いた。

「私は妻の名を公表する。パン屋の壁へ自分で書く。だが、他の十七人を同じ日に同じ形で出せとは言わない」

 通信羽から、別の遺族の声が出る。

『うちの兄は、まだ祖母が生きている。事故だと知らせれば身体が持たない。名は今は伏せたい』

『娘の申請文を公開してほしい。どんな最期だったかは出さないで』

『名前だけでなく、好きだった本も載せたい。準備に時間が要る』

『何も公開したくない。私たちを改革の顔にしないで』

 十八枚の札は、裏側に小さな溝を持っていた。

 公開、部分公開、延期、非公開。

 四つの位置へ、家族鍵を差し込める。

 だが、鍵を持つ者が一人とは限らない。

 ある札には、母と弟が別の位置へ鍵を差した。母は非公開、弟は公開。札の内部で歯車が噛み合わず、白い線だけが浮かぶ。

「決められない時は?」と弟が問う。

 セレナが答える。

「決めない状態を保存します。多数決にしません」

「母が死ぬまで待てって?」

「待つ期限も話し合えます。半年後に再確認、第三者を入れる、項目ごとに分ける。名前、顔、申請文、最期、家族住所は、同じ情報ではありません」

 母親は通信羽の向こうで言った。

『息子の名を消したいんじゃない。知らない人に、かわいそうな母親として見られたくない』

「俺は、兄貴が抗議してたことを残したいんだ。黙って落ちたみたいにされたくない」

『なら申請文だけ。家のことは出さない』

「名前なしで?」

『名前は……半年後に、もう一度』

 札の溝へ、部分公開と延期の二つの小鍵が入った。

 同じ人間について、違う情報が違う時刻を持つ。

 王国の古い記録制度は、文書を「開く」「閉じる」の二つで扱った。扉の比喩である。だが人の記憶は家ではない。台所だけ見せて寝室を閉じることも、今日は玄関を開けて明日閉じることもある。

 エリアが記録層を四段に分けた。

「閲覧できること」

「名前で検索できること」

「授業で反復利用できること」

「新聞や通信羽で再配布できること」

 ハルが目を瞬く。

「見られるなら、全部同じじゃないの?」

「違うわ。図書館へ来て事故記録を一度読むことと、誰かの名前を入れれば人生の断片が一覧で出ることは違う。授業で毎年読まれることも、見世物の通信へ切り取られることも違う」

「公開って、一枚の窓じゃないんだ」

「窓ならカーテンしか選べない。これは廊下と棚と貸出条件よ」

「図書館の事件らしい答え」

「場所に合わせて比喩を選んだだけ」

「比喩にも服装規定あるんだな」

「あなたの比喩はだいたい裸足で走ってくる」

 マオが十八枚の札を順番に確認した。

 四枚は名前の公開を希望した。

 三枚は申請文だけ。

 二枚は好きだった本と年齢だけ。

 五枚は延期。

 四枚は、この審査では何も出さない。

 数は示されたが、どの札がどれかは示されない。

 選択そのものを、家族の思想一覧へ変えないためである。

「公開しない四家は、隠蔽に加担するのか!」

 広場の後方から声が飛んだ。

 パン屋の老人が振り向くより、ティアが前へ出る。

「違います」

「事実を戻すのに、なぜ家族の許可が要る!」

「事故が起きた事実、制度欠陥、公的判断に許可は要りません。個人の名前、家族歴、最期の詳細は、別です」

「死者は選べない!」

「だから、生前の指定を探します。なければ関係者が代わりに決める範囲を狭くします。誰も完全な代理にはなれないと認めた上でです」

「全部出さなければ、また権力者が都合よく隠す!」

 ティアは一拍置いた。

「その恐れは正しい。だから公務記録は本人や家族が閉じられない。父の署名は、私が娘だから伏せられない。同時に、権力を監視するため、被害者の私生活まで差し出させない」

 男が叫ぶ。

「綺麗事だ!」

「はい。綺麗にするための手続きです」

 広場が一瞬、意味を取り損ねた。

「汚れた現実に合わせて手続きを汚せば、汚れを残す仕組みになります。完全には守れない。完全には戻せない。それでも、できないことを理由に選択を一つへ減らしません」

 ハルは、ティアが父に似ていると思った。

 言葉を条文へし、条文を道へし、道から外れる者を恐れるところが。

 そして、父と違うとも思った。

 道を一本にせず、戻り道と立ち止まる場所まで描こうとしている。

 似ているから切るのではない。

 似ているものを、違う使い方へ変える。

 親子とは、血の反復ではなく、反復へ異議を出せる最初の制度なのかもしれない。

 その時、延期を選んだ一枚の札が、机の端から落ちた。

 ピコが飛びつく。

「ピ!」

 セレナも同時に手を伸ばす。

 だが、先に拾ったのはノクスだった。口ではなく前脚で押さえ、札に鼻を近づけず、そのまま座る。

「珍しく分別がある」とロロ。

 ノクスはロロを見て、ゆっくり瞬きをした。

「俺よりあるみてえに見るな」

 ピコが不満げに翼を鳴らす。

「ピコココ」

「おまえは歯車だけ見てろ」

 小さな笑いが広場へ起きた。

 笑っていいのか迷う笑いだった。

 パン屋の老人が言う。

「笑っていい。妻は、静かな式が嫌いだった」

 その一言で笑いは、事故を軽くする音ではなくなった。

 死者について笑うのではない。

 死者がいた世界で、生きている者が息を継ぐ音になった。

 同じ遺族でも、望みは違う。

 全員を同じ日に同じ方法で“記憶へ戻す”ことは、再び本人たちを一つの制度へ押し込む。

 ティアが第三の紙を開いた。

「提案します」

 声は一定。

 感情が強いほど、一語ずつ区切る癖が出る。

「第一。事故の日時、構造欠陥、設備申請、救難手順、未帰隊者十八名という事実は、本日公表する。個人名を含めない」

 一行目。

「第二。公職者と公的機関の判断は、本日公表する。署名者名、命令文、権限、期間を含む。公務上の行為は、家族の許可で伏せない」

 父を見る。

「第三。未帰隊者の個人名、申請文、家族歴、最期の状況は、各遺族または本人が指定した者が、公開、非公開、延期、部分公開を個別に選ぶ。選択は後から変更できる」

「後から名前を消す?」と住民。

「公開済みの新聞まで完全に消せないことは説明します。その上で、図書館の展示、検索、授業利用は変更できるようにする」

「第四。記録管理は、王国、図書館、遺族代表の三者鍵。どれか一者が永久に独占しない」

「第五。記録停止には必ず終了時刻と再審査者を置く。保護を理由に当事者を決定から外さない」

 ガランの眉が動く。

 ティアは続ける。

「父の署名を出すか、家名を守るか。その二択だと考えました。誤りでした。家名を守るという言葉は、公務の責任から父を外し、父を守るという言葉は、本人の責任を私が奪う」

 父へ向く。

「監督官ガラン・グランツ。十四年前の一時停止、索引削除、教育参照除外へ署名した事実を、公表します」

 広場の掲示板へ、署名文書の写しが映る。

 ガランの右手が、空中で署名の形をなぞりかける。

 途中で止まる。

「異議は」とセレナ。

 ガランは眼鏡を外さなかった。

「ない」

「説明は」

「必要ならする。弁明ではなく、経緯として」

 彼は広場へ向く。

「私は、事故直後の名簿公開停止を決めた。遺族通知前の公開で報復が起きると予見したためだ。その判断には理由があった。だが、通知後も解除しなかった。索引を消し、教育資料から外し、事故なしとして運用した。混乱を防ぐ名目で、当事者から選択を奪った」

 声は硬い。

 硬さの中へ、逃げ道はなかった。

「正しさは混乱を免責しない。私は長く、そう言ってきた。混乱への恐怖も、私の責任を免責しない」

 ティアの言葉を、父が返した。

「学院規律監督官の職務を、審査終了まで停止する。関連記録の保全へ協力し、処分に従う」

 濃紫の術光が掲示板へ走る。

『ガラン・グランツの学院規律監督権限を本日正午より停止する。解除は独立審査後とし、本人は解除権を持たない』

 自分の権限を止める命令。

 ワン・ワードが、町じゅうへ同時に表示する。

 誤りも一斉に広がる術は、訂正も一斉に広げられる。

 掲示が消える前、一人の女が前へ出た。

 学院の旧制服を着ている。襟の色から、十四年前の機関科生だと分かった。

「ティア・グランツ」

「はい」

「あなたは父親を守っている」

 広場の誰もが、似た疑いを持っていた。

 娘が作った手続きで父を裁く。いくら鍵を分けても、鍵穴の形を娘が決めれば、家族の城である。

 ティアは否定しなかった。

「守っています」

 怒声が起きる前に続ける。

「私刑から。推定で罪を増やすことから。公務と無関係な家族情報を暴くことから。父でなくても守ります」

「では、追及は」

「します。証拠を保全し、権限を止め、独立審査へ渡し、結果を公表する。父でなくても同じです」

「愛しているから、甘くなるんじゃないの」

 ティアの右膝が、ほんの少し内へ入った。

 痛みが出た時の癖である。彼女は足を引かなかった。

「愛していない相手にしか適用できない手続きは、正義ではありません」

「愛している相手へ厳しくすれば、正義?」

「それも違います。憎んでいる相手へ重くし、愛している相手へ軽くするのと、愛している相手だけ見せしめに重くするのは、向きが違うだけで私物化です」

 女は黙った。

 ティアは父を見ずに言う。

「私が守るのは、父が無罪になる可能性ではありません。証拠以上の罪を背負わせないことです。同時に、父が私の悲しみを理由に責任から逃げることも許しません」

 ガランが肩章の下に残っていた細い認証鎖を外した。

 王国の規律監督官は、命令文の原本庫へ一人で入れる。停止命令を出しても、認証鎖を持つ限り、緊急を理由に扉を開けられた。

 彼は鎖をセレナの証拠盆へ置く。

「原本庫の単独鍵を返納する。関連部署への命令権、文書閲覧権、部下の人事評価権も停止対象へ加えてほしい」

 セレナは受け取らない。

「“加えてほしい”では、あなたが範囲を選んだことになります。審査側が範囲を決めます」

 ガランの口元が、わずかに固くなる。

「了解した」

「返納は受理します。停止範囲は別途、三者で決定します」

 審査役は、甲羅町の遺族代表一名、学院外の救難監査官一名、王都の文書法官一名。

 任期は四十日。

 延長には公開理由が要る。

 誰もガランの部下ではなく、ティアも審査役に入らない。

「娘なのに?」とミミが小声で言う。

「娘だから」とマオ。

「知ってること、いっぱいあるのに」

「証人にはなれる。裁く席には座らない」

 ハルが首を傾げる。

「知ってる人が決めないの、もったいなくない?」

 エリアは広場を見たまま答えた。

「知っていることと、自分の気持ちを測れることは別よ」

「じゃあ、何も感じない人が決める?」

「何も感じない人はいない。だから、一人で決めない」

 簡単ではない。

 簡単でないから制度にする。

 人は善人だから鍵を分けるのではない。善人も疲れ、怯え、愛し、間違えるから分けるのである。

 審査の休止鐘が鳴った。

 ティアは初めて父の近くへ行った。

 公の場なので、「父上」とは呼ばない。

「監督官。食事と薬は、停止措置の対象外です」

「当然だ」

「当然を言葉にします。曖昧にすると、あなたは処分を自己罰へ変える」

 ガランが眼鏡の奥で娘を見る。

「君は私を、そこまで幼いと思うか」

「十四年、終わりのない停止を続けた人です」

 父の頬がわずかに動いた。

 怒りではない。言い返せる言葉を探し、見つからなかった顔だった。

「帰宅は」とガラン。

 ティアは右耳後ろの深紅の編み込みへ触れた。

「審査の隔離条件に従ってください」

「家の話だ」

「私も、家の話をしています」

 数秒。

「……夕食の香辛料は、棚の二段目だ」

「知っています」

「古い壺は辛すぎる」

「それも知っています」

「新しい方を使え」

 ティアは目を伏せなかった。

「処分が終わったら、自分で量を選んでください」

 赦すとは言わない。

 絶縁するとも言わない。

 夕食があるとも、ないとも約束しない。

 ただ、処分の後に選ぶ時間があると告げた。

 ガランは、命令を受けた時のように短く答えた。

「了解した」

 ハルは息を吐いた。

「家族の会話、難易度高いな」

 マオが鼻を鳴らす。

「おまえは低すぎる。“腹減った”“ただいま”“ごめん”の三択だろ」

「三択あるなら立派じゃない?」

「順番が問題。おまえ、“腹減った”を謝罪の前に置く」

「空腹は時系列を尊重しない」

「謝罪は空腹を尊重しなくていい」

 エリアが言った。

「帰ったら、まず治療室へ報告。それから食事。それから壊した備品の始末書」

「俺の家族が増えてない?」

「監督が増えただけよ」

 ティアの口元が、一瞬だけ緩んだ。

 娘の顔だった。

 すぐに委員の顔へ戻る。

 公と私を分けることは、人間を二つに切ることではない。

 同じ人間が、どの場でどの権限を使っているかを示すことだった。

「処分が軽い!」

 怒号が飛ぶ。

「十四年だぞ!」

「監督停止だけで済ませるな!」

 別の声。

「事故を公表すれば、鉄翼生と学院の争いが再燃する!」

「また店が襲われたら誰が責任を取る!」

「永久に伏せろ!」

 公開審査は、正しい結論を読めば終わる舞台ではない。

 結論が出た後、それに従いたくない人間も含めて社会である。

 ハルは立ちかけた。

 エリアが袖を引く。

「必要な時だけ」

「今じゃない?」

「ティアが話している」

 ティアは怒号を待った。

 止めない。

 ガランの術で一つの文へ揃えない。

「処分は、私が決めません」と彼女。「独立審査が決めます。軽いと感じる者は、根拠を添えて意見を提出してください。重いと感じる者も同じです」

「逃げるのか!」

「私が父の処分を決める方が、責任を私物化します」

「公表後の報復は!」

「危険を具体的に分けます。個人住所は出さない。設備申請を退けた委員の私宅も出さない。脅迫は事故への怒りを理由に免責しない。警備と相談窓口を同時に置く」

「全部守れるのか!」

「守れるとは言いません。危険を理由に誰も選べない状態へ戻さないと言います」

 完全な安全を約束しない。

 約束できないものを、勇気で埋めない。

 ハルは座り直した。

「俺が言うことなかった」

「珍しい」とマオ。

「少し寂しい」

「主役病」

「病気扱い?」

「治療は、人の場面で座る」

「いま治ってる」

 ノクスが席下から出て、ハルの靴へ顎を置いた。

 大人しくしていることが、何もしないこととは限らない。

 審査の最後、学院長リディア・セレスから通信羽が届いた。

 白金の短髪が、羽の光像に浮かぶ。

『王立星航学院は、十四年前のトルカ事故について、当時の実習派遣、設備申請処理、教育資料除外を独立監査へ付します』

 学院長の声は静かだった。

『同時に、次年度を待ちません。本事故の匿名化された構造記録、失敗した救難手順、申請が退けられた理由、今回の再救助記録を、救難課と機関科の共通課程へ組み込みます』

 広場がざわめく。

『教材化は、遺族と生存者の同意範囲を超えません。事故を英雄譚へしません。誰か一人が正しく切った話ではなく、切る前に何を分散できたかを教えます』

 オルトが目を伏せる。

 左耳の十一個の鉄輪が、小さく鳴った。

『なお、教材の最初の問いはこれです』

 掲示板へ一文が出る。

『同じ条件を課すことと、同じように帰れることは、同じか』

 ティアの右手が、胸の期限付き委員札へ触れた。

 父の規則を破ったのではない。

 父の規則を、誰でも問い直せる教材へ変えた。

 公開審査は、鐘三つ後に終了した。

 十八名の名は、まだ全員分は公表されなかった。

 事故は、もう存在しないことにはならなかった。