第71話 第十二章「欠けた歯車印」前編

事故には、終わった日が二つある。

 一つは、人が落ちなくなった日。

 もう一つは、落ちた理由を次の設備へ移し終えた日である。

 前者は新聞になりやすい。救助成功、危機回避、死者なし。大きな字で一度刷ればよい。

 後者は新聞になりにくい。梁を替え、規則を書き、予算を取り、誰が点検したかを残し、使えなかった者の意見を聞き、聞いたふりをせず直す。小さな字を何年も書き足さねばならない。

 歴史は劇的な一日を好む。

 生活は、その翌朝から始まる。

 公開審査の翌朝、翼亀トルカの腹では、十二の書架すべてに足場が組まれていた。

「十三番を作り直さないの?」

 ミミ・フォルドは、中央目録室の床へ置かれた縮尺模型を見下ろした。

 十四年前の十三番荷架は外されている。空いた場所には、一つの大きな箱の代わりに、十二個の小さな赤い板が付いていた。

「作り直さねえ」とロロ。

「昨日、名前を戻したのに」

「名前を戻すことと、同じ壊れ方を戻すことは違う」

「十三番が可哀想」

「棚へ感情を足すな。修理代が増える」

「ロロは工具へ話しかける」

「工具は返事をする」

「私は?」

「文字を直す」

「返事してる」

「うるせえな!」

 ロロは模型の十二枚の赤板を順番に叩いた。

「旧十三番は、全体の姿勢を一か所で引き受けてた。緊急時には本を帆にして、人を載せたまま落下を遅くする。理屈は優秀だ。優秀すぎて、一つ壊れた時に全部がそこへ集まった」

「だから分ける」とエリア。

 彼女は模型の上へ、十二本の光線を描いた。

「各書架に小型の読翼帆。隣り合う二棚へ負荷を分ける斜張索。中央命令が届かなくても、各区画が独立して展開できる。どこか一つが動かなければ、残る十一から最寄りの三つが補う」

「十二個あるなら、十三番じゃない」とミミ。

「十三番の役目を、十二が少しずつ持つ」とハル。

「じゃあ十三番は、どこ?」

 ハルは答えかけて、模型の空白を見た。

 存在しない場所を指す零星針は使わない。あれは、失われた原因を一度だけ指した。今日必要なのは、失われた場所へ何を置くかではなく、残っている場所へ何を分けるかだった。

「一つの場所じゃない」

 ハルは、赤板を一枚ずつ指した。

「一番にもある。二番にもある。十二番にもある。十三番は、なくなった棚の番号で、これからは一か所へ押しつけない仕事の名前になる」

 ミミは考えた。

「じゃあ、目録には?」

 アデルが新しい透明板を運んできた。

 十二枚の区画板の下に、細長い一枚を追加する。

『十三番救難記録』

『所在地 単一区画なし』

『機能 全書架へ分散』

『閲覧条件 構造記録は公開/個人記録は選択制』

「入口は複数あります」とアデル。「棚がなくても、目録は置けます」

「十三枚目」とミミ。

「十二までしかないと言えなくなりました」

「じゃあ事件名が変わる」とハル。

「事件名で生活しないでください」とティア。

 彼女は足場許可書を十二枚、模型の横へ置いた。

 右膝には白い支持帯。昨日の長時間立位で腫れが戻り、今朝の医務確認では走行禁止、階段は休止を挟むという条件が付いた。

「試験展開は昼鐘一つ後。各区画の責任者は、展開命令を中央へ依存しません。中央からの共通命令は開始と停止だけ。停止しない命令を出す者はいません」

「昨日、父親へ言ったことを設備へ言ってる」とハル。

「設備に親子関係はありません」

「機械の親は設計者って第一章で――」

「章をまたいで言葉尻を持ってこないでください」

「規則の親はいるのに?」

「比喩へ戸籍を作らないで!」

 ティアの声が一段上がった。

 元気になった、とハルは判断した。

 本人へ言うと第五の提出物が増えそうなので、黙った。

 人が黙る理由は、成長だけではない。

 経験による危険予知も、立派な学習である。

 中継閲覧室があった場所には、まだ仮橋しかない。

 十二番棚の秘密の読書巣も、格子を外され、床へ黄色い線が引かれていた。

『立入禁止』

 最初の札には、そう書かれていた。

 マオが赤鉛筆で二重線を引いた。

「禁止だけなら、別の格子を外す」

「私たちを犯罪者みたいに言わないで」とミミ。

「昨日まで無許可侵入者」

「読者」

「許可のない読者」

「本は読んでいいって言ってた」

「本は口頭契約の主体にならない」

「羽で返事した」

「風」

「ハルみたいなこと言った」

 マオは一瞬、深く傷ついた顔をした。

「書き直す」

 新しい札へ、大きな文字で記す。

『ここは工事中です』

『静かに読む場所は、十二番棚の南窓側に仮設しました』

『新しい読書巣の高さ、明るさ、椅子、逃げ道を一緒に決めます』

『参加したくない人は参加しなくてよいです』

「最後、要る?」とバル。

「要る」とマオ。「参加を強制したら、秘密の巣を閉じた大人が新しい巣の正解まで決める」

「椅子は吊り布」とミミ。

「床座り」とバル。

「紙飛行機を飛ばせる」とネネ。

「静かな場所だよ」とミミ。

「静かな紙飛行機」

「存在する?」とハル。

「投げなければ」とエリア。

「それ、飛行機の存在意義を制度で止めてる」

 ネネは紙を折った。

 先端を丸くし、翼を大きくする。投げずに窓辺へ置くと、トルカの腹を抜ける風がそっと持ち上げ、紐の範囲だけ浮いた。

「飛んだ」

「投げてない」とネネ。

「新しい制度」とハル。

「物理です」とエリア。

「物理は制度より先にある?」

「制度を作る者が物理を忘れると、昨日のようになります」

 十四年前の十三番は、重力を忘れたのではない。

 重力へ抗う方法を一つの設備へ集めすぎた。

 今朝の子供たちは、静かさと飛行を一枚の紙へ同居させた。

 社会の改善は、ときどき会議より工作が早い。

 ただし、その工作を全員が使えるよう予算へ移すには、結局会議が要る。

「吊り糸、十二ルク」とロロ。

「子供から取るな」とハル。

「図書館へ請求だ!」

「明細を」とアデル。

「昨日から全員それ言う!」

 ロロの補助腕一本が、天井へ向かって不満を訴えた。

 別の一本は、ネネの飛行機へ安全糸を結んでいた。

「字の弱い機関士」

 昼前、ミミがロロを呼んだ。

「その呼び方を正式採用すんな」

「古い字の授業」

「忙しい」

「昨日、呼べって言った」

「読める奴を呼べって言った。授業しろとは」

「私は読める。呼ばれた。だから授業」

 論理の締め具が、ロロの逃げ道へ正確にはまった。

「一回だけだぞ」

「一回で覚える?」

「……三回」

「週に?」

「今日の一回を三つに割る!」

「時間は割っても増えないよ」

 ロロは机へ古い保守札を置いた。

 ミミは椅子へ座らず、机の下へ潜る。文字は正面から見るものだと大人が決めただけで、裏から透かした方が分かる綴りもある、と主張した。

「これは」とロロ。

「『緊急展帆』」

「展が変だ」

「昔は開くものの中に風を書く」

「面倒だな」

「今の字は、風を省いた」

「省いて読めるなら正しい」

「省いたから、帆を開くのか棚を開くのか分からなくなった」

 ロロは黙った。

 古い字は、古いだけで残す価値があるのではない。形の中へ、当時の操作が圧縮されている。

 親文字が意味を渡し、呼び名が社会の使い方を渡すのと同じだった。

「次」

「三回の二回目?」

「今日は一回だ! 次の字!」

 ピコが机へ降りた。

 嘴には、欠けたワッシャーが一枚ある。

「それ俺の模型部品!」

「ピ」

「返せ」

「ピココ」

 ピコはミミの靴下へワッシャーを落とした。

 靴下から栞が二本、ワッシャーが一枚。物をしまう思想が似た者同士は、所有権で揉める。

「預かった」とミミ。

「盗品を預かるな」

「授業料」

「高え!」

「一ルクって言ってた」

「選別費込みだ!」

 ロロは結局、ワッシャーを取り返さなかった。

 代わりに古い綴りを一つ、正しく読んだ。

 その日の記録には、こう残った。

『機関士ロロ・ピクス、旧字基礎一語を習得』

『教師ミミ・フォルド、模型部品一枚を保管』

『支払条件、未合意』

 文明は、たいてい未合意の授業料から始まる。

 十三番貸出印は、分解されたまま廃棄されなかった。

 中央目録室の窓辺に、新しい透明箱が置かれる。

 中には三つの物が入っていた。

 一つ、十三輪のある貸出印。

 一つ、第十三落下班の旧刻印を写した金属板。

 一つ、切断面から採った工具痕の樹脂型。

 樹脂型には、三枚歯のうち一枚が欠けた並びが残っている。

 細い歯、空白、細い歯。

『切断者 不明』

『使用工具 三枚歯回転鋸/一歯欠損』

『確認できる行為 荷架主梁の切断』

『確認できる結果 残存十二書架および甲羅町への連鎖落下を回避』

『確認できない事項 切断者の氏名、所属、動機の全容』

 ハルは箱の前で立ち止まった。

「英雄の印みたいだな」

「英雄と書いていません」とセレナ。

「悪人とも」

「書けません」

「十八人を落とした」

「十二棚と町を救った可能性が極めて高い」

「両方」

「両方です」

 セレナは単眼鏡を掛け、説明札の一字を直した。

 『救った』ではなく、『連鎖落下を回避』。

 人の価値ではなく、確認できる物理結果へ言葉を狭める。

「誰か、見つけたくならない?」とハル。

「なります」

「証拠官でも?」

「証拠官だから、知りたい気持ちを証拠へ変装させないようにします」

 ノクスが透明箱の周囲を嗅いだ。

 二本の尾は動かない。

 古い約束の匂いは、十四年の風と油と本の黴に混じり、誰のものか分けられない。

 ピコが透明箱の鍵を狙う。

「それは取るな」とロロ。

「ピ」

「欠けてるからって仲間じゃねえ」

 ピコは首を傾げた。

 自分の嘴で鍵を一度叩き、諦めてハルの襟へ入った。

「俺を証拠保管庫にするな」

「ピ」

「今回は何も持ってない?」

「ピ」

「その返事、信用できない」

 信用とは、相手が何もしないと思うことではない。

 何かした時、襟を調べる手順があることである。