第72話 第十二章「欠けた歯車印」後編
昼鐘一つ後、十二書架分散展帆の試験が始まった。
見物人は甲羅町の風市場へ集められた。
昨日の公開審査と同じ場所。今日は怒号の代わりに、十二色の小旗が立っている。
「試験条件を読みます」
ティアが掲示板の前へ立った。
「第一、各棚は独立判断で展帆できる。第二、中央からの開始命令は七拍で失効する。第三、失効後は各棚責任者が継続か停止を選ぶ。第四、魔法補助が切れても手動で畳める。第五、利用者役の全員が途中退出できる」
「第六」とマオ。「難しい言葉が分からなければ、分からないって言っていい。分からないまま同意した扱いにしない」
掲示板の下へ平易版を貼る。
『始める合図は、すぐ消えます』
『続けるかは、その棚の人が決めます』
『魔法がなくても止められます』
『怖くなったら途中で降りられます』
「第七」とミミ。「本を破ったら、直す」
「安全条件?」とハル。
「生活条件」
「採用」とアデル。
オルトが片目で十二棚の信号を確認する。
「指揮を一つにする。七拍後に返す。復唱」
『一つにする。七拍後に返す』
十二の責任者が通信管へ返す。
ガランは観覧台の最も後ろにいた。
肩章はない。独立審査の決定まで監督権限を停止され、今日の試験では一人の保護者、一人の過去担当者、一人の見学者だった。
それでも規則表の誤字を二つ見つけ、アデルへ黙って紙を渡した。
役職を失っても、性格は停職しない。
「開始!」
オルトの声。
一拍。
十二棚の窓外で赤い覆いが外れる。
二拍。
折り畳まれた小型読翼帆が半分開く。
三拍。
エリアの光の航路を描く地図術〈ルート・レイ〉が、各棚から隣接二棚へ負荷の道を描く。
「三番、風が右へ二指強い!」
「右ってどっち」とハル。
「青旗側!」
「最初からそれで!」
四拍。
マオが足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉で、五番棚の手動巻軸を床へ噛ませる。
「固定一秒! 次、自分で留めて!」
「受けた!」
魔法は、止まり続ける床を与えない。
止め具を掛ける一秒を買う。
五拍。
ロロが中央制御盤を見ず、十二個の個別張力計を順に読む。
「一番、巻きすぎ! 二番へ五度返せ! 十番、遅れていい、無理に揃えるな!」
「同時展開試験です」とティア。
「同じ時刻に始めた。終わりまで同じ速さにする理由はねえ!」
ティアは一瞬だけ目を閉じ、頷いた。
六拍。
彼女の円内へ同じ制限を課す陣〈イコール・リング〉が十二棚の基部へ広がった。
ただし、今回は一つの大円ではない。
一番には、子供が手を離しても腰紐が外れない制限。
三番には、種子箱が一定角度以上滑らない制限。
六番には、車椅子の前輪だけが逆回転しない制限。
十二番には、返却滑走路の本が人の高さへ飛ばない制限。
同じ術で、違う負担へ違う条件を置く。
七拍。
陣が消えた。
オルトの共通命令も失効する。
「各棚へ返す!」
ここからが試験だった。
一番棚の司書が、自分の言葉で子供へ聞く。
「続ける? 止める?」
「続ける!」
「私は降りる」と一人。
「退出路、開けます」
三番棚では、農林技師が種子箱を壁側へ移す。
六番棚では、車椅子の老人が自分で前輪留めを確認する。
十二番棚では、ミミたちが手動巻軸を三人で回した。
「一、二、三!」
ハルの数え方を真似している。
「それ俺の」とハル。
「数は公共物」とマオ。
「著作権がない」
「発明してない」
九番棚の帆が途中で引っ掛かった。
「中央から直す?」とアデル。
「待って」とロロ。
九番の責任者が通信管へ言う。
『手動へ切替える。隣接支援、十番だけ要請。八番は自棚を続けて』
「受理!」
十番から補助索が一つ渡る。
ロロは手を出さない。
補助腕四本は制御盤の前で落ち着かず揺れるが、命令しない。
九番の帆が開いた。
十二色の読翼帆が、トルカの腹の下へ花のように広がる。
昔の十三番ほど大きくない。一枚では誰も救えない。
十二枚なら、一枚が破れても残りが風を受ける。
「全区画、姿勢変化を確認」とエリア。「中央荷重、旧方式の三十一分の一。最大区画でも十分の一以下」
「試験終了を各棚で選べ」とオルト。
終わる時刻まで一斉ではなかった。
一番棚が先に畳み、十二番が最後まで残る。最後はミミが古い字の手順札を読み、バルが現代字を読み、ネネが絵札を指した。
三つの読み方が同じ巻鍵へ集まる。
帆が畳まれた。
歓声は、十二回に分かれて起きた。
歴史は一斉の拍手を好む。
生活は、終わった場所から先に帰る。
夕食は、落下書架から救い出した長卓で取った。
傷だらけの卓面には、十四年前の切り傷と昨日の打痕が混じっている。アデルは磨き直さず、透明な保護油だけ塗らせた。
「傷を展示にするの?」とハル。
「食卓に戻します」とアデル。「展示物へすると、触れられなくなる」
穴あきパン。
根菜の煮込み。
翼豆の炒め物。
手回し香辛料筒。
子供たちは、昨日救助されたユイを真ん中へ座らせた。
ユイの左足首は軽い捻挫。支持布を巻き、今日は走らない。ネネは紙飛行機へ『ゆっくり飛ぶ日』と書き、ユイの皿の横へ置いた。
「私、落ちたのに飛べなかった」とユイ。
「落ちるのと飛ぶのは違う」とミミ。
「本は飛んだ」
「本も、紐がなければ落ちてた」
「じゃあ飛ぶって、何?」
ハルが答えようとする。
エリアが先に口を開いた。
「戻る場所を選べる落下」
「正確?」とハル。
「詩的な暫定」
「危ないやつ」
「期限は、いま決めない」
エリアは煮込みを一口食べた。
耳の先が少し赤い。高所の冷気のせいか、言葉のせいか。地図術でも測れない範囲だった。
卓の端に、ティアとガランが座った。
父娘の間には、香辛料筒が一つある。
前夜、ガランは四回回した。
それがグランツ家で、母がいた頃からの習慣だとアデルは言った。
ガランが筒へ手を伸ばす。
一回。
二回。
止めた。
「二回?」とティア。
「今日の味を知らない」
「昨日も知りませんでした」
「昨日は習慣を入れた」
「今日は?」
「確認を入れる」
ガランは筒を娘へ置いた。
「二回でよいか」
問いは小さかった。
過去の署名を消さない。処分を軽くしない。父親であることを免責へ使わない。
それでも次の一口の量を、勝手に決めない。
ティアは筒を見た。
「今日は、二回で」
「次も?」
「次は、次に聞いてください」
ガランが頷く。
「順序を守る」
「その言葉を、便利に使わないでください」
「努力する」
「期限は」
「次の食事まで」
ティアは、一度だけ笑った。
許した笑いではない。
関係を切らず、判決を先延ばしにもしない笑いだった。
家族は、処分の代わりではない。
処分の後にも、食卓へ残る可能性である。
帰還前、ハルは借りた本を返した。
『迷った時に道を増やす百の方法』。
七日どころか、三日で返すことになった。読み終えたのは最初の二十七項目だけである。
「延長できます」とアデル。
「持って帰ると、学院の部屋で勝手に飛びそう」
「翼はトルカの風路でだけ開きます」
「じゃあ普通の本になる」
「本は、飛ばなくても本です」
「道を増やす方法、まだ七十三個」
「また借りに来ればよいでしょう」
ハルは返却台へ本を置いた。
アデルが、新しい貸出印を手にする。
外形は同じ。
数字輪は十二まで。
十三の位置には透明な小窓があり、通常の手では回らない。二つの鍵を同時に差した時だけ、『十三番救難記録』の照会印へ変わる。
「消さなかった」とハル。
「誤作動は止めました。存在は止めません」
がちり。
貸出票へ赤い印が落ちる。
『二番』
『返却済』
今度は、本当に借りた本だった。
本当に返した人へ押された。
「普通」とハル。
「普通に戻るため、三日かかりました」とアデル。
「普通って高い」
「維持費を払わない普通は、誰かの無給労働です」
横からロロが請求書を差し出した。
「模型部品二十七ルク。分散帆設計千八百。緊急作業割増――」
「あなたは普通以上に高い」とアデル。
「正しく払え!」
ミミがロロの上着を引く。
「次の授業」
「帰る!」
「通信羽で」
「通信費!」
「図書館へ請求」
アデルが微笑む。
「明細を」
ロロは頭を抱えた。
補助腕四本も、時間差で同じ形を作った。
ゼロスター号がトルカを離れる時、十二の小さな帆が一度だけ開いた。
見送りのためではない。
夕刻の姿勢調整試験だった。
だが結果として、空を行く片帆の船へ、十二枚の本の翼が手を振る形になった。
ミミは甲羅端の安全柵から古い保守札を掲げる。
現代字で、その下へ大きく書いてある。
『次の授業を忘れない』
「宿題が追ってくる」とロロ。
「教育だ」とマオ。
「おまえも古字読めねえだろ!」
「私は先生を選ぶ」
「俺は生徒を選びてえ!」
ハルは船尾からトルカを見る。
翼亀は、島のように遠ざかる。
十二の棚は小さくなり、十三番があった空白は雲へ紛れた。
「見えなくなった」とハル。
「なくなったのではありません」とエリア。
「正確には?」
「観測距離を越えた」
「長くした」
「長くしたから、また行けると分かるの」
ハルは赤いマフラーを押さえた。
左肩は、まだ頭上へ長く上がらない。昨日の救助で筋肉が熱を持ち、医務師から三日の吊り索禁止を言い渡されている。
方角は、船が旋回すると一瞬ずれる。
治っていない。
だが、行きの船で北と書かれた札を見た時より、吐き気が来るまでの距離は伸びていた。
帰り道を覚えたからではない。
分からない時、青旗側、赤旗側、甲羅側、雲側と言い換えてよいと、周囲が覚えたからだった。
回復は、本人の身体だけで起こるとは限らない。
世界の方が、少し持ち方を変えることもある。
王立星航学院へ戻ったのは、夜鐘二つ前だった。
桟橋には学院長リディア、医務師、整備班、そして三枚の検査札を持った安全監査員が待っていた。
「負傷確認を先に」とリディア。
「報告は?」とティア。
「治療後。報告は逃げません」
「証拠は?」とセレナ。
「保管庫を用意しました。三鍵式です」
「請求書は?」とロロ。
「会計課が逃げようとしています」
「追う!」
「あなたは医務室へ」
「金は逃げる!」
「肺も逃げます」
ロロはオルトに襟首を掴まれた。
補助腕四本だけが会計棟へ伸びる。
ハルが船を降りると、安全監査員の一人が桟橋脇の荷車へ赤い部品を積んでいた。
「それ、何?」
「学院の嵐庭で使っている旧式風圧枠です」と監査員。「トルカ事故の報告を受け、同年代の救難設備を一斉点検しています」
赤黒い合金。
熱を受けても脆くなりにくい、古い救難材。
ロロが医務室へ連行されながら、首だけ振り向いた。
「赤砂銅混じり。十四年前より古い型だ」
監査員が、取り外した固定板を裏返す。
縁に、小さな圧痕があった。
細い歯。
一枚分の空白。
細い歯。
三枚歯のうち、一枚が欠けた歯車印。
「同じ工具?」とハル。
「同じ形の痕」とセレナ。「同じ工具か、同型か、転写かは未確認です」
「嵐庭って、実習で使う場所?」
「明朝から全面閉鎖」とティア。「安全点検と、使用履歴の照合が必要です」
学院長リディアが検査札を一枚、ハルたちへ示した。
『嵐庭旧式設備 全数点検』
『現地確認班 期限付き仮入学生を含む校外実習班』
『開始 医務許可後』
「帰ってきたばかり」とハル。
「だから今夜は寝なさい」とリディア。
「次の事件?」
「点検です」
「事件になる前の?」
「点検は、事件にしないために行います」
それは正しい。
あまりに正しいので、ハルは不安になった。
ノクスが赤い固定板を嗅ぐ。
尾は震えない。
ピコが欠けた圧痕へ嘴を近づける。
「取るな!」
ロロ、セレナ、監査員、ハルの声が重なった。
ピコは驚いて飛び上がり、いつものようにハルの襟へ入る。
片帆のゼロスター号の後ろで、学院の夜灯が一つずつ点いた。
十三番書架は、正しい場所へ返却された。
棚としてではない。
記録として、手順として、十二の場所へ分けられた役目として。
そして欠けた歯車印は、まだ誰の名も押さないまま、次に調べるべき設備を一つだけ指していた。
第三巻 了