第73話 第一章「四つの季節を持つ庭」前編
庭とは、自然を残した場所ではない。
自然へ「ここまで」と言い渡した場所である。
木はこの高さまで。水はこの縁まで。獣はこの柵まで。季節は暦の順番どおりに来て、雨は招かれた日に降り、風は客の帽子を奪わない程度に吹く。
人間は自然を愛すると言いながら、愛する相手へずいぶん細かな条件を付けてきた。
空に大地が浮くアステリアでは、その条件が少し大きい。
王立星航学院〈アルカ・ノア〉の嵐庭園は、砂漠、氷原、密林、雷雲という四つの気候を一つの外壁へ飼っていた。
古い王たちが国境の外で恐れたものを、後世の教師たちは校内へ持ち込み、柵を付け、目盛りを振り、生徒に歩かせたのである。
文明は、災害へ名前を付けることで一度安心し、訓練番号を付けることで二度安心する。
番号の付かない失敗だけが、その安心の外で待っている。
「左肩、頭上保持は十息まで。懸垂は禁止。回転訓練は吐き気三で中止。復唱」
「左肩は十息。ぶら下がらない。回ったら吐き気が三になる前に――」
「三で中止」
「二と三の間で相談」
「凪野ハル」
リディア・セレスがフルネームを静かに呼んだ。
大声よりよく効いた。
「三で中止」
「よろしい」
朝七時。学院医務棟の検査室。
ハルは上着を着直し、赤いマフラーを首へ巻いた。左肩は三日前より上がる。三日前より上がることと、元どおりであることは別だ。腕を耳の横まで持ち上げると、関節の奥で細い砂が一粒だけ転がる。
方向感覚も同じだった。
廊下を歩く程度なら、壁の色と窓の位置で戻れる。船が旋回したり、重力が変わったりすると、身体の中の床が一拍遅れてついてくる。
「医務許可、出た?」
扉の外で待っていたエリアが聞く。
濃紺の三つ編みには淡緑の地図針。右肩だけの短いケープ。左手には地図筒、右手には白い日傘。日傘は朝から必要な天気ではなかったが、彼女にとって傘は槍であり、測量具であり、礼法上の距離でもある。
「条件付き」
「条件を」
「十息。ぶら下がらない。吐き気三で止まる」
「二と三の間で相談、は?」
「却下された」
「当然ね」
「相談の文化が育ってない」
「停止線を交渉材料にする文化なら、育てない方がいいわ」
エリアは検査札を受け取り、自分では書き足さず、ハルへ返した。
「自分で胸札へ写して」
「字、長い」
「『肩十』『懸垂不可』『回転三止』でいい。意味が変わらない範囲で」
「最初からそれで書けば」
「正式記録は、後で誰が読んでも誤解しない長さが要るの。胸札は、今ここで使う短さが要る」
「同じ情報なのに、長さが違う」
「入口と奥よ」
翼亀図書館の崩落で、入口の記録と奥の事実は別物だと覚えた彼女らしい言い方だった。
ハルは白い仮入学札の裏へ三つの短文を書いた。『懸垂』の二文字目を間違え、エリアが口を開きかける。
「一つだけ手掛かり」
「弦ではなく、手偏」
「ほぼ答え」
「あなたの一つは広すぎるのよ」
書き直して廊下へ出る。
医務棟の正面には、嵐庭園へ向かう四色の案内旗が並んでいた。
黄――砂漠。
白――氷原。
緑――密林。
紫――雷雲。
北、南、東、西は小さく添えられているだけだ。ハルのためだけではない。煙の中では方位記号が見えず、回転する施設では方位そのものが変わる。色は万能ではないが、別の入口になる。
「黄旗を三つ、次に緑」とエリア。
「案内していいの?」
「今日は試験を受けるのでなく、救難試験の補助要員。迷って集合時刻に遅れることは訓練項目に入っていない」
「遅れたら?」
「事実として記録する」
「罰は?」
「記録と罰を同じものにしないで」
廊下の先から、金属の歩調が二つ聞こえた。
ティア・グランツが右膝へ黒い支持帯を巻き、マオ・ケルンが左脚の星鉄装具を鳴らして歩いてくる。
ティアは以前の風紀隊長章を付けていない。胸にあるのは灰色の試験改訂委員札、その横へ今日だけの細い深紅札。
『嵐庭・臨時規律責任者』
『権限 一命令七拍』
『失効 現場指揮者へ自動返還』
「隊長に戻った?」とハル。
「戻っていません」
「札が赤い」
「色は権限の種類であって、過去の役職ではありません。今日は試験参加者の規律確認を任されただけです」
「第一条さんの限定版」とマオ。
「ケルン生。その呼称は役職に由来しないと、翼亀図書館で自分が言ったでしょう」
「前の事件を根拠に自分のあだ名を正当化するな」
ハルが笑う。
ティアの右眉が上がった。
「凪野生。医務条件は」
「胸札」
「声で」
「肩十、懸垂不可、回転三止」
「最後は分かりにくい」
「入口用」
「では正式記録の所在も答えて」
「学院長」
「合格」
「何の?」
「情報の入口と奥を接続する試験です」
「今作っただろ」
「作った試験でも、基準を先に言えば試験です」
マオがティアの右脚を見た。
「寒冷区十五分」
「把握しています」
「胸札にない」
「支持帯へ記号があります」
「見える人だけ?」
ティアは一秒黙り、深紅札の裏へ書いた。
『寒冷区十五分。痛み五で退避申告』
「これで」
「申告しなかったら」
「同班者が歩幅の左右差を伝える」
「触る前に」
「聞く」
「よし」
「あなたは教官ではありません」
「本人」
ティアは反論しなかった。
規則を作る側にとって、当事者とは厄介な存在である。紙の上では例外と呼べるが、目の前で口を開けば共同設計者になってしまう。
嵐庭園は、学院外壁の南下面へ四枚の巨大な花弁のように取り付けられていた。
中央に円形の観測庭。
その周囲を、黄、白、緑、紫の温室区画が囲む。
各区画は長さ四百歩、幅百二十歩。透明な天蓋と星鉄の肋骨でできており、外側から見れば巨大な四葉の花、内側へ入れば一つの国ほど天気が違う。
黄の砂漠区では、鏡塔が朝日を何十枚にも割り、赤い砂丘へ落としていた。熱気は乾いているのに、天井近くには冷却用の水管が青い蛇のように走る。
白の氷原区には、薄い氷湖と人工雪崖。床下の冷却槽が唸り、訓練用の吹雪が一定周期で横から吹く。氷の下には温水管もある。凍結した救難具を解かすためだ。
緑の密林区は、樹冠が三層に分かれていた。地表の根道、中段の吊り橋、天井付近の滑空索。火災、洪水、毒花粉、視界不良を一つずつ再現できる。
紫の雷雲区では、黒い雲が腰の高さから頭上まで渦巻き、避雷柱が青白い電光を受けている。雲は水蒸気だけでなく、風圧、電荷、誓力の残光を混ぜて作られていた。
「庭って大きさじゃない」とハル。
「王都の初期避難区画四つ分」とエリア。「建設当時は、四空域の災害を一か所で教えることが平和の象徴だったの」
「連れてきた災害同士が喧嘩しない?」
「するから境界設備がある」
「喧嘩する前提なんだ」
「隣人も気候も、仲がよいことを安全条件にしてはいけないわ」
ロロが中央観測庭の床下から頭を出した。
黄色い作業上着はすでに油で黒い。四本の補助腕がそれぞれ温度計、風圧札、弁の開度板、請求書を持っている。頭の上ではピコが欠けたワッシャーを嘴へ挟んでいた。
「入るなら靴底拭け! 密林胞子を氷原へ持ち込むと、排水網が詰まる!」
「まだ何も壊してない」とハル。
「おまえは壊す前の方が危険なんだよ!」
「設備、全部正常?」とエリア。
「単独試験はな」
ロロは床下から這い出した。
「砂漠の温度弁、正常。氷原の加熱管、正常。密林の給水逆止め、正常。雷雲の放電柱、正常。境界扉、個別閉鎖も正常」
「個別?」とハル。
「一枚ずつ閉めた。全部同時はやってねえ」
「なぜ」
「庭園を四日閉める必要がある。試験日程が詰まって、昨日まで翼亀事故の同年代設備を洗ってた。人手も時間も足りねえ」
ティアが深紅札を押さえた。
「未確認項目は試験条件へ入っていますか」
「『区画境界同時作動、未試験』って赤で書いた。学院長にも出した」
リディアは中央庭園の壇上から答えた。
「受け取りました。そのため、本日の訓練は一度に一気候の異常だけを再現します」
「四区画を使うのに?」とハル。
「同時に異常へしない設計です。参加班は四区画へ分かれますが、事故条件は順番に起こす」
「順番が守られなかったら」
「訓練停止です」
リディアは二つの懐中時計を取り出した。
一つは正刻。もう一つは三分遅れた人間用。
「失敗してよい範囲を先に作りなさい。今日の撤退条件を読みます」
壇上の掲示板へ、正式文と平易文が並ぶ。
『二気候以上の同時警報で全訓練停止』
『中央庭園の安全値逸脱で全員待機』
『通信断二十息で最寄りの物理避難路へ』
『個人医務条件を越える前に離脱申告』
『模擬救助より実負傷者を優先』
その下に、マオの字。
『二つの場所が同時におかしくなったら、試験をやめる』
『真ん中が危なくなったら、勝手に走らず合図を待つ』
『声が届かなくなったら、近い本物の出口へ行く』
『身体の止まる線を、根性で越えない』
『人形より人を助ける』
「最後だけ短い」とハル。
「長くする必要ある?」とマオ。
「ない」
「なら正しい」
リディアは左手の三指手袋を整えた。
「本日の訓練では、事故条件を限定再現する訓練圏〈リハーサル・フィールド〉を使用します。熱、冷気、煙、風圧、電荷の上限を制御します。ただし、転倒、疲労、判断の遅れまで消せません」
「安全な事故じゃない?」とハル。
「安全な事故という言葉は矛盾です。事故にしないための訓練ですが、訓練を安全だと信じ込ませるための魔法ではありません」
リディアの左手が上がる。
中央庭園から透明な円が広がった。
砂漠の熱が一段だけ輪郭を持ち、氷原の冷気が白い壁になり、密林の湿り気へ細い格子が走る。雷雲の光は紫の膜の中へ収まった。
魔法は危険を消していない。
危険がどこまで来るか、線を引いただけだった。
訓練参加者には、救難旗が一人一枚渡された。
赤は実負傷。
青は避難完了。
黄は補助要請。
黒は進入禁止。
さらに胸元へ、遭難者の誓紋を拾う救難灯〈レスキュー・スター〉を付ける。霧や煙の中で誓紋の残光を拾い、本人の位置へ小さな星を点滅させる携帯灯だった。
ハルの灯だけ、点かなかった。
「不良品」とハル。
「正常です」とセレナ。
黒い外套の内側から六角単眼鏡を出し、灯の記録板を確認する。
「あなたには王国登録の誓紋がありません。救難灯は、拾う対象を見つけられない」
「正常に見失うんだ」
「制度的欠陥です」とエリア。
「機械の故障ではありません」とロロ。
「両方から嫌な正常を出すな」
ティアは救難旗を一本追加し、ハルの背へ斜めに結んだ。赤いマフラーと重ならないよう、青白の縞布にする。
「物理旗を常時表示。点呼は名前で。救難灯の不反応を本人の不在と扱わない」
「俺だけ旗が大きい」
「見つけるためです」
「目立つ」
「目的どおりです」
ドランが配布台帳へ記す。
「追加旗一、留め具二、縞布一。返却責任者、凪野ハル」
「なくしたら?」
「一式十九ルク」
「菓子パン何個」
「その換算を王国会計へ持ち込むな。なお下面食堂の揚げパンなら十九個だ」
「知ってるじゃん」
「会計だ!」
ピコが留め具を一つ抜いた。
「十九ルク増えた!」
「ピ」
「返せ!」
機械鳥はハルの襟へ潜った。
「俺の返却責任にするな!」
「現在の所在があなたです」とセレナ。
「証拠官まで会計側!」
ノクスは救難灯を前脚で転がし、青い星が鼻先へ点滅すると、気に入らなかったのか一度だけ噛んだ。灯は誓紋を拾ったまま、所有権までは主張しない。
「ノクスは光る」とハル。
「古い誓力反応があります」とセレナ。「ただし、位置表示への同意は」
ノクスが灯を踏みつけた。
「ないみたい」
ティアは灯を外し、赤い布環を前脚へ巻くかノクスへ見せた。ノクスは匂いを嗅ぎ、自分から左前脚を通す。
「本人が選んだ」とマオ。
「記録します」とティア。
「動物扱いの欄じゃなく乗員欄へ」とハル。
「すでに訂正済みです」とセレナ。
ノクスが短く鳴いた。
「ノゥ」
肯定か、早く行けという催促か。
全員が違う訳をして、ノクスが一番近いハルを噛んだ。