第74話 第一章「四つの季節を持つ庭」後編

 班分けは、四区画と中央班に分かれた。

 砂漠班――ハル、ティア、ドラン、救難課生六名。

 氷原班――カイル、セレナ、医務生と盾術生。

 密林班――マオ、ロロ、機関科生、ピコ。

 雷雲班――上級飛行生と気象教員。

 中央班――エリア、オルト、リディア。ノクスは所属を拒否し、全区画の境界まで自由同行とされた。

「俺、エリアと別?」とハル。

「救難訓練は、いつも同じ相棒とだけ行いません」とティア。

「別に不満じゃない」

「聞かれる前に否定するのは、不満がある人の速度です」とドラン。

「おまえ、最近会計以外も見るな」

「床しか見ない金翼を卒業したのだ」

「眼鏡は?」とロロ。

「見る話を視力へ戻すな!」

 ドランは遠くの小文字を読む時だけ、紙を鼻先へ近づけた。

 ロロは工具箱から薄い保護鏡を差し出す。

「防塵用。度、弱め」

「眼鏡ではないな」

「眼鏡だ」

「防塵鏡だ」

「度入りの」

「砂漠の安全具として受け取る」

「貸出料二ルク」

「友人価格は」

「友人だから、失くした時の請求先が分かる」

 ドランは不満そうに掛けた。

 見えた瞬間、遠くの掲示板へ誤字を一つ見つける。

「『退避』の旧字が間違っている」

「最初から掛けろ」とロロ。

「見えすぎるのも品がない!」

「視界に品格を求めんな!」

 班分けのあと、参加者は境界回廊を一周した。

 四つの区画を一度に見られる場所は、中央庭園の観測橋だけである。

 橋は星脈炉の上を十字に渡り、欄干へ四種類の温度計、湿度計、電荷計、風向糸が並んでいた。数字の下には、子供の絵本のような顔も描かれている。

 砂漠は赤い太陽。

 氷原は青い歯。

 密林は緑の雫。

 雷雲は紫の髪。

「顔があると安全?」

 ハルが赤い太陽を指で押す。

「危険を早く識別できます」とティア。

「怒った顔は危険、笑った顔は安全?」

「現在値によって表情が変わる。笑顔は正常範囲」

「機械に笑われると信用しにくい」

「あなたは人にも笑われるでしょう」

「人は笑ったあと謝ることがある」

「機械も記録は残します」

「謝らない」

「謝罪機能を安全装置へ求めないで」

 マオが横から赤い太陽の札を裏返した。

 裏面には細かな条文。

「笑顔より、何をしてるか書いて」

『砂温を下げています』

『余熱を中央へ送っています』

『給水を増やしています』

「こうなら分かる」

「表示面積が足りない」とロロ。

「顔を消す」

「広報科が泣く」

「機械に謝らせる前に広報科を泣かすな」とハル。

 観測橋の下で、星脈炉が低く鳴った。

 中央庭園は、四区画の余剰を受け止めるための空間だった。通常時には余熱を温室へ、冷気を食料庫へ、湿気を貯水槽へ、電荷を学院照明へ回す。

 災害の残り物を生活へ変える。

 王立学院が誇る循環設計である。

 誇るものほど、説明は成功例から始まる。

「同時に四つ来たら?」

 ハルが聞く。

 案内役の気象教員は即答しなかった。

「中央炉には複合受け入れ機能がある」

「質問は、来たらどうなるか」

「設計上は、優先周期で一つずつ受ける」

「実際にやった?」

「各区画の最大出力試験は済んでいる」

「四つ一緒は」

「訓練では必要ない。二気候同時で停止条件になる」

 ハルがエリアを見る。

「答えてない?」

「答えたわ。『やっていない』を、別の文へ包んだ」

 気象教員の頬が赤くなった。

「危険だから行っていない」

「危険なら、起きない?」とマオ。

「起こさないための停止条件だ」

「停止条件が同時に動かなかったら」

「その仮定は――」

 リディアが教員の肩へ手を置いた。

「答えは『分からない』よ」

 学院長の声は穏やかだった。

「単独試験で安全。二気候で停止。四気候同時は未試験。分からないことを、起こらないと言い換えない」

「本日の説明書へ追記します」

「今日だけでなく、設備札へ」

「はい」

 リディアはハルを見る。

「凪野ハル。分からないと聞いた時、すぐ中へ入って確かめない」

「今、思っただけ」

「思った顔をした」

「顔を証拠にする人が多い」

「医学では兆候です」

 観測橋を渡り、まず砂漠区画へ入る。

 熱は境界を越えた一歩目で来た。二歩目には靴底の柔らかさが変わり、三歩目には喉が乾く。

 砂丘は自然の砂ではない。細かな鏡石を混ぜ、照射角によって表面温度を変えられる。下には避難路と冷却水脈。表面が冷えすぎても、地中との温度差で地割れが起こる。

「砂漠は熱ければ熱いほど危険、ではない」とエリア。

「冷やしすぎても割れる」

「だから冷却は温度ではなく差を見る」

「差を見てる表示はどれ」

 ハルが盤面を探す。

「奥の針。入口の笑顔には出ない」

「入口に奥が足りない」

「すべてを入口へ書けば、入口が壁になる」

「じゃあ、危険になったら奥が入口へ来るように」

「警報で?」

「人の声で」

 エリアは地図帳へ一行書いた。

『局所判断の理由を、他区画へ短報する』

「試験前から改訂案?」

「思いつきを案にしない。観察欄」

「名前を変えると慎重になるんだ」

「名前が判断を遅くすることも、速くすることもある」

 ドランは砂漠用の飲水袋を数えていた。

「二十四。予定は二十四。封印一つ、押しが甘い」

「中身は漏れてない」とハル。

「漏れてから数える会計は会計ではない」

「飲む?」

「封印を交換する。廃棄はしない。訓練後、検査して食堂用へ」

「細かい」

「一袋を捨てる判断が、百袋を買う予算へつながる」

 ドランは高慢そうに顎を上げながら、飲水袋を日陰側へ移した。自分の右手首をかばい、左腕で箱を持つ。

 次の氷原区画では、息が白くなった。

 カイルは外套を羽織らず、開始三十秒でセレナに羽織らされた。

「王族は寒さに強い」

「人体分類に王族はありません」

「獅子座だぞ」

「星座も保温しません」

 氷棚には、盾術生が三列に並ぶ。蒸気噴出を想定し、一列目が盾、二列目が救助、三列目が交代。

 カイルは右腕へ小さな王盾を出した。

 赤金の板が掌ほどに光る。

「守る人数が一人なら、この程度。七人なら馬車。百人なら城門」

「痛みも増える」とセレナ。

「説明に夢がない」

「代償を省いた能力説明は勧誘です」

「では正確に。城門の後、俺は寝台」

「時に手術室」

「もっと夢がない」

 ハルが盾へ触れようとする。

「熱い?」

「今は温かい。人数が増えるほど――」

「触れる前に確認」とセレナ。

「触っていい?」

「許可」

 盾は焚き火のそばの石のようだった。

 守りは冷たい壁ではなく、誰かの身体へ戻る熱でできている。

 密林区画では、マオが低い水路を先に見つけた。

「標識が高い」

 避難札は成人の目線にある。

「煙が出たら低くなるのに、見る札は高い」

「屈んだ人には見えない」とティア。

「装具がある人だけじゃない。子供、負傷者、這う人」

 マオは札の複製を腰の高さへ付けた。

「無断変更」とティア。

「外す?」

「一時表示として記録する。試験後、正式位置を検討」

「前なら没収した」

「前の判断が、今の義務ではない」

「第一条さん、言うようになった」

「その呼称はやめなさい」

 ロロは散水弁へ六本の腕を伸ばす。

「弁軸正常、圧力膜正常、手動輪正常、逆流閉鎖正常。正常ばっかりで気味が悪い」

「正常ならいいでしょう」と教員。

「機械は一個ずつ正常でも、つなぎ方で殺す。人間だって、全員いい奴なら喧嘩しないわけじゃねえ」

「君は何を確認したい」

「この弁が、砂漠の水と氷原の加熱と雷雲の境界を知ってるか」

「知る必要はない。中央が統合する」

「中央が知ってるかを誰が知ってる?」

 教員は中央盤を指した。

「表示される」

 ロロはその表示を見た。

『全系統 正常』

「嫌いな字だ」

「なぜ」

「何を測って正常なのか書いてねえ」

 最後の雷雲区画では、紫の雲が床より低く漂っていた。

 翼具を付けた上級生たちは、雷弧の間を飛ぶ。境界柱は電荷を吸い、中央へ送る。瞬間的な冷却で誤停止しないよう、今年から外気データを平均化したと説明された。

「平均って」とハル。

「上下をならして急な変化を小さくする」とエリア。

「今が急に危なくなったら」

「数値へ出るのが遅れる」

「何分」

 気象教員が銀板を読む。

「三分移動平均」

「三分前を見てる?」

「三分間を平均して現在値にする」

「言い方を変えた」

「瞬間値も別盤にある」

「他の区画はどっちを見る?」

「用途による」

 ロロの補助腕が一斉に上を向いた。

「用途表、くれ」

「整備記録にある」

「現場札に」

「量が多い」

「多いことは、ないことの言い訳にならねえ」

 リディアは二つの時計を見た。

「開始まで二十分。用途表を中央盤へ出しましょう」

「今から?」と教員。

「今だから。訓練は、開始鐘が鳴ってからだけではないわ」

 出された表には、外気平均値を参照する装置が十二あった。

 散水。

 凍結防止。

 境界膜。

 中央排出。

 エリアは四区画を結ぶ線へ、丸を付けた。

「境界を越えるデータだけ、単独区画の色で表示されていない」

「共通だから無色」と教員。

「無色は、誰のものでもないように見える」

「全部のものだ」

「全部のものは、誰も自分の責任だと思わないことがある」

 オルトが遠くから呼んだ。

「集合」

 一行は中央庭園へ戻った。

 昼食代わりの乾パンが配られる。

 カイルは苺ジャムを二袋取ってセレナに一つ戻され、ティアは香辛料を規定量かけて毎回どおりむせ、マオは椅子の高さが合わず床へ座った。ロロは工具箱の上で揚げ生地を食べ、油を付けたまま整備図へ触ろうとしてエリアに紙を取り上げられた。

「紙は上質なの」

「工具もだ」

「油は?」

「必要」

「地図には不要」

「機械図には味が出る」

「食べ物の味を図面へ出さないで」

 ハルはみんなを見た。

 規則を作る者。

 規則に聞かせる者。

 盾になる者。

 記録する者。

 直す者。

 数える者。

 道を描く者。

 事故が起きれば、それぞれの長所が役に立つ。

 同じ長所が、別の誰かを見えなくすることもある。

 その時のハルは、まだそれを物語の予感とは思わなかった。

 ただ、乾パンが固くて、飲水を二口多く欲しいと思っただけだった。

 昼食のあと、オルトは班ごとに一枚の白布を配った。

「救難旗ではない。失敗旗だ」

「縁起が悪い」とドラン。

「縁起を安全基準に入れるな」

「商家では入れる。開店日に皿を割ると値引き交渉が増える」

「それは客の文化だ」

「文化は会計へ来る」

 白布には、何も書かれていない。

「各自、今日しないことを一つ書け」

 ハルが首を傾げる。

「することじゃなく?」

「できることは、危機で増やしたくなる。しないことは、先に決めなければ消える」

「俺は何を書けば」

「自分で決めろ」

「それを聞いてる」

「決め方を聞け」

「決め方を教えて」

「自分の長所が、最も危険になる時を考えろ」

 オルトはそれだけ言い、中央壇から離れた。

「教官なのに答えをくれない」とハル。

「答えを渡したら、あなたはその答えだけ守る」とエリア。

「じゃあエリアは?」

 彼女は淡緑の筆で書いた。

『見えていない道を、見えたように結ばない』

「長い」

「短くすると『空白を消さない』」

「最初から短く」

「奥と入口」

「便利な言葉になったな」

 エリアは白布の端へ小さく正式文を書き、中央へ短文を大きく置いた。

 ハルは炭筆を持ったまま、ティアの布を見る。

『全員へ同じ命令を出す前に、違う条件がないか問う』

「それ、しないことじゃない」

「では」

 ティアは消す。

『同じ、という理由だけで公平と呼ばない』

「規則っぽい」

「規則担当です」

「臨時」

「今日だけ」

「七拍」

「その説明は権限の有効期間で、私の人格の有効期間ではありません」

「第一条さんは永久」

「ケルン生」

 マオはすでに書いていた。

『触る前に聞かれなかったら、黙って我慢しない』

「相手が聞かなかったことと、自分が言わないことを一緒にしてる」とティア。

「相手の失敗だけにすると、私は何もできない。自分の失敗だけにすると、聞かない方が得する」

「平易版は」

『勝手に触られたら、止める』

「命令形」

「自分への」

「受理」

 ロロの布には、太い字。

『正常表示を信用しすぎない』

「機械を信用しないの?」とハル。

「違う。機械が何について正常と言ってるかを聞く。温度計が正常でも、床が抜けるかは知らねえ」

「人も?」

「『元気』って言う奴が、どの部品について言ってるか聞く」

「部品扱いするな」とマオ。

「比喩だ!」

「比喩で人を解体するな」

「お前は言葉を切るだろ!」

「切る場所を選ぶ」

「俺も選んでる!」

「雑」

「工具は精密だ!」

 カイルは白布を膝へ置き、左手で書いている。

『最初の一撃で全部を守ろうとしない』

「王子なのに」とハル。

「王子だからだ。全部と言うと盾がよく燃える」

「守れるならいいじゃない」

「守ったあと、俺が倒れて二回目がなくなる」

 セレナが隣から付け足した。

『痛みを景気よく値引きしない』

「それは俺の布だぞ」

「あなたの手が書かなかったので、記録者が補記」

「本人同意は」

「いま確認します。残しますか」

「言い方を変えろ。『王族的零を使わない』」

「医学的に意味がありません」

「仲間には意味がある」

 セレナは一拍考え、二行にした。

『痛みを値引きしない』

『王族的零は痛み零として扱わない』

「二つになった」

「一つ目が規則。二つ目が注記」

「俺だけ奥が深い」

「傷が多いのです」

 カイルは笑い、まだ痛くない肋骨を押さえるふりをした。

 セレナはそのふりまで記録しようとし、本人に止められた。

 ドランは長く悩んだ。

「会計の長所が危険になる時」

「金を優先する時?」とハル。

「金を軽視する時だ」

「逆じゃない?」

「無料の救難、無償の残業、寄付で補う装具、名誉で働く監査員。費用を数えないと、払えない者へ負担が移る」

「じゃあ書くのは」

 ドランは防塵鏡を押し上げた。

『値段がない善意を、無料だと思わない』

 マオが見る。

「合格」

「貴様にだけは採点されたく――いや、この項目は受け取る」

「無料で?」

「一点一ルク払う!」

「採点料、取れるんだ」

「取らない。借りになる」

「では相互監査ということで」とドラン。

 二人は握手をしなかった。

 代わりに、互いの布へ小さな確認印を一つ押した。

 セレナの白布。

『記録できることを、公開してよいことと混ぜない』

「見つけた証拠を隠す?」とハル。

「保存と公開を分けます。負傷者の声、身体、恐怖は、事件解明に必要でも全市民へ見せる必要がない場合があります」

「でも隠したら、権力が使う」

「だから封印理由、閲覧者、解除条件を記録する」

「面倒」

「人の秘密は面倒でよいのです」

 リディアは二つの時計の間へ布を置いた。

『訓練で再現できたことを、現実でも分かったと思わない』

「学院長の魔法を信用しない?」

「信用しているから限界を書くの。魔法が見せるのは、設定した条件の中だけ。設定しなかった恐怖や偶然は出ない」

「何でも再現できるようにしたら」

「それは訓練ではなく、現実をもう一度傷つけることになる」

 オルトの布は最後まで白かった。

「先生は?」とハル。

「全員を一つにするのが、私の仕事だ」

「それが危険になる時」

「知っている」

「書かないの」

「言葉を選んでいる」

「長い」

「急かすな」

 七拍後、オルトは書いた。

『一つにした後、返す時刻を忘れない』

 ティアが深紅札を見る。

「権限の終了条件」

「そうだ」

「返す相手が動けない場合は」

「再承認を取る」

「異議がない場合は」

「異議を一つ求める」

「全員が賛成したら」

「理解していない者がいないか問う」

「それでも」

「その先は、今日の訓練で考える」

 白布は、答えではない。

 答えへ近づきすぎた時、自分を引くための旗だった。

 ハルだけが、まだ書けていない。

「走らない?」とエリア。

「走るのが役目」

「一人で行かない?」

「一人でしか通れない道もある」

「針を使わない?」

「必要なら使う」

「では、何をしすぎるの」

 ハルは自分の左肩へ触れた。

 助ける。

 探す。

 届ける。

 どれも、やめないと書きたくない。

「自分を安くする」

 口から出た。

「何」とエリア。

「俺が傷つけば一人分。ほかの人が傷つくより安いって、すぐ考える」

 エリアは何も言わなかった。

 褒めれば美徳になる。

 叱れば、今までの選択を全部否定する。

 ハルは布へ書く。

『自分一人なら安い、と先に決めない』

「字が曲がってる」とエリア。

「内容は」

「読める」

「正しい?」

「私が決めない」

「じゃあ誰が」

「その時、一緒に危険を受ける人」

「一人だったら」

「帰る人」

「待ってる人?」

「そう」

 ハルは白布を、赤いマフラーの内側へ結んだ。

 外からは見えない。

「旗なのに隠すの?」

「俺に見えればいい」

「危機で見ないでしょう」

「じゃあ」

 彼は布の端だけを外へ出した。

 赤の下に白。

 ノクスがその端を鼻で押し、二本の尾の間へ一度挟む。

「ノクスも確認?」

 黒い獣は答えず、白布を離した。

 失敗旗は、事故が起きた時に上げる旗ではない。

 事故が起きる前、自分が何をしすぎるかを知っていると示す旗だった。

 その日、誰も自分の白布を完全には守れなかった。

 エリアは線をつなぎたくなった。

 ティアは同じ命令を出したくなった。

 マオは黙って耐えかけた。

 ロロは正常表示へ怒りながら縋りかけた。

 カイルは全部を守ろうとした。

 セレナは記録を急いだ。

 ドランは損失を一人で数えた。

 オルトは全体を一つへ集めすぎた。

 ハルは、自分を一人分より安くしようとした。

 白布は失敗を防がない。

 失敗した時、それが自分の癖だったと気づく速度を上げる。

 訓練とは、成功の動きを身体へ入れるだけではない。

 自分がどんな失敗を選びやすいか、先に名前を付けることである。

 オルトは白布を回収しなかった。

「記録しないの?」とセレナ。

「本人が望めば複写する。望まなければ、その場限り」

「安全条件なのに」

「弱点申告を成績へ残せば、次から誰も正直に書かない」

 ティアは自分の布を折り、深紅札とは別の内ポケットへ入れた。

 マオは装具の工具袋へ。

 ロロは油布と混ぜ、エリアに分けられた。

 カイルは籠手の内側へ入れようとしてセレナに「燃えます」と止められ、胸元へ移した。

 ドランは折り目の寸法を全員そろえようとし、誰にも従われなかった。

 ハルは白い端を赤いマフラーの下へ残す。

「見える?」とエリア。

「少し」

「それで足りる?」

「忘れた時、誰かが引っ張れる」

「引っ張っていい?」

「先に声を掛けて」

「受理」

 白布は規則ではない。

 だから破れば処罰されない。

 処罰されないからこそ、仲間が「いま破っている」と言える。

 鐘が一度鳴った。

 オルトが中央壇上へ立つ。

 左眼は白濁し、右眼だけで全班を数える。耳たぶの十一個の鉄輪が朝風に触れた。

「訓練目的。旗を集めることではない。人を見つけ、状態を確認し、本人へ触れる条件を聞き、安全路を作り、点呼して戻る。模擬負傷者は各区画三。救難旗を持ち帰れば記録になる。持ち帰れなくても、人が戻れば失敗ではない」

「競技じゃない?」とハル。

「時間は測る。速さも必要だ。だが最速と救難を同義にしない」

「報告が重なったら?」

「今は一つにする。指定方向へ全員の足場を揃える号令〈ユニゾン・ブレイス〉を使う場合、一命令、七拍。失効後は各班へ返す。異議語は『身体』『構造』『人数』『本人』」

 マオが手を上げた。

「『装具』は構造?」

「身体でも構造でもよい。本人へ一番早く届く語を選べ」

「曖昧を許した」

「危機の一語へ、辞書の試験を入れない」

「合格」

「あなたは採点者ではない」

「本人」

 オルトの口元が、一ミリだけ動いた。

「訓練開始。各班、復唱」

 四つの区画から声が返る。

 ハルは砂漠側の境界門へ立った。

 黄いろい熱が透明扉の向こうで揺れている。足元の白石には、翼亀図書館で調べた固定板と同じ赤黒い合金が使われていた。縁に細い傷。三枚歯のうち一枚が欠けたような印。

 セレナはすでに撮影し、ロロは同型痕とだけ判定した。同じ工具か、同じ型か、転写か。まだ分からない。

「今日の事件にするなよ」とロロが通信管から言った。

「まだ事件じゃない」とハル。

「点検だ」

「学院長も言ってた」

「正しいことを二回言うと事故が遠ざかるなら、修理工はいらねえ」

 第二鐘。

 境界門が開いた。

 砂の熱が顔へ来る。

 ハルは一、二、三と小さく数え、走った。

 最初の模擬負傷者は、砂丘の向こうで黄色い旗を振っていた。

 足首を挫いた設定。意識あり。救助者が二人、日陰布一枚、飲水制限あり。

「触っていい?」とハル。

「右腕だけ」

「水は?」

「一口。気分悪い」

「日陰作る。ドラン、布」

「侯爵家嫡男を布係に――」

「できない?」

「できる!」

 ドランは防塵鏡を押し上げ、白手袋を片方外した。砂へ膝をつき、布の四隅を会計帳のように正確に張る。

 ティアは時間を読む。

「接触確認良し。水分一口。搬送路は黄杭側。凪野生、肩条件」

「担架の前を右で持つ。十息ごと交代」

「自分から言った」とティア。

「褒めると次から申告料を取る」

「ロロの悪影響です」

「正しく払え!」と遠くの通信管。

 砂漠区の鏡塔が、予定どおり一段だけ光量を上げた。

 熱波訓練の開始である。

 ハルたちは負傷者役を日陰へ移し、青旗を立てた。

 その瞬間だった。

 透明天蓋の上で、白い粒が弾けた。

 一粒。

 二粒。

 砂へ落ち、溶けずに跳ねる。

「霰?」とドラン。

「砂漠で?」

 次の瞬間、空が白くなった。

 氷の雨が、熱い砂丘へ降った。

 砂は蒸気を上げ、鏡塔は朝日を反射し、冷たい粒が裸の腕を打つ。

 黄の区画に、白の季節が侵入した。

 中央庭園で警報鐘が二つ、同時に鳴った。

 訓練の終了条件だった。

 それでも氷雨は、終わらなかった。