第75話 第二章「救難旗と待機命令」前編
待て、という命令は、動くなという意味ではない。
正確には、次に動く者を一人ずつにしろ、という意味である。
火災現場で全員が出口へ走れば、出口が塞がる。
戦場で全員が目の前の負傷者へ駆ければ、背後の隊列が崩れる。
船上で全員が同じ傾きを直そうと反対側へ移れば、船は今度は逆へ倒れる。
だから救難の歴史は、走れる者へ待つことを教えてきた。
問題は、待つことそのものではない。
誰が、どの情報を持って、いつまで待たせるかである。
期限のない待機は、命令の形をした放置になる。
「全班、訓練停止。現在位置で点呼。実負傷を優先。復唱!」
オルトの声が、四区画の通信管から同時に響いた。
砂漠区では、氷雨が熱い砂を叩いている。
白い粒が赤い砂丘へ沈むたび、しゅう、と蒸気が上がる。熱と冷気は打ち消し合わず、互いを見えなくする霧になった。
ティアは双規刃アレイオンを抜いた。
二本の刃先を砂へ刺し、柄をつなぐ。
「規則を宣告する。聞こえた者は答えなさい。黄杭内側では、点呼完了まで走らない。倒れない。単独で霧へ入らない」
白い線が砂上へ円を描く。
一時的に全員へ課す規則〈フィールド・ロウ〉。
円内の生徒たちの足が、砂へ浅く噛んだ。
「聞こえた!」
「聞こえました!」
「聞こえたけど、あそこ!」
ハルが霧の奥を指す。
模擬負傷者役だった少年とは別に、鏡塔の下で一人が倒れている。氷粒が額へ当たり、足を滑らせた救難課生だ。黄色い旗は出ていない。本人が出す前に倒れた。
「人数」とティア。
「砂漠班九。見えるのは八。倒れてる一で九!」とドラン。
防塵鏡を掛けた彼は、遠くの輪郭を以前より早く拾った。見えることを恥じていた少年が、見えた人数を声にした。
「負傷一、意識不明の可能性。救助二名。凪野生、グランデ生。残る者は日陰幕へ」
「走らない規則」とハル。
「解除する」
「全員?」
「救助者だけ別条件へ移す」
ティアは円を二つに分けた。
大円は、黄杭内で急走禁止。
細い線だけ、倒れた生徒まで伸びる。線上の二人は速度を上げられるが、左右へ逸れられない。
「同じにしないんだ」とハル。
「必要な違いを、理由と終了条件付きで置く。会話は後!」
「了解!」
ハルとドランが走る。
ティアは走らない。走れないからではない。班長が一人の負傷者へ背を向ければ、残る七人の人数を失う。
「一、二、三、四、五、六、七。全員、声を」
返事が重なる。
「一人ずつ!」
ティアの声は強い。
氷雨の音を越える。
歴史は英雄の跳躍を記録する。
救難は、その英雄が跳んだ後ろで、誰が七人を数え続けたかを必要とする。
ハルは倒れた生徒の右へ膝をついた。
「聞こえる?」
返事はない。
呼吸はある。額から血。左腕が不自然に曲がってはいない。首へ触れる前に、ドランが声を上げる。
「頭部打撲。頸部固定が先だ」
「分かる?」
「救難基礎は金翼課程にもある!」
「布」
「また布係か!」
「できる?」
「できる!」
ドランは自分の外套の裾を裂こうとした。
「高いやつ」とハル。
「今それを言うな!」
「救難布が鞄にある」
「先に言え!」
ハルの配達鞄から三角布を出し、首の左右へ砂袋を置く。左肩は十息。担ぎ上げず、身体の横へ低い引き布を滑らせる。
「触るぞ」とハル。
意識のない者は答えない。
だから同意が不要になるのではない。答えられない時の代理手順が要る。
「実負傷、緊急介助。首と右肩を固定する」とドランが宣言する。
二人で引く。
ハルの左肩が五息で熱くなり、七息で砂の音を立てる。
「交代」とドラン。
「まだ十」
「十まで使う義務はない!」
ドランが前を持つ。
右手首の古傷があるため、両手で握らず、左腕へ布を巻く。見栄を張る場所を一つ減らした結果、救助の形が一つ増えた。
黄杭内へ戻る。
ティアが陣を解除した。
「実負傷一、呼吸あり、意識なし、頭部出血。医務班を要請」
『受理。中央路、現在閉鎖。砂漠班で一次処置、待機』
オルトの声。
「待機?」とハル。
『全区画同時警報。雷雲区で境界放電。飛行線を封鎖する』
遠く、紫の天蓋が白く光った。
雷は音より先に見えた。
境界柱から枝分かれした電光が、透明壁の表面を走り、砂漠側の鏡塔へ届く寸前で止まる。
中央庭園の警報が三つへ増えた。
『今は一つにする。全班、現在区画から越境するな。救難班は局所対応。七拍で再評価』
「復唱」とティア。
砂漠班が返す。
「現在区画から越境しない。局所対応。七拍で再評価」
ハルだけが、最後へ付けた。
「異議、人数」
『言え』とオルト。
「中央路が閉じたら、医務班がここへ来られない。負傷者を砂漠に置く時間が増える」
『把握している。雷雲の飛行線へ今出せば、搬送中の全員が落ちる』
「地上路は」
『境界扉の確認中』
「確認が何息?」
『分からない』
「分からないなら待つ期限は」
『七拍ごとに更新する』
命令は閉じていない。
だが、負傷者の時間は七拍ごとに止まらない。
ティアは深紅札へ触れた。
彼女の臨時権限は、一命令七拍。オルトの全体指揮の下で、砂漠班へ局所規則を置ける。
「第一条。実負傷者の体温を落とさない。氷雨を避ける。第二条、中央路が開くまで一次処置を継続。第三条、七拍ごとに搬送可能性を確認」
「第一条が三つ」とハル。
「番号の揚げ足を取る余裕があるなら、日陰幕を低くしてください」
「低くすると蒸気が」
「では風上側を開ける」
「風上、どっち」
ティアは即答せず、旗の動きを見る。
「青杭から黄杭へ。あなたの背中側」
「最初からそれで」
「今は言い換えています!」
ハルとドランが幕を下げる。
氷雨は続く。
倒れた生徒の唇が紫へ寄った。
ティアの右膝も、冷気で硬くなり始めていた。
支持帯の下、靱帯の奥へ細い針が一本ずつ入る。痛み三。申告線は五。十五分までは寒冷区へいられる。
痛みを隠しているのではない。
まだ条件内だ。
条件内であることと、影響がないことは違う。
「隊長」
ドランが呼ぶ。
「臨時規律責任者です」
「長い。右足、砂へ深く入っている」
無意識に、右脚を動かさないため砂へ押し込んでいた。
「痛み三。継続可能」
「記録した」とドラン。
「あなたは医務記録者では」
「班の条件だ。人数と同じだろう」
ティアは反論を飲み込んだ。
「受理します」
ハルが一瞬だけ彼女を見る。
何も言わない。
痛みを申告した相手へ、驚きや称賛を返さないことも配慮だった。
七拍。
『全班、待機継続。雷雲区の飛行線を全面禁止。飛行具を畳め。紫境界へ近づくな』
オルトの命令。
紫の区画では、上級飛行生たちが翼布を畳んだ。
空中救難用の最短路が消える。
飛行禁止は、雷雲事故への正しい処置だった。
電荷を持つ雲中へ翼具を広げれば、帆骨が避雷針になる。かつて嵐庭園では、訓練続行を急いだ生徒が二人、翼布ごと天蓋へ張りついたことがある。一人は生き、一人は右腕の感覚を失った。
規則には、その身体の記憶が入っている。
問題は、その規則が砂漠の頭部負傷者と、密林の給水路まで同時に抱えられるかだった。
通信管がひどく鳴る。
『密林班より。給水圧、低下。散水弁、閉鎖』
ロロの早口。
『弁は故障か』とオルト。
『見てる! 閉位置、正常表示! 逆流検知で安全側へ閉じてる!』
『火気訓練は停止済みか』
『模擬火点は止めた。だが樹冠上層、乾燥値が上がって――』
通信へ、破裂音が入った。
続いてマオの声。
『火。北――じゃない、緑三角の上! 本物!』
密林区の天蓋に、赤い光が映った。
緑の葉の間から煙が上がる。
火災防止のための給水弁は、汚染水の逆流を防ぐため、正しく閉じていた。
安全装置が働いた結果、火を消す水が止まった。
「境界を越える」とハル。
ティアの双剣が動く。
刃はハルへ向けず、彼の前の砂へ交差した。
「待ちなさい」
「密林が燃えてる」
「砂漠にも実負傷者がいる。あなたが抜ければ搬送要員が減る」
「ドランと二人で運べる」
「あなたの肩条件を含めて二人です。交代者が要る」
「じゃあティア」
「私が抜ければ班長がいない」
「班長は倒れてる人を運べない?」
「運べます。だが全員の位置を失えば、次の一人を見落とす」
「次の一人を数えてる間に、見えてる人が」
「見えている人だけを世界の全員にしないで!」
ティアの声が一語ずつになった。
感情的になるほど拍を整える癖。
ハルも声を低くした。
「じゃあ、いつまで」
ティアは答えようとした。
七拍の更新。
中央命令。
境界確認。
どれも期限であり、今この場の答えではない。
『砂漠班』
オルトの声が入る。
『中央医務路を一時開放する。負傷者を黄境界まで搬送。越境は医務班のみ。凪野、走るな。グランツ、班を分けるな』
「復唱」とティア。
「中央医務路へ搬送。医務班のみ越境。砂漠班は分けない」
ハルは言わない。
「凪野生、復唱」
「聞こえた」
「従う内容を」
「負傷者を黄境界へ。俺は密林へ行かない」
最後の言葉が硬い。
従うことを、納得と同じにしないための言い方だった。
ティアは陣を細く伸ばし、搬送路を作る。
負傷者役の生徒と実負傷者を二つの引き布へ分ける。模擬負傷者役は自分で立ち上がろうとした。
「俺は設定だから歩けます」
「訓練停止後は設定解除」とティア。「自力移動可能として青旗へ。実負傷者を優先」
「失格?」
「試験そのものが止まっています」
「記録は」
「あなたが自分から人形役を解除し、実負傷へ場所を譲ったと残します」
少年は青旗を持ち、自分で歩いた。
ハルとドランが引き布を持つ。
今度はティアも後ろへ入った。班長を捨てたのではない。残る生徒たちへ役割を言葉にして渡した。
「砂丘日陰班、二名。氷雨監視一。点呼係一。七拍ごとに声。異常なら黄旗三回。私は搬送へ入る」
「受理!」
役割を分ければ、責任が消えるわけではない。
責任を一人の身体へ集めずに済む。
引き布を進める。
右膝が痛み四へ上がる。
「痛み」とドラン。
「四」
「十五分まで、あと二分」
「分かっています」
「声に出した」
「受理」
黄境界まで三十歩。
霧の向こうから医務班の白旗が見える。
境界扉は半分しか開いていない。
雷雲区の放電を受け、全区画の扉が防火幅へ自動制限されている。引き布を横にすると通らない。
「縦へ回す」とハル。
「首が振れる」とドラン。
「扉を広げる」とティア。
「中央命令で固定」とドラン。
「手動解除は」
「規則外」とハル。
ティアは剣の目盛りをなぞった。
今の局所危機だけを見れば、手動で開くのが正しい。雷雲の圧力まで見れば、境界扉を広げることが別の放電路を作る可能性がある。
「医務班、扉の向こうから引き受けられる幅は」
『一人ずつなら』
「引き布の固定を解き、担架板へ移す。首保持三名」
「時間かかる」とハル。
「扉を壊すより測れる」
「壊すとは言ってない」
「あなたの顔が言っています」
「顔を証拠にするな」
セレナなら、見た事実として記録し、意図までは書かないだろう。
ティアはそう思い、少しだけ呼吸を戻した。
移し替える。
医務班が負傷者を受け取る。
白旗が上がる。
砂漠班の実負傷者は、中央医務所へ渡った。
密林区の火は、その間にも大きくなっている。