第76話 第二章「救難旗と待機命令」後編
医務班へ実負傷者を渡しても、砂漠班の仕事は終わらなかった。
救助は、運び出した瞬間だけを切り取れば美しい。
実際には、そのあとに人数を数え直し、使った布を分け、血の付いた砂を踏まないよう印を置き、救助者が負傷していないか調べる時間がある。
拍手の入る隙間は、たいていそこにはない。
「全員、手を見せて」
ティアが命じた。
「なぜ手」とハル。
「氷片の切創、熱砂の火傷、ロープ擦過。本人が気づかない傷を確認する」
九人が両手を上げる。
ドランだけが右手を半分隠した。
「グランデ生」
「何でもない」
「何でもない、は状態名ではない」
「寒さで握力が落ちただけだ」
「痛み」
「一」
「本当は」とハル。
「貴様はセレナか」
「最近みんな聞くから」
「二だ! 右手首二。だが布は持てる」
「持てるかと、持つべきかは別」とティア。「次の搬送では左腕を主に。帳簿は右で書かない」
「帳簿を左で書けば字が崩れる」
「崩れた字より、崩れた手首の方が修復費が高い」
「会計で説得するとは卑怯だ」
「あなたへ届く言葉を選びました」
ドランは反論できず、左手へ鉛筆を持ち替えた。最初の数字が鏡文字になる。
「見ないでくれ」
「記録は読む」とティア。
「今は見るな!」
彼が視力を隠す時と、字の不得手を隠す時の声は似ていた。
人は弱点を一つだけ持つわけではない。強がりにも、それぞれ別の入口がある。
氷雨は弱まらない。
砂丘の表面は冷え、下の熱は逃げられず、足元から蒸気が噴き始めた。
黄杭の一本が傾く。
「地盤差、上昇!」
救難課生が叫ぶ。
ティアは双剣を砂へ刺した。
「全員、黄杭から三歩外――」
言いかけて止まる。
外側へ動けば境界に近づく。
内側へ集めれば蒸気噴出へ近づく。
同じ命令で全員を動かすには、条件が違いすぎる。
「訂正。歩行可能者は黄杭外側の石路。負傷者役解除済みの二名は日陰幕を持って北へ。右手首制限のグランデ生は点呼。凪野生は蒸気孔の位置だけ確認、越えない」
「ティアは」
「最後に移る」
「膝」
「四」
「本当は」
「四」
「聞き直しても増えない」
「数値は質問者の希望で変わりません」
ハルが蒸気の中へ走る。
走ってよい範囲を、ティアの規則円が細く示す。
彼女は残る生徒を一人ずつ石路へ送った。
一人。
二人。
三人。
数えるたび、十二歳の記憶が重なる。
あの日も訓練場だった。
隊列を破った生徒が一人、崩れた足場へ残った。幼いティアは助けに走った。後ろの列が彼女を追い、別の子が押されて落ちた。
助けた一人は無傷。
落ちた一人は右脚を折った。
大人たちは言った。
『例外を認めたからだ』
その後、記録の一部は家門の判断で消された。
だからティアは、例外を恐れるのと同じくらい、例外を隠す権力を恐れている。
「六人!」
ドランの点呼が飛ぶ。
「七人!」
ティアは現在へ戻る。
「凪野生!」
「ここ!」
「蒸気孔」
「三つ! 黄杭内二、石路際一! 石路際は五息ごとに噴く!」
「戻る」
「あと一つ見える!」
「戻る!」
声が一語ずつになる。
ハルは足を止めた。
遠くの蒸気孔を見る。あと六歩で位置が分かる。六歩行けば、次の避難路を正確にできる。
同時に、ティアの命令は、彼だけでなく後ろの七人を含んでいる。
「復唱。戻る!」
踵を返した。
石路へ戻った直後、見ようとした蒸気孔が噴いた。白い柱が黄杭を折り、鏡片を空へ飛ばす。
「行ってたら?」とドラン。
「避けた」
「避けられなかった場合を聞いている」
「分からない」
「なら、戻った判断を過小評価するな」
ドランは左手の崩れた字で、蒸気周期を書いた。
ハルは赤いマフラーの端を握った。
「待つの、嫌いなんだ」
「知ってる」とティア。
「置いていかれるみたいで」
いつもなら、そこまで言わない。
事故の霧は、人の顔を隠す代わりに、言葉を少しだけ出しやすくすることがある。
「私は、走る人が嫌いなのではありません」
「知ってる」
「走った人の後ろで、別の人が落ちるのが怖い」
「それも知ってる」
「なら」
「知ってても、今は意見が違う」
ティアは剣の目盛りをなぞった。
「知ることと従うことを同じにしない」
「ティアが言うと、規則っぽい」
「規則は、人の違いを消すためでなく、違うまま争う手順であるべきです」
「今考えた?」
「以前から考えていました」
「言葉は?」
「今できた」
「じゃあ俺も使う」
「引用元を明記して」
「高い?」
「一ルク」
「ドラン方式」
「会計は、責任の所在を残す技術でもあります」
ドランが口を挟む。
「私を便利な比喩にするな」
中央から、四区画の状況報告が流れた。
『氷原班。溶雪槽流量上昇。凍結警報あり。蒸気噴出なし』
『密林班。散水停止。樹冠温度上昇。火点二』
『雷雲班。境界弧増大。翼具一機損傷。人員軽傷一』
『砂漠班。地中熱差上昇。蒸気孔三。実負傷者搬送済み』
どの報告も、聞けば別々の事故に思えた。
ティアは通信札へ時刻を書く。
「八時十二分、砂漠冷却増。八時十三分、氷原凍結警報。八時十四分、密林弁閉鎖。雷雲放電は」
『八時十四分二十息』と中央のエリア。
「同じ時刻帯」
『ただし因果は未確定。並べただけで、つながったとしないで』
「受理」
ハルが通信筒へ顔を寄せる。
「エリア、中央は?」
『安全値内』
「本当は」
『六十二。上限七十。上昇中』
「それ、安全値内って言う?」
『数値上は』
「言い方の入口が狭い」
『今、表示を変えている』
中央庭園の警報盤が更新された。
『安全値内』
という緑文字の下に、赤い補足。
『上限へ接近中。四区画から流入』
「今の方が怖い」と砂漠班の一年生。
「怖さを減らす表示ではない」とティア。
「じゃあ何のため」
「何を選ぶべきか分かるため」
「怖くても?」
「怖いのに笑顔だけ見せる方が、あとで怖い」
一年生は盤を見て、黄旗を握り直した。
「僕、点呼係続けます」
「理由」
「数えるならできる。走るのは今、怖い」
「受理。怖さを撤退だけでなく役割へ変えた」
少年は少しだけ背を伸ばした。
恐怖を克服したのではない。
恐怖があるまま、できる仕事を選んだ。
砂漠の鏡塔が自動で角度を変えた。
氷雨による光量低下を補うためである。
予定どおりの動作だった。
だが、蒸気で散った光が密林境界へ反射し、緑の天蓋をさらに温めた。
「鏡塔停止を」とティア。
『砂丘地中熱が上がる』と砂漠教官。
「角度を半分」
『自動制御は全開か停止だけ』
「手動は」
『塔基部。蒸気孔の中』
ハルが見る。
「行ける」
「まだ言っていない」
「顔が」
「顔を証拠にしないで」
「でも行く案、考えた?」
「考えました。却下も考えている」
ティアは人数を数える。
鏡塔を半角へすれば密林への反射熱を減らせる。行くには蒸気孔を越える。ハルの肩条件と方向感覚。別の生徒を行かせるなら熱耐性が足りない。
「凪野生。役割は操作ではなく、索を通す。塔へ近づかない。ドランが手動輪を遠隔で引く」
「俺が回す方が早い」
「右手首二でも、グランデ生は低荷重なら継続可能。あなたは移動が得意。得意な人へ全部をさせない」
「ドラン、できる?」
「侯爵家では遠隔幕操作を――いや、家名は関係ない。輪径と索角度を見せろ」
防塵鏡を押し上げる。
ハルが蒸気周期を数え、低い姿勢で索を投げる。
一、二、三。
鏡塔基部の輪へ通す。
左肩を使わず、右腕だけ。
「通った!」
「戻れ!」
ドランが左腕へ索を巻く。右手は添えるだけ。
「一、二――引く!」
鏡塔が半角へ動いた。
密林境界へ当たる光が弱まる。
『樹冠温度、低下一』とロロ。
「火は消えない?」
『消えねえ。でも増え方が落ちた!』
ティアはその小さな成果を記録した。
全体を解決しない操作にも意味がある。
ただし、局所で正しい操作が別の場所へ何を送るかを、今度こそ問う。
「中央、鏡塔半角。砂漠地中熱への影響を監視。密林反射熱低下一」
『受理』とエリア。
「他区画への影響を」
『氷原、変化なし。雷雲、光電荷低下わずか。中央、流入熱一減』
「初めて、声で全部返った」とハル。
「本来そうあるべきです」
「本来を、事故の途中で作ってる」
「遅い?」
「今より遅いよりいい」
ティアは右膝を伸ばした。
痛みは四のまま。
待機は、何もしない時間ではなかった。
だが準備だけで救える時間には、限りがある。
「待機解除を要請します」
ティアは中央通信へ言った。
『理由』とオルト。
「砂漠班、実負傷者搬送完了。点呼全員。密林班へ地上支援路を作れる可能性があります」
『構造確認が終わっていない』
「終了見込みは」
『三十息』
「三十息後、解除されなければ」
『理由を更新する』
「受理」
ハルが聞く。
「三十息、待つ?」
「待つ」
「火は」
「見えている」
「マオたちは」
「声がある」
「声がなくなったら?」
「通信断二十息で物理避難路へ。規則にある」
「閉じたら」
「別条件を考える」
「今、考えない?」
「考えています」
ティアは怒っていなかった。
怒っていない声の方が、ハルには怖い。
「考えながら待つ。待ちながら、何もしないわけではない。ロープ、保温布、煙面、低位置担架を準備。ドラン、在庫。ハル、黄境界から緑境界まで、越えずに見える足場を記憶して」
「走っていい?」
「境界内。肩条件。戻る時刻を言う」
「二十息」
「十五」
「間を取って十八」
「交渉で安全線を動かさない」
「十七」
「十六。十六息で戻らなければ呼ぶ」
「成立」
ハルは走った。
完全な待機ではない。
待機解除の瞬間に、最初の一歩を迷わないための準備だった。
ドランは救難箱を開く。
「煙面六、低位置担架二、保温布四、予備旗――」
数える手が止まる。
「予備旗が一つ足りない」
「ピコでは」とティア。
「配布前に棚へ十五。配布十二、残り三のはずが二」
「ハルの追加旗?」
「あれは別帳だ」
「誰かが持ち出した?」
「記録がない」
ティアは緑の煙を見る。
誰かが規則外で旗を持ったのかもしれない。
訓練参加者が、予備を善意で持っていっただけかもしれない。
今は一つの欠品。
まだ意味は付けない。
十六息目、ハルが戻った。
「緑境界、上の橋は煙。下の保守路は扉閉鎖。中央庭園側、風が全部そっちへ流れてる」
「全部?」
「砂漠の蒸気も、雷雲の雲も。真ん中が吸ってる」
中央庭園の上空で、白、赤、緑、紫の雲が混じり始めていた。
安全装置は、各区画の危険を中央へ排出している。
砂漠の熱。
氷原の冷気。
密林の煙。
雷雲の電荷。
一つずつなら、中央庭園の炉が受け止める。
四つ同時は、訓練条件にない。
警報盤の表示は、各区画についてこう告げていた。
『安全排出中』
四つとも正常。
真ん中だけが、危険になっていく。