第78話 第三章「正常な故障」後編

 低所水路へ移す前に、マオは全員の身体条件を聞いた。

「自力で這える人」

 六人が手を上げる。

「煙で目が痛い人」

 三人。

「狭い場所が怖い人」

 誰も上げなかった。

「怖くても上げていい」

 一年生の少年が、ゆっくり手を上げた。

「閉じた所で、息ができなくなる感じがする」

「実際に息が止まったことは」

「ない。でも、止まる気がする」

「気のせい、で終わらせない。先頭の次に入る。前と後ろに声がある位置。止まりたくなったら『止まる』と言う。理由は後でいい」

「足を引っ張る」

「止まると言えず途中で動けなくなる方が、全員止まる」

「それ、僕のため?」

「全員の便利」

 マオは少し考え、言い直した。

「あなたのためでもある」

 少年は頷いた。

 配慮を全体の効率だけで説明すれば、受ける本人はまた部品になる。

 本人のためだと言い切れば、今度は他の者へ負担を隠す。

 両方を言うのに、難しい言葉は要らなかった。

「担架は畳む。熱傷者は腹這い不可だから、側臥位で板を滑らせる。煙吸入の二人は、自分で進める方を先。ロロ、管の温度」

「入口四十二、十歩先三十五、分岐左二十九。右は四十八」

「左」

「水深が増えてる」

「どれくらい」

「足首――お前の装具なら接合部ぎりぎり」

「防水は」

「短時間なら。塩分が高いとあとで洗浄」

「費用」

「学院」

「書いて」

「今!?」

「後だと善意で無料にされる」

 ロロは補助腕の一本で、煤けた帳面へ書いた。

『マオ装具 緊急浸水洗浄費 学院負担』

「署名」

「お前、ドランより細かいな!」

「無料は借りになる」

「請求は権利だ。そこは同意する」

「じゃあ署名」

 ロロは油の付いた左親指を押した。

「正式印じゃない」

「生きて出たら書き直す!」

「約束?」

「作業予定!」

「それならいい」

 誰かの善意を受け取る時、マオは必ず対価を探す。

 幼い頃、装具を寄付されたことがある。寄付者は式典で彼女を壇上へ立たせ、「歩ける喜び」を話させた。新しい装具は確かに彼女を助けた。同時に、断れば恩知らずになる形で彼女の物語を所有した。

 それ以来、マオは値札を怖がらない。

 値段のない善意の方を怖がる。

 ロロはそれを全部知らない。

 だが、無料修理を尊厳の剥奪だと考える少年には、半分だけ分かった。

「請求書の宛名、学院長でいいか」

「設備課」

「学院長の方が払うの早そう」

「権限者へ全部集めるな」

「お前、ティアに似てきた」

「不愉快」

「向こうも同じこと言う」

 ロロは給水盤の下へ潜り、配線を一束ずつ分けた。

 古い黄銅線。

 十年前の青銅線。

 今年の銀線。

 設備は一度に作られたように見えるが、実際には歴代の修理が層になっている。

 王都の古い建物は、石より命令の化石に近い。

 初代設計者は、密林の散水だけを考えた。

 二代目は、氷原と水を共有した。

 三代目は、雷雲の誤作動を減らした。

 四代目は、中央炉へ統合した。

 誰も前の者を全否定しない。

 予算も時間も足りないから、古い設計の上へ新しい正しさを足す。

 正しさが重なりすぎると、どの線が誰の意図か分からなくなる。

「この赤線、説明書にない」

 ロロが言う。

「切る?」と上級生。

「説明書にないから切る整備員は、説明書より危険だ」

 線を追う。

 赤線は外部保全端子へつながり、そこから全扉の閉鎖錠へ分岐していた。

「古い一斉命令線」

「使われてる?」

「通電してる。今、熱い」

「誰かが命令した?」

「通電だけじゃ分からねえ。安全閉鎖が動けば熱くなる。送信元は中央記録に残る」

 ロロは端子へ触れず、周囲の煤を採取した。

「故意の痕?」

「まだ意味を付けるな」

 自分で言って、彼は舌打ちした。

「何」とマオ。

「ハルみたいなこと言った」

「悪化?」

「成長だと思いたい」

「請求できない成長」

「だから嫌なんだよ」

 端子の脇には、小さな手書き札が挟まっていた。

『雷季、閉鎖が一拍遅れる。赤線は抜くな。――整備員コル』

 日付は九年前。

 さらに下。

『遅延修正済み。赤線継続使用。――整備員ミル』

 五年前。

 その横へ今年の印刷札。

『外気共通化板導入。瞬時偏差抑制』

 三世代の人間が、同じ箱の中で別々の危険を防いでいた。

「コルとミル、今どこ」とマオ。

「一人は退職、一人は別空域。たぶん今日の事故を知らない」

「でも判断は残ってる」

「人がいなくなっても、配線は命令を続ける」

「規則と同じ」

「機械の方が外すの大変だ」

「人の規則も」

「確かに」

 ロロは札を剥がさず、透明板で保護した。

「古い人の判断を、古いからって捨てない。でも今の事故に合うかは調べる」

「それ、姉にも言える?」

 マオが不意に問う。

 ロロの補助腕が一瞬止まる。

「誰から聞いた」

「修理場で寝落ちした時。寝言」

「人の寝言を整備台帳みたいに読むな!」

「『姉』って一回。名前も何も知らない」

「いるかどうかも知らねえ」

「判断は残ってる?」

 ロロは答えなかった。

 補助腕のうち一本だけが、首の火傷痕へ触れた。

「今は機械」

「逃げた」

「優先順位!」

「あとで聞く」

「予約すんな!」

 ロロの怒りは、完全な拒絶ではなかった。

 完全な拒絶なら、もっと専門用語が減る。

 マオはそれ以上進まなかった。

 携帯散水器は三基あった。

 一基は訓練用。

 一基は本物の火災用。

 一基は故障札付き。

「故障札の理由」とロロ。

 上級生が読む。

「圧力不足。噴射距離三歩」

「三歩届けば、根床の火は消せる」

「故障品を使う?」

「壊れてる場所が分かってる機械は、使い方を変えられる」

 ロロは故障器の管を短く切り、先端を広げた。

「距離を捨てて流量。遠くへ飛ばさず、足元へ撒く」

「修理じゃない」

「役割変更だ」

「元に戻さない?」

「今は戻す必要がない。火を消したあと、正式修理」

 機械を元どおりにすることが、必ずしも直すことではない。

 今必要な働きへ変えることも修理である。

「誰が持つ」と上級生。

「私」

 マオが言う。

「重い」とロロ。

「床を滑らせる。装具の重心なら倒れにくい」

「肩は」

「右肩三。引ける」

「先に聞く。補助腕で支えていいか」

「右側だけ。左脚へ触らない」

「許可?」

「許可」

 二本の補助腕が散水器を支える。

 マオが右腕で取っ手を引き、低い姿勢で根床へ水を撒く。

 火の壁を消すのではない。

 低所水路までの三歩幅だけ、燃え移りを遅らせる。

「一列目、移動!」

 煙を吸った二人が這う。

「止まる!」

 狭所を怖がる少年が叫んだ。

 全員が止まる。

「息、できる?」

「できる。でも前が暗い」

「ピコ」

 機械鳥の腹灯が点く。

「光、見える?」

「見える」

「前にピコ。後ろに私の声。動ける時、自分で言って」

 十息。

 二十息。

 火は近づく。

 誰も「早く」と言わない。

「動く」

 少年が自分で言った。

 列が進む。

 待った二十息は、全体にとって損失だった。

 同時に、途中で彼が動けなくなり全員が煙の中へ詰まる損失を防いだ。

 速度とは、止まらないことではない。

 必要な停止を、必要な場所へ置くことである。

 二列目。

 熱傷者を板へ載せる。

 マオの固定術は使わない。

 今使えば、後の扉解除で足りなくなる。

「温存」と上級生。

「私が決めた」

「確認しただけだ」

「なら言い方を。『使わない判断を確認』」

「使わない判断を確認」

「受理」

 ロロが笑った。

「ティアが二人いる」

「一人でも多い」とマオ。

「本人に言え」

「言ってる」

 通信筒の向こうで、ティアがくしゃみをした気がした。

 全員を水路側へ移し終えた時、携帯散水器の水が切れた。

 火は完全には消えていない。

 だが三歩幅の濡れた帯が、避難路と炎を分けている。

「成功?」と一年生。

「途中成功」とロロ。

「それ、成功?」

「目的を小さく言えばな。『密林火災を鎮火』なら失敗。『九人が水路へ移る時間を作る』なら成功」

「言葉で勝ちにしてない?」

「先に目的を言っただろ。あとから変えたら詐欺。先に小さく決めるのは設計」

 少年は少し考えた。

「僕、さっき止まった」

「止まるって先に言った」

「成功?」

「自分で再開した。成功」

「怖くなくなってない」

「修理は新品にすることじゃねえ」

 ロロはそう言って、自分の補助腕を見た。

「動ける形にするだけでいい時もある」

 マオは聞いた。

「あなたも?」

「何が」

「補助腕がないと役に立たないって思うところ」

「今それ聞く!?」

「あとで、って言った」

「事故中だぞ!」

「事故中だから、次があるか分からない」

 ロロは笑わなかった。

「思う。毎日。こいつらが外れたら、俺は手が二本の、学校の綴りも弱い、煤臭い十四歳だ」

「手が二本なら普通」

「普通が怖いんだよ。普通なら、交換される」

「私は装具が壊れたら、人格まで無力って判定されるのが怖い」

「似てるって言うなよ」

「違う。私の脚とあなたの腕は同じじゃない。でも、怖さの入口が近い」

 ロロは一番下の補助腕で、携帯散水器の空槽を軽く叩いた。

「これ、壊れてた」

「役に立った」

「壊れてても役に立つ、は慰めにならねえぞ」

「壊れてるって誰が決めた」

「故障札」

「遠くへ飛ばないだけ」

「……役割が合ってなかった」

「あなたも?」

「上手いことまとめんな」

「合格?」

「お前は試験官じゃねえ!」

 声が水路へ響き、先に進んだ少年たちが笑った。

 その笑いの下で、外部保全端子の赤線がさらに熱を持った。

 給水管の圧力針は、ゆっくり上限へ近づいていた。

 地の底から、巨大な水音がした。

 今までの管鳴りとは違う。

 水が管を走る音ではない。

 管の中に、水より大きな何かが生まれた音だった。

 熱せられた溶水が、狭い枝管で蒸気へ変わり始めたのである。

 密林の根床が持ち上がる。

 閉じた給水弁の向こうで、圧力針が一周し、止め金を折った。

 青い表示光が、砂漠区画へ向かって走る。

 氷原の水が、火より熱くなって。

 砂漠へ逆流した。