第79話 第四章「氷原で燃える水」前編

火は赤い、というのは、火を遠くから見た者の感想である。

 近くの火は白い。

 さらに近ければ、色はない。

 熱だけがあり、熱の中では目も喉も皮膚も、それぞれ別の方法で「逃げろ」と叫ぶ。

 水は冷たい、というのも同じだった。

 水は、人が触れられるあいだだけ冷たい。

 氷原の底で加熱され、逃げ場を失った水は、火より静かに人を焼く。

「景気が悪いな」

 カイル・アークレイは笑った。

 氷原が割れていた。

 白い平原の亀裂から蒸気が噴き、雪を下から空へ吹き上げている。訓練用の氷丘は一つずつ浮き、互いにぶつかり、青い水路へ落ちる。その水路の水が、煮えていた。

「殿下、感想ではなく退避条件を」

 セレナ・クロウの低い声が、風の中でも乾いて届く。

「感想は無料だ」

「王室の発言に無料はありません」

「では国家予算から引いてくれ」

「記録しました。私的冗談を公費へ転嫁」

「罪状の名前が長い」

「あなたが増やすからです」

 そのやり取りの間にも、カイルの右腕では炎が膨らんでいた。

 守る人数で燃える王盾〈レグルス・ガード〉

 彼の背後には七人いる。氷原班の生徒五人、教官補一人、足首を挫いた訓練生一人。

 七人分の赤金色が、盾の縁へ獅子の鬣を作る。

 蒸気の奔流が来た。

「伏せろ!」

 盾と蒸気がぶつかる。

 音は爆発ではなかった。

 巨大な獣が、歯を噛みしめたような低音だった。

 赤金の盾面へ白い霧が押しつけられ、一瞬で水滴になり、次の瞬間にはまた蒸気になる。熱が往復する。盾の光は熱を止めるのではない。守るという誓いへ変換し、受けた力の一部をカイルの身体へ返す。

 右前腕。

 肋骨。

 背中の火傷痕。

 古い痛みは、新しい危険が来るたび、自分もまだここにいると律儀に名乗る。

「全員、左の氷棚へ。走るな、三歩ずつ!」

 カイルの声は明るい。

 明るすぎる声は、セレナにとって負傷報告の一種だった。

「痛み」

「二」

「部位」

「王族の威厳」

「身体部位ではありません」

「右腕、一。背中、一。肋骨――気のせい」

「数値を」

「一・五」

「整数で」

「四捨五入は政治だぞ」

「医療です」

「では二」

 セレナは黒い証羽へ書く。

『八時十六分。カイル・アークレイ、右前腕痛二、背部痛一、肋部痛二。本人は最初、肋部を申告せず』

「最後の一文は要るか?」

「最も要ります」

 蒸気が薄くなった。

 盾の表面に新しい亀裂が一本残る。カイルはその線を見て、口角を上げた。

「こいつは『白髭峠』だな」

「盾の傷へ地名を付ける行為は、損傷評価を妨げます」

「番号だと忘れる。地名なら覚える」

「存在しない地名です」

「今できた」

「では正式な位置情報を」

「右上、縁から三指。長さ十八セン――」

「セン?」

「ハルの故郷の単位。最近便利でな」

「公的記録には星寸を使います」

「文化交流は厳しい」

 カイルは盾を下げなかった。

 水路の向こうに、氷原設備の給水担当がいる。中年の整備員が、手動輪を両手で押さえていた。

「流量を上げたのはあなたか」

 セレナが問う。

「そうです!」

 整備員は蒸気越しに叫ぶ。

「砂漠区画で冷却需要が急増した。中央給水だけでは足りず、氷原の溶雪槽を開いた。火災時連携規則、第三十六条!」

「密林の火災前ですね」

「最初は砂漠の異常高温です! 氷雨が落ちた直後、砂温が跳ねた。急冷で地盤が割れるのを防ぐには、水を増やすしかなかった!」

「時刻」

「八時十二分、手動開弁。記録輪に刻んだ!」

 整備員は輪の側面を指す。

 黄銅の歯へ、爪で引いた一本線。正式な電子記録とは別に、手で開けた者が残す古い印である。

 セレナは証羽を飛ばした。

 黒い羽が輪の周りを一度回り、位置と刻印を写す。

「流入水の加熱は」

 別の教官補が手を上げた。

「私です」

 声が震えていた。

「氷結警報が出た。外気温表示が急低下したから、主水脈の凍結防止を三段階へ上げた。管が凍れば、全区画の水が止まる」

「時刻」

「八時十三分」

「温度表示を確認した者」

「三人」

 三人が手を上げた。

 嘘ではない。

 温度表示は確かに低かった。

 三分前の氷雨を見ていたからである。

「流量を増やした」

 カイルが言う。

「凍らないよう温めた」

「はい」

「増えた水が温まり、密林の逆流弁が閉じた」

「それは……知らなかった」

「知らないのは罪か?」

 整備員が顔を上げる。

 王太子へ問う声ではなかった。

 一人の現場責任者が、これから自分の人生を決めるかもしれない相手へ問う声だった。

 カイルは冗談を止めた。

「今は決めない」

 声量が落ちる。

「知らなかったことと、知る仕組みがなかったことと、知ろうとしなかったことは別だ。ここで一つにすると、次も同じになる」

 セレナの証羽が一枚、低く飛んだ。

 その言葉を記録した。

「ただし」

 カイルは盾の陰にいる七人を見る。

「今、俺たちの足元で水が煮えている。責任の分類はあとだ。まず生き残る」

「復唱します」

 整備員が言う。

「生き残る。記録を残す。判断はあと」

「良い」

「殿下」

 セレナが呼ぶ。

「何だ」

「あなた自身も対象に含めてください」

「王太子は国家設備だ」

「では保守規定に従い、過熱時は停止を」

「国家設備の口が達者だ」

「停止」

 カイルは笑って盾を掲げた。

「あと一回」

「撤回してください」

「今、向こうに三人いる」

 氷丘の先、浮いた監視台に三人が取り残されていた。

 下の水路は沸騰し、橋は蒸気で見えない。

「俺が盾で渡す」

「あなたの肋部痛は二」

「三人増えれば盾が強くなる」

「痛み返しも増えます」

「計算が合う」

「あなたの勘定だけです」

「守られる側の勘定も入っている」

「あなたが支払うと勝手に決めた」

 セレナの敬称が、完全になった。

「カイル・アークレイ王太子殿下。あなたは自己犠牲を救難計画と呼ぶ癖があります」

「正確な告発だ」

「訂正してください」

「では共同犠牲は?」

「却下」

「無犠牲は時間が足りない」

「代替案を待つ時間を数えていません」

 カイルは監視台を見る。

 蒸気噴出の周期は十二息。弱まるのは四息。橋は半分崩れている。

「四息で三人を動かせるか」

「一度には無理です」

「なら二回」

「盾を二回使う」

「そうなる」

「痛みを隠さない条件を」

「面倒な契約だな」

「誓いではありません。報告です」

「痛み三で交代」

「二・五」

「整数」

「医療に四捨五入は不要です」

「なら三」

「申告遅延が一度あれば二で停止」

「厳しい」

「正確です」

「成立」

 カイルは右籠手を左拳で二度叩いた。

 盾が広がる。

 今度は壁ではない。橋の上へ細長く伏せ、赤金の屋根になる。

「第一組、二人! 蒸気が弱まったら走れ!」

 白い噴流。

 赤い光。

 その隙間を、二人が駆ける。

 カイルの肋骨が軋む。

「痛み」

「二」

「声が上ずりました」

「寒い」

「虚偽」

「二・五」

「数値受理。次を止めます」

「あと一人だ」

「交代要員を」

 だが交代できる盾使いはいない。

 力は平等ではない。責任も、単純には平等にできない。

 だからといって、持つ者が無限に支払ってよい理由にはならない。

 カイルは残る一人を見る。

 小柄な一年生。恐怖で足が動かない。

「名前は」

「ネ、ネロ……」

「ネロ。走れなくてもいい。這え」

「無理です」

「無理を細かく言え」

「立てない。前が見えない。息が――」

「立たなくていい。見なくていい。息は一つずつ。俺の声だけ数えろ」

「殿下の声、うるさいです」

「良い。それだけ聞こえてる」

 蒸気が弱まる。

「一」

 少年が手をつく。

「二」

 膝を出す。

「三」

 這う。

 蒸気が戻る。

 盾が軋む。

 カイルの背中で、獅子形の古い火傷が燃えた。

「痛み」

 セレナの声。

「三」

 今度は、すぐ答えた。

「停止」

「ネロが――」

「あと二歩。私が引きます」

 セレナは盾の端へ踏み込み、右手で少年の襟を掴んだ。左目側の死角を盾へ向け、見える右側だけで蒸気の切れ目を読む。

「今」

 引く。

 少年が氷棚へ転がり込む。

 同時にカイルの盾が消えた。

 赤金の光が砕け、蒸気が天へ抜ける。

 カイルは膝をついた。

 右ではなく左膝。古い槍傷のある方だった。

「景気が――」

「冗談禁止」

「厳しいな」

「恐怖時に食べ物の冗談を言う傾向も記録済みです」

「まだ食べ物を言ってない」

「次に苺と言う顔でした」

「顔は証拠になるのか」

「観察です」

 セレナは彼の右籠手を外した。

 手首の星痕が赤く腫れ、前腕に熱がこもっている。

「冷却」

「氷原で?」

「水は熱い。雪はあります」

 雪を布へ包み、腕へ当てる。

 カイルは顔をしかめた。

「痛み」

「冷たい」

「数値」

「三」

「受理」